1話 「Xガール」の恋の思念
『――サトル君……大好き』
机の上に頬杖をつく。
白く広がるグラウンドをぼんやりと眺めながら、俺は恍惚の中に漂う。
『――大好きだよ』
どんな言葉よりも直接的で、どんな声よりも透き通った……優しくて暖かい声。
そんな至福の心地よさが、どこからともなく湧き上がっては胸の奥にじんわり広がって滲んでいく。
この思念を受け取るのはこれで三回目だ。
二週間前の水曜日。先週の木曜日。そして今日……。
『――大好きだよ、サトル君……』
悟という名前の男子はこの学校に俺しかいない。人違いという事も無いだろう。
やはり、俺に好意を寄せてくれている女の子は確実に存在する。
今この時も……彼女は一途で健気な恋の思念を送ってくれている。
こんなに出来過ぎた幸せが、他にあるだろうか。
『恋愛という情緒的なものは、冷徹な理性とは相いれない』などと、ホームズを引用して強がっていた事もあったが……恋がこんなに素晴らしい物だったとは。
時を忘れて浸っていると、やがて思念がフェードアウトしていく。名残惜しく頬杖を組みながらも、心地よい余韻を楽しんでいく。
この恋の思念のお陰で最近の俺は乗りに乗っていた。
なんせ生まれて十七年この方全くモテなかった俺に、やっとこの世の春が来たんだ。
こんな箸にも棒にも掛からない俺のどこを好きになってくれたかは知らないが、今はとにかく毎日が楽しくて仕方ない。
……だが、人間と言うのは欲深い存在だ。一つ欲求を叶えると次の欲求を叶えたくなる。
そんな平均的人間のご多分に漏れず、俺の欲求は次の段階へと進んでしまった。
要するに、俺は恋仲になりたくて仕方ないのだ。俺の事を想ってくれている、名前も顔も知らないあの女……Xガールと。
ああ。一体君は誰なんだ。麗しのXガールよ。
この名探偵……里島悟が、必ずや君を見つけ出して見せよう。
まだ見ぬ彼女の面影を思い描いたりしていると、頭の奥底が再び響き出す。
Xガール……また君なのか?
目を閉じて意識を集中させていく。
低く、唸るような声。……これは……怒り?
「……あ」
俺へと注がれる中年男性の鋭い眼光。思念の発生源が教鞭に立つ篠崎先生だと気付いた時には、もう手遅れだった。
「里島、なに授業中に鼻の下伸ばしてんだ?」
「す、すみません!」
◇
篠崎先生にたっぷり絞られた俺だったが、幸せ気分は絶賛継続中だった。
Xガール……一体どんな子なんだろう。
「――おい里島」
突然投げかけられたイケボに顔を上げてみる。
「あんだけ怒られたってのにニヤつきやがって。何かいい事あったのか?」
側頭部を刈り上げたツーブロック頭のイケメン、長谷村が机の前に立っていた。
「まだ秘密だ」
「なんだよそれー」
長谷村。俺の数少ない友達の一人だ。
俺と同じく推理小説が好きなので話が合うし、結構いい奴ではある。
……カワイイ彼女がいるのはムカつくけど。
「そうだ。里島聞いてくれよ……昨日絵美がさあ……」
「またその話かよ」
「いいから聞いてくれよぉ」
面倒くさい。
心を無にして、絵美さんと手を繋いだだの、カフェでデートしただの、どうでもいい話を適当に聞き流して行く。
全く現実感が沸かない。まるで別の世界の話でも聞かされているみたいだ。
――いや待てよ……。Xガールを見つけ出す事が出来れば、俺にも彼女ができるはずだ。そう考えたら、長谷村の話も傾聴に値するかも知れない。
「……昨日絵美とレインしてて、既読付けてから返信がちょっと遅れたら既読無視だって怒り出してよぉ……」
「なるほど。やはり既読無視は良くないのか。ちょっとメモする」
メモアプリ起動。女の子に既読無視はやめよう、っと。
「どうした里島。今日は珍しく熱心に聞いてくれるなあ」
「まあなー」
「もしかして、里島も彼女作る気になったか?」
「……そんな所だ」
小さく呟くと、長谷村は意外そうに目を見張る。
「どうした? いつもだったら『俺に彼女なんてできるわけねーだろ! 舐めてんのか馬鹿野郎!』とか逆切れしてくるのに」
「ちょっとしたアテがあんだよ」
「アテ?」
いつまでも勿体ぶっていても仕方ない。俺はXガールの件を打ち明ける事にした。親友の長谷村には俺がサトリ体質である事は教えてあるので話は早い。
「なるほど……そういう事か。最近の里島やけにイキイキしてるなと思ったら急にボーッとし出すし、妙だなと思ってたんだよ。良かったじゃねえか」
「ただ、いくつか問題があってな」
母方の家系が代々神職だった影響でサトリ体質を生まれ持った俺は、周囲の強い思念を声として感じ取る事ができる。しかし……
「読み取れるのは強い思念だけだったな。それに思念の送り主が誰かは分からないんだろ?」
そう……俺のサトリ能力には大きな制限がある。
長谷村の言う通り、読み取れるのは強い思念だけだし、思念の声質はぼんやりしているので、どこの誰が発している思念かまでは判別が付かない。その上思念を受信できるのはおおよそ、俺の周囲100メートル圏内に限られる。
確かな事は一つだけ。俺の事を強く想ってくれている女の子が、俺のそう遠くない近くに存在するという事。それだけだ。
それだけ分かっていれば、十分だ。
「なんしても、Xガールの正体を突き止めてやらないとな」
「おお、なんか探偵みたいだな!」
「だろお? 名探偵、里島悟! 俺に見抜けぬ恋はない!」
「……なんだそりゃ」
「そこは乗って来いよ!」
俺の抗議の目線に苦笑いを向けながらも、長谷村は声を落としてくる。
「で、Xガールの正体に思い当たる節は?」
「……ないという事もない」
1年の時同じクラスだった、隣の1組の鶴永さん。
思わずじっと見入ってしまう程、恐ろしく整った顔立ち。艶やかに靡く長黒髪。
口元の小さなホクロがセクシーな、掛け値なしの超絶美少女だ。
おまけに成績優秀でスポーツも万能ときた。
その他にも、雑誌の読者モデルに選ばれたとか、名だたるイケメンを容赦なく振っていったとか、子役でドラマに出たことがあるとか、華々しい噂にも事欠かない。
そんな鶴永さんが俺を好きになるなど、万が一もあり得ない話なのだが……どういう訳か一緒のクラスだった頃、鶴永さんとはしばしば目が合った。
鶴永さんの涼しげな切れ長の瞳が、ふとした瞬間に俺を射抜いている。そんな事が三日に一回程の高頻度で発生していたのだ。
その度に心臓をバクバク言わせながら目を逸らしてしまう俺だったが……もしかしたら、鶴永さんは俺の事を好きだったのかもしれない。
「どう思う?」
「絶対ねーわ。あんな美人がお前を好きになる訳がねえよ。鶴永さんはマジで止めとけ」
「……そうかあ」
うーん。言われてみれば確かに。
……でも可能性がゼロって事は無いと思うんだよなあ。
こういう時は、間を取って一旦保留としておくのが無難だろうか。
「他にはいないのか?」
隣の3組の明日香。
何というか平均的で普通の子といった感じ。結構可愛い。
家が近いので、小学生の頃にはかくれんぼとかして遊んだこともある。
そこまで仲が良かった訳でも無いが……一応幼馴染と言っても過言ではないのかも知れない。
「今は話したりしないのか?」
「しないな」
「じゃあ無いな」
「決めつけんなよ!」
「うーん。もっとこう、普段から話す女子とかいないのか?」
「普段からか……」
図書室でよく会う、同じクラスの霧山さん。
何気ない会話だが、一応三回くらい話したことがある。丸顔に黒縁メガネを掛けた大人しい子だ。
愛嬌がある丸顔が可愛いと言えば可愛い。そして何より……
「おっぱいデカいよな、霧山さんって」
野郎、平然と言ってのけやがって。
「寝取るなよ!」
「そういう事は寝てから言えっての」
おい!
「やめろよお前! マジで一生呪ってやるからな!」
「そんな必死になんなよ。安心しろって。俺は絵美一筋だから」
長谷村は柔らかな惚気スマイルを作っている。
……腹立つが信用は出来そうだ。
「他にはいないのか?」
頭を捻ってみるが、思い当たる節はなかった。
「じゃあ、明日香さんと霧山さんにコクるなり、デートに誘うなりしていけばいいだろ」
こいつ、自分がイケメンだからって気軽に言いやがって。
「……もし断られたらどうすんだよ!」
「断られたら、他の子に当たればいい」
「嫌だ……断られたら辛すぎて死ねる……」
忘れもしない。蒸し暑い夏の日に味わったあの苦渋。
……あんな思いをするのは、もう二度とごめんだ。
思わず頭を抱えていると、長谷村がわざとらしく大きな息を吐きかけてくる。
「お前なあ……そうやってウジウジしてる男は、彼女出来ても速攻でフラれるぞ」
「うぐっ……」
正論かも知れない。俺自身がもっとXガールに相応しい男にならなければ、Xガールと恋仲になれた所で、きっと幻滅されて長続きしない。
「どうすんだよ、里島。このまま何もしないと一生童貞だぞ」
「…………」
確かに俺には、大分ハードな恋愛トラウマがある。
もう恋なんてしたくない。そう思った事さえあった。
しかし今……俺の手の届く範囲に、Xガールという名の明確なチャンスがある。
ここで逃げだしたら、男じゃない。
今こそ過去のトラウマを克服し、一歩踏み出す時だ!
「よし、決めた! 俺はやるぞ!」
「その意気だ」
「自分から行動して、Xガールにもっともっと惚れられて、向こうから告白して貰うんだ!」
我ながらいいアイディアだ。
この方法なら、俺の繊細なハートが無暗に傷つく事態は防げるはずだ。
「……お前は後ろ向きなんだか、前向きなんだか」
「後ろ向きに猪突猛進が、俺のモットーだ」
「まあ別にいいけど。それで具体的にどう行動するんだ?」
「…………」
うーん。
「長谷村、なんかいいアイディア無いか?」
「そうだな……里島のサトリ能力を生かして、事件を解決してやるとかどうだ?」
まあ、腹痛に悩んでいるおっさんに胃薬を差し出してやったり、成り行きで暴漢を撃退したりとかなら幾度かあるにはあるが……
「……事件なんて早々転がってないぞ。それに、そういうのはおおっぴらにするより、秘密裏にやった方がカッコいいだろ?」
「確かになあ。じゃあ……筋トレしまくるとか、勉強しまくるとか、部活作るとか……」
長谷村のセリフの一端に気になる言葉があった。
「部活を作る?」
「モテモテで有名な星谷先輩いるだろ? あの人もダンス部作ってからモテるようになったらしいぜ」
「へぇー」
部活を作る……なるほど……部活を作るか。確かにすごくモテそうだ。
それに、何だかすごく楽しそうだ。
よし! 決めた!
「長谷村! 新しい部活を作るぞ!」
「どんな部活を?」
「うーん……」
またしても頭を捻っていると、机の上に閉じた『444号室殺人事件』に目が留まる。
「これだ!」
「この推理小説がどうかしたのか?」
「推理部を作るんだ! 普段は推理小説読んだりしてるだけだが、事件が起これば直ちに豹変! 探偵顔負けの推理で複雑怪奇な謎を瞬く間に解き明かしてしまうのだ!」
「……何だよそれ! すげえ楽しそうじゃねえか! もちろん俺も入部するぜ!」
「さっすが長谷村。話が分かるねぇ」
早速俺は教室を出て一階の職員室の扉を開く。
「先生! 俺、新しい部活を作りたいんです!」