カハク
この森の奥の誰も寄りつかないような場所で、小さな小さな子供が泣いていた。この子供は決して、家に帰れずに泣いている訳ではないし、ましてや空腹でもない。
こんな深くまで来る人は自殺志願者である、と相場が決まっている。ここにはとっても大きくて立派な木がある。人がひとりぶら下がっても折れないような、丈夫な枝が丁度良い高さに生えている。首をくくるにはおあつらえ向きの木だ。
初めに来たのは中年の男性だった。もう何十年も前の話だ。彼は騎士として王国に仕えていて、それなりに人望もあった。優しく、強く、正義感に溢れた男だった。
男は危険な仕事であろうと快く引き受けたし、家に帰ることが少なくても決して弱音を吐いたりはしなかった。自慢の家族のために働いてることを誇りに思っていたからだ。
しかし、男が久しぶりに家に帰ると、妻と見知らぬ男が抱き合っている瞬間を見てしまったのだ。男は全てを察した。自分の誇りが無意味であることも。
男はそれでも復讐を考えたりはしなかった。彼は優しすぎた。その優しさに押し潰され、最後には森の奥底で自らの人生に終わりを告げた。
次に来たのは、青年だった。何をやるわけでもなく、ふらふらと生きてきていたのだ。親のスネをかじっては、虚しさを誤魔化しながら生きていた。そんな毎日を繰り返すとどうしても考えてしまう。「自分はこの世には必要がない」と。
疲れきってしまったのだろう。代わり映えのない毎日に。自分がこれから、どれほどの努力をしても成功が掴めない現実に。
次に来たのは……たしか、若い女性だったはずだ。気の弱い彼女は女社会で標的とするには恰好の的だったようだ。
逃げ出す勇気さえ持てず、ただ毎日を、流れ来る理不尽と共に過ごしていたのだ。周りに被害を訴えれば、少しの間だけ大人しくなる。それでも、しばらくすれば反動のように、より強い理不尽がやってくる。
そんな辛い日々を終わらせる方法を彼女はひとつしか知らなかった。だからここへ来たのだろう。
次は……どうだったろうか。少なくともこれだけではなかったはずだ。
この木は、丁度良過ぎたようだ。
そしてまたひとり、この森の木に向かってくる人の足音が聞こえる。きっとまた、同じなのだろう。
「はぁ…………ここはどこだろう?」
長い髪を後ろで結んだ少女がやって来た。
「大きな木だなぁ。ちょっとひと休みしていこうかな」
少女は木の側に腰を下ろして休み始めた。
「……ふう。あ、あれ? あなたどうしたの?」
少女は子供の存在に気づいた。そして泣いていることがわかると、荷物のなかから手拭いを取り出して、子供の涙を慎重に拭いた。
「よし、キレイになった。せっかくカワイイのにもったいないよ」
少女は涙を拭いた手拭いをしまい、笑顔で言った。
「ねえ。この森に詳しかったりする? 道に迷っちゃって……あ、言葉はわかるかな?」
さっきまで泣いていた子供はうなずく。
「よかった。私はサヤカ。あなたは?」
子供は答えない。
「………………もしかして、喋れないの?」
その言葉に小さくうなずく。
「そっか…………それでさっきの話なんだけど、森からどうやって抜ければいいかわかる?」
その言葉にうなずく。
「ほんと!? ねえ、私を出口まで案内してくれない?」
その言葉に元気よく、体全てを使うようにうなずく。
「ありがとう! じゃあほら、私の手に乗って」
子供は案内を喜んで引き受けた。サヤカの手のひらの上に乗り、身ぶり手振りで案内する。その表情は先ほどまでとは、うってかわって明るかった。
いたくうれしかったのだ。生まれてはじめてだったからだ。殺す以外に人のためになれたことが。
(カハク 終わり)