力の指輪
賢者レオと呼ばれる者がいる。もちろんこの「賢者」というのは自称でもなければ職業なわけでもない。
彼の功績を称えて、いつしか誰かが言い始めたのだ。そしてその呼び名が、人々に馴染んで浸透した。何をしたのかと問われれば、有り体に言えば生活を便利にした。そう返せばよいだろう。
木と木をこすり合わせて火を起こす時代を終わらせるように。遠くの川まで行って洗濯をしたり、水を汲んだりするのを古臭いと思わせるように。熱気や冷気は風に攫われ快適に、さらに土たちは踊るように耕される。
そんな時代の先駆者がレオだ。
レオは好奇心旺盛で、気になるものは取り敢えず手を付ける。そうして色々と探っては、仕事を放り出して次の興味に移る。それまでに作った中途半端な創作物は、まるで余り物のお裾分けでもするように簡単に譲ってしまう。
こんなことを繰り返しているのだが、興味を持っている途中で生み出される物が人々の関心を惹き、後継者を生み出していた。
そう言った事情でレオ自身が完成させたもの自体はそれほど多くないのだが、レオが始めたものを受け継いだ誰かが完全な物にすると、自ずと良いものになる、といった具合だ。
そんな偉大な人間が最近関心を抱いているのは特別な魔法だ。
火、水、風、土といった、努力で身につけられるものではない。本人の生まれ持った才能でしか発することの出来ない魔法。
そのひとつは聖女と呼ばれるミカの癒やしの魔法。
レオが興味を持ったものに対してまず初めにすることは、知ることである。
癒やしの魔法を知るためには何をすればよいだろうか。それは当然癒やされることだ。
擦り傷、切り傷、打ち身、捻挫、打撲。そうした怪我を負っては聖女の下へ。
火傷、脱臼、骨折。レオは老体を傷つけては聖女を訪れた。
聖女の魔法の力は絶大で、「聖なる」という言葉に値する威力だった。
それは文字通り、「死ななければ治る」そう評価するのが妥当であるとレオは結論付けた。
そして作られたのが魔道具、癒やしの指輪である。その魔法は聖女の足元にも及ばない程度ではあるが、擦り傷、切り傷程度なら治せる。他の怪我も完治は出来なくても、痛みを和らげることくらいは可能だ。もちろんレオは満足しておらず、更に改良を加えようとしているがそれは別の話。
そしてもうひとつ、レオが興味を持ってしまった、と言える魔法がある。それは王国騎士団のひとりであるロウの身体強化の魔法だ。
ロウの血筋でのみ受け継がれている身体強化の魔法は、人体の限界を遥かに上回る力を発揮することが出来るという、それは素晴らしい、あるいは恐ろしいというべき魔法だ。ロウがこの魔法を使用している間は、たとえ体格が圧倒的に大きく体重が桁違いに重い、ロウを丸呑み出来てしまいそうな大鬼と腕相撲をすることになったとしても、人差し指だけで圧勝してしまうだろう。
とは言え、この魔道具を作るために、ロウと腕相撲をするわけではない。魔法を使ったロウを観察して、観察して、観察するのだ。とにかくモノづくりの基本である観察を欠かさない。そうやって今までも生み出してきたのだ。
そんな男を人々は賢者と呼ぶが、その実態は……。
「まったくアイツらめ。ますます監視が厳しくなってきたな。おちおちひとりで散歩も出来ん」
老人は顔を隠すように被り物をして、街を足早に歩いていた。顔を隠しても胸元まで伸びている立派な白ひげは隠せていない。
その指には紅色に光る指輪をはめている。
「たしかに聖女の魔法を受ける時に数え切れないほどの怪我を負ったが、こうも過保護にされては頭にカビでも生えてしまいそうだ」
ブツブツと文句を言いながら老人の向かう先は王都の外へとつながる門だ。
老人は「くくく」と噛み殺すようにニヤけづらをしながら、紅色の指輪を見つめた。
「早くこいつを試してみたくて疼いてしまう」
門を抜け、開けたところに出る。
「よし、ここいらでいいだろう」
老人はその場で軽く飛び跳ねたり、屈伸運動を繰り返した。
「準備運動よし、体は十分に温まった」
そして体を低くかがませて、指輪に集中する。
すると老人の体を包むようにほのかに赤色の光が湧いてくる。
「よし、よし、よし。いつぶりになるだろうか。胸の高鳴りが抑えられないほどだ」
老人は手を膝に置き、
「さあ動けこの体よ! 私は今! 風を置き去りにするのだ!」
力の限りを尽くして駆け出した。
王都の門を抜け、少し出たところには見晴らしの良い平原がある。このあたりは魔物と分類される危険な生き物が活動していることは多くなく、比較的安全な場所である、と言ってもよい。
どれくらい安全かと言われると、サヤカでも警戒することなく大手を振って歩けるくらいには安全である。
何が言いたいかと言うと、サヤカは今、平原を歩いているわけである。背中には籠いっぱいに薬草、山菜、果物といった収穫を担いでいる。
鼻歌でも歌って、青空が吹き抜け、緑広がる平原を歩いていると、何かが転がっているのが見えた。
見晴らしの良い、整備の行き届いている場所では、何かが落ちているということはめったにない光景だ。サヤカは身をかがめて警戒態勢に入る。
しばらくジッと見つめていると、何やらもぞもぞと動いているのがわかった。どうやら生き物のようだ。
警戒はますます強くなる。抜き足差し足で音を立てずに、その生き物の正体を確認する。
何やら、白い毛が生えているのは確認出来た。そして胴体と思われる部分が痙攣している。
「な、なに……?」
「だ、誰かそこにいるのかい……?」
「しゃ、喋った……? わあ! おじいさん!?」
その物体の声を聞いた途端に正体が鮮明になった。
うつ伏せに倒れている男性の老人であった。ひとまず体をひっくり返しその様子を伺う。
「あの、大丈夫ですか?」
「すまないが、大丈夫とは言えそうにはないんだ」
老人は変わらず小刻みに震えている。
「立てそうですか?」
「それが今指先ひとつピクリと動かすのさえ大仕事なんだ。何せ全身くまなく悲鳴を上げているからね」
自嘲気味に苦笑する老人。
「それでは、肩を貸します。それでなんとか歩けますか? 教会まで連れていきます」
「本音を言うならおぶってもらいたいところなのだが、お嬢さんの背中には既に荷物があるからね。贅沢は言わんよ」
「すみません」
「謝ることはない。こうして手伝ってもらえるだけでも大助かりだ」
老人の腕を肩に回して王都の方へと歩きながら、老人の先ほどの状態について話を聞いた。
「ところで、どうしてあんなところで倒れていたんですか? もしかして魔物が……?」
「いや、実は……」
老人は説明を始めた。
ある魔道具を実験的に使ってみたところ、制御が上手くいかず、倒れてしまうハメになったのだと。
「なるほど……魔道具でそんなことに」
サヤカは「そんな危険な魔道具あったかな?」と小首を傾げたが、自分もそこまで詳しいわけではないので、そういうのもあるのだろうと軽く受け流した。
そうこう話しているうちに門を抜ける。
そこから教会に向かうまでの間に、珍しい知り合いと顔を合わせた。
「何してんだ?」
声の主を探すとそこには、サヤカにとって冒険者としての兄貴分的存在のキッドが立っていた。帽子を深くかぶっているキッドの表情は常に読み取りづらいのだが、行動はサヤカにとって大概親切だ。
「どうもキッドさん。実は外でおじいさんが倒れてまして、教会に運ぼうとしてるところです」
「おじいさん……?」
俯いていた老人が顔を上げ、キッドに向かって微笑みかける。
「やあ」
しっかりと目が合った、キッドの表情が刹那の間だけ歪む。
「あんたか……変人レオ」
「変人、レオ……?」
サヤカはその不穏な呼び名に疑問が湧いた。
レオと呼ばれた老人は笑った直後に体の痛みを感じ、軽く呻いたが、キッドはそんなことはお構いなしであると言わんばかりにサヤカに説明をする。
「魔法をこの街に根付かせた立役者であり、魔術協会の創設者にして魔道具の開発者。さらには魔法学校の設立者でもある」
「そ、それって…………」
その功績がどれほどに偉大であるかは、王都で暮らしているものならば幼子でも理解が出来る。もちろんサヤカにも分かる。そしてそれが意味することはこの人物が何者であるかも分かってしまう。
「賢者レオ様ってことですか!?」
老人改めレオはそんな偉大さを感じさせない親しみ易い笑顔を浮かべた。
「私はただの知りたがりでしかない。賢者などと堅苦しい呼び方はやめておくれ。「様」もいらん」
「そんな、賢者様を気安く呼ぶなんて」
萎縮するサヤカにキッドは言う。
「別に気にする必要なんて無いさ。本人が言う通りの知りたがりの変人でしかない」
「そんなことを言われても……それよりもキッドさんは賢者様……レオ様、レオさんと知り合いなんですか?」
「知ってるさ。俺の魔銃を作ったのはこの爺さんだ」
「えぇ!? そ、そんなことまで出来るんですか」
キッドの表情は偉大な存在からの贈り物を誇っているようには決して見えない。苦々しく恨みさえ持っているようだった。
しかし、サヤカはそんなキッドには気付かず、単純に困惑と驚愕をし、レオは語りだした。
「並の魔銃では、撃ち出すために魔法を溜め込もうとしても、耐えきれずに暴発してしまうのだよ。だから特別な魔銃を作る必要があった。ただ私は設計しただけ。実際の制作には様々な者が関わっているんだ。それも各分野の至高の職人たちが。それほどまでにキッド君の魔法は強力だったんだ」
「流石キッドさんですね」
改めてキッドという男の実力を言葉で知らされたサヤカは感嘆するほかなかった。
「お嬢さんとキッド君が親しそうなのも気になるが、それよりもすまない、そろそろ教会に向かってもらっていいかな? 痛みに耐えられそうになくなってきた」
「あ、すみません。それではキッドさん、私はそろそろ行きますね」
サヤカが教会の方へと体を向けた。しかし、それを止めるようにキッドは目の前に回り込み、
「俺が代わろう」
と言った。サヤカは驚き、
「そんな悪いですよ」
と返した。
「気にするな」
キッドの親切にサヤカはいつもの事のようにただ軽く対応している。この場で最も困惑をしているのはレオだ。
「……ちょっと待てキッド君。どういう風の吹き回しだ」
レオの表情は不吉な物を見るようで、避けられない事故を予知しているようだった。
「そう警戒するな。あんたには良いものを貰ったのにお礼のひとつもしてなかったと思っただけさ」
キッドはサヤカの肩にもたれているレオの右腕を左手で掴み、そのまま肩に担いだ。
レオの全体重はキッドの右肩にのしかかる。
キッドとレオの接する部位は、レオにとって、とてもつらい箇所だった。
「ぐぅっ……こ、この体勢は……流石キッド君……親切心の欠片もない……み、みぞおちに肩がめ、めり込む……」
レオの顔色が先ほどよりも悪くなる。
「だ、大丈夫……そうには見えないんですけど」
「平気だろコレくらい」
「キッドさんがそう言うなら……。それでは私はこれで」
役目を果たしたのでその場を去ろうとするが、
「何を言ってる。ついてくるんだよ」
キッドに呼び止められた。
「え、でも……」
「礼として何か貰っておけ」
「そ、そんな……別に見返りが欲しくてやったわけじゃ……」
サヤカは親切心で助けたつもりなので、礼の品を受け取る、ということに抵抗を覚えた。
それはつまるところ言えば、自分が誰かに親切を働くのはまるで、何かねだっているのではないかと、誰が言うでもなく自分で感じてしまうから。どうしても善意で人助けが出来なくなってしまう、欲が生まれてしまうのではないか。という懸念事項があるからだ。
「魔道具が貰えるかもな」
「行きます」
貰えるものは貰わないほうが失礼である。
サヤカは瞬時に考えを切り替えた。
「お嬢さん……なかなか……ぐっ……ゲンキンだな」
レオはみぞおちの痛みに耐えながら教会までの道を担がれた。
「お嬢さん。ありがとう助かったよ」
「途中からはキッドさんが運びましたけど……」
レオは胸元まで伸びたヒゲを撫でながらその言葉を無視するように続けた。
「お礼と言ってはなんだがこれをあげよう」
紅色の装飾が施された指輪を外し、サヤカに手渡した。
「うわあホントに貰っていいんですか? この色は……なんですか?」
サヤカは自らの記憶を辿ったが、該当する魔道具が思い当たらなかった。
「見たことがないのも無理はない。これはまだ世に出回っていない魔道具だからね。その名も力の指輪」
「ということは、お店で買えないってことですか?」
「ああ、そうさ」
「おぉ……ということは私だけのもの……」
その特別な響きにサヤカは目を輝かせた。
「コレを使えば通常では考えられないほどの、肉体を凌駕した力を発揮できる」
「おい大丈夫なのか? あんたの怪我の原因だろ」
浮かれて指輪を見つめて、話が耳に入りそうにないサヤカをよそに、キッドが尋ねる。
「まだ制御部分に心配はあるが、大事にはならないだろう。お嬢さんはまだ若い」
「いい加減だな。あんたがそんなだから魔術協会は魔道具の調整でいつも苦労してるんだろう」
レオはその言葉に悪びれる様子もなく「はっはっは」と声を出して笑った。
「しかし、なんでそんなものを作ったんだ?」
「介護に役立てられないかと思ってね」
「介護?」
「怪我をして脚が不自由になった者、年老いて体が動かなくなった者。私も若くない。いつこの体が言うことを聞かなくなるか分からないものだ。それがこの魔道具があれば、意志の力で体を動けるようにしてくれるのだ」
「案外まともなことを言うんだな」
素直に感心する生意気な若者の姿にレオは声を出して笑った。
「そうだとも、素晴らしいことだとは思わないか」
「……そうだな。俺が子どもの頃に欲しかったな」
「うん? キッド君は昔から元気だったと記憶しているが?」
「……なんでもねぇよ。ただの独り言だ」
浮かれているサヤカをよそにふたりで話していると、遠くから声が聞こえ、怪訝な顔をしたレオの下に人が駆け寄ってきた。
「レオ様! こんな所に居られたのですね。また何か怪我をなさったのですか」
若いその男は、魔術協会でレオの補佐をしている者だった。
「もう大丈夫だ」
「ということはやはり怪我をしたのですね!? まったく目を離すと直ぐにコレなんですから! さぁ帰りましょう。まだやらなければならない仕事が山積みなんですよ」
「わかった、わかったから押すな。またなキッド君、お嬢さんも」
レオの背中がどんどんと遠ざかっていく。その後ろ姿をみながらサヤカは呟いた。
「賢者って呼ばれてるんでてっきり、お硬い人だと思ってたんですけど、気の良いおじいさんですね」
「ただの年老いた少年だろ。あれは」
賢者レオからの礼として力の指輪を受け取ったサヤカ。
そんなサヤカが今いる場所は森である。しかもなじみのない森だ。辺りからは不穏な空気が漂っており、陽の光も木の葉に遮られがちで、小鳥のさえずりも聞こえない。
ガサガサと茂みを揺らす音がすればそれは可愛らしい小動物たちの戯れでは済まない。
異形で異質な魔物たちが隙を見計らって今にも食べてしまおうと準備をしているに違いない。
何故そのような危険なところにいるのか、それは単純明快な話である。
「つまり、力の指輪を使ってみたいと?」
そう呆れ気味に尋ねたのはキッドだ。危険な地にサヤカひとりが赴いては自立する餌でしかない。だからこその護衛として同行させられたのだ。
「知らないと思うが俺は結構忙しい身なんだが」
キッドは森へ来る前、護衛の話を聞いた時にそんなことを呟いていた。
しかしサヤカはそんなキッドに対してからかうように冗談めかして話を進めた。
「とかなんとか言っても結局はお願い聞いてくれるじゃないですか。私のこと好きなんですよね〜?」
サヤカの頭の中ではこの発言に対する返事は「何言ってるんだ」「バカを言うな」と言う素っ気ない言葉だった。
他愛もない冗談に軽く否定の言葉が返ってくるようなそんなやりとりのつもりだったのだが、
「……ああ、そうだな」
表情の分かりづらいキッドの口から出てきたものは全く予想だにしていなかった肯定のひとこと。自分の想定の死角を突かれて思わず鼓動が早まる。
「え、えぇ〜ホントですか〜? え〜困っちゃいますよ〜」
言葉とは裏腹に顔が緩むサヤカ。そんな反応にも調子を変えずにキッドは続けた。
「それで、どうするんだ?」
「ほらやっぱり聞いてくれる」
「……帰るぞ?」
「ああっ! 待って待って待ってください! なので───」
というやりとりの後にこの森で魔物を相手にしようとサヤカが提案をしたのだ。指輪がうまく使いこなせなかった時の為にキッドは呼ばれた。
そしてサヤカはいつもの木剣を持ってきてはいない。その背に以前、鍛冶師のドノバンに作ってもらい、重すぎて使い物にならなかった大剣を担いでいる。その重さのせいで、まともに立っていることすら困難な状態となっている。
「そんな調子で大丈夫なのか?」
「きっと……大丈夫のはず……です。今の私にはこの……力の指輪が……ありますから」
息も絶え絶えのサヤカは、何もしていない今からすでに満身創痍にも見える。サヤカの細い指に掛けられた赤みのある指輪は、眠っているように何も示さない。力の指輪が効果を発揮していないのか、その程度のものなのかは、サヤカには判断がついていない。
キッドが心配の声をかけようとしたその時、茂みから大きな影が大きな音を立てて這い出てきた。
その体は人ひとりなら容易く飲み込めてしまいそうで、口についたハサミで掴まれようものなら、丸太も人間も小枝と区別のつかないかのように、あっけなくへし折ってしまうだろう。さらに胴体は硬い甲殻に護られていて怪しく黒光りしている。
しかし、それを物語る最たる特徴はなんと言っても、おぞましいほどに大量に生えている無数の脚である。数えるのも辟易するような数のそれが、兵隊の列さながら、あるいは穏やかな波を彷彿とさせ、規則正しく蠢いている。
「オオムカデか。こいつは気性が荒く毒もある。気を付けて対処しろよ」
キッドはいつ何が起きてもいいように、腰に提げている魔銃を取り出した。
オオムカデが威嚇するように鳴く。
互いに臨戦態勢に入り、そこである疑問が浮かび上がる。
返事がないのだ。
「…………?」
まさかオオムカデの存在にすら気づけないほどにギリギリなのか、はたまた鈍いのか、サヤカの方に向けて視線を移す。
「……どこ行った?」
その独り言が聞こえたのはおそらくオオムカデだけだろう。忽然と姿を消していた。
オオムカデが騒ぐ。
先ほどまでは立つだけで疲れていた護衛対象がいなくなっている。急いで辺りを見渡すが近くには影も形もない。
オオムカデが轟く。
ふと、視界の端にチラリと森に似つかわしくない明かりが入った。強い赤色の光だ。それが遠く、遠くのはるか向こう豆粒のように小さく見えた。どんどんと遠ざかって更に小さくなっていく。
オオムカデが喚く。
キッドは確信した。
オオムカデが金切り声を上げる。
あの豆粒がサヤカだ。
「なんて逃げ足だ。ってか逃げてんじゃねえよ」
オオムカデが───
「うるせえ」
───轟音を響かせるキッドの魔銃に貫かれ瀕死となった。
威勢が良かった先ほどの姿は刹那に崩壊し、今では道端で踏みつけられた虫けらと大差が無くなった。
地べたに突っ伏し、腹をうねらせよがらせ、揃っていた足並みはそれぞれが意思を持っているようにバラバラに動き出した。
まるで潰れた酔っ払いが愉快に踊っているみたいな不愉快な光景だ。
「ふぅ」とひと息ついてキッドは赤い光の見えた方角へと走った。
しばらく走っていると無事に見つかった。「無事」という言葉が正確かどうかは怪しいが、とにかく「生きているサヤカ」が見つかった。
地べたに這いつくばり、腹をうねらせよがらせ、愉快な酔っ払いのように踊り狂っている姿で。
「……何してんだ?」
さっきも同じ光景を見た。そんな言葉が頭の中によぎったが、オオムカデと同じ扱いをするのは流石に気が引けたので口をつぐんだ。
「あっ……き、キッドさん……た、助けてください……体が……バラバラになりそうに痛くて……。腕も脚も、お腹も……体の内側が全部……千切れちゃったみたいに…………」
「……」
キッドはうつ伏せになっているサヤカをひっくり返し、抱き起こすと腰の袋から緑色に輝く癒やしの指輪を取り出した。
指輪をはめた手がサヤカの体にかざされる毎に優しい光が生まれて痛みを少しずつ和らげていった。
「立てそうか?」
「は……い……いたたたた……無理そうです……」
立ち上がろうとしたが体を走る痛みに耐えきれず、再び倒れる。癒やしの指輪は万能ではない。軽い怪我程度であれば完治もするが傷の深さ、重さによってはまかないきれない。
「教会で治してもらうしかなさそうだ」
側に転がっている鞘に収まった大剣を片手で拾って背負い、屈んだ。
「ちょっと待ってください!」
サヤカは強めな主張をするために声を振り絞った。
「なんだ」
「肩に……肩に担ぐのはやめてください」
「仕方ねぇな」
キッドはサヤカを両手で抱きかかえて立ち上がった。
「いたたた……やむを得ないとは言え……この体勢で街を歩くのは流石に、恥ずかしい……」
「じゃあ肩貸すから歩くか? レオはそうしてたろう?」
「う、うう…………無理です……立てません……」
森を抜け、王都への道を歩く。
「さっきの赤い光。あれがその指輪の力か」
「多分、そうだと思います」
「使ってみてどうだった」
「う〜ん、なんて言うんでしょうか。体が自分の思った通りそのままに動くと言いますか。あの時は速く逃げなきゃって思って……脚をもっと速く、さらに速くって考えれば考えた分だけ速く回って」
「よくわからんな」
「えっとですね、例えばもうこれ以上動かないって思ってるのに、別の誰かに操られて無理やり動かされてる、みたいなそんな感じでした」
サヤカの説明を聞きキッドは、少しの間考え、自らの中で咀嚼した答えを吐き出した。
「なるほどな、要するに身体強化の本質は、意思による肉体操作ってわけだ」
「身体を強化してくれるわけじゃあ無いんですね……いたたた」
話していたら王都まであっという間であった。
そして当然、サヤカはキッドの腕の中にいる。周りの人たちはチラチラと視線を向けるが特別にちょっかいをかける者はいなかった。ただひとりを除いて……。
「あなたには恥じらいというものがないの?」
痛む体を声がする方に向けると、呆れた顔で腰に手を当てたエリが立っている。エリは冒険者としてはサヤカの後輩に当たり、現役の魔法学校の初等部の生徒だ。
「私だって好き好んでこんなことしてるわけじゃ……いたたた」
「……ケガしてるんですか?」
エリの視線がキッドに移る。
「魔物にやられたわけじゃない」
大した事じゃないさとキッドが返す。
「よかった」
と、言って安心した様子を見せた直後、途端に表情を変えた。
「……ふうん?」
そしてその小さな指先でサヤカの体をつついた。
「な、何するの……痛い、いたたた。ちょっと……やめて!」
指から逃れようとキッドの腕の中で無駄な抵抗をする様子を楽しげに眺めている。
「…………」
「な、なに……?」
その表情は段々と歪んでいき、獲物を見つけた獣のようになっていく。唇が弧を描き、這いずるような声を出した。
「そういえば前にゲンコツされたわね」
「…………?」
それはサヤカとエリが出会った日の出来事だ。続けてエリは最近あった出来事についても語りだした。
「ほっぺを引っぱられたこともあったかしら?」
「……子ども相手にそんなことしてたのか」
サヤカを抱きかかえたまま、わざとらしい幻滅を装った言い方でサヤカに問い掛けられた。
「ち、違……わないですけど、理由があって……」
「痛かったのよねぇ」
「な、何をする気……?」
いつもはただのやんちゃな少女だが、この時ばかりは小さい悪魔のようだった。小さな指をゆっくりと、痛む体に近づけてイタズラ心いっぱいに囁いた。
「し・か・え・し」
「や、やめ……あぁっ! エリ……! 後で覚えてなさい……!」
的確にサヤカの体に指が押し込まれていく。少しの間、情けない悲鳴が上がった。
満足したエリは何処かへ行き、グッタリしたサヤカは教会にいる聖女、ミカの下までキッドと共に訪れた。
ミカはサヤカの様子に焦りながらも、生来の癒やしの魔法でみるみるうちに完治させた。魔道具では足元にも及ばない壁が未だあることをまじまじと見せつけるような見事な魔法である。
ミカは怪我の症状についてこう語った。
「つい先日訪れられたレオ様を拝見した時もそうでしたが、以前、こちらにいらっしゃった方を思い出しました。その方は腰もすっかり曲がってしまって、体も痩せてしまっておりました。こちらへ運び込まれた時には、ご自分では指ひとつ動かせませんでした。いったいどうしてこのようなことに、と私が尋ねましたら、ご自宅で火事が起きてしまったと。しかしその方は体にほとんど火傷の痕はありませんでした。幸いにも火が大きくなる前に逃げることが出来たのだそうです。では何故、歩けなくなってしまっているのかと、理由を確認致しましたところ───」
「───ところ?」
「重たい飾り棚を家の外に運び出したのだと言うのです。自らの背丈よりも大きなそれを」
「え?」
「普段であればピクリとも動かせないような物を危機に直面した時には動かすことが出来る。そのようなことは数多くはありませんが、実際に経験されたことがある方が何人もおります」
「と、言うことは……」
「ええ、サヤカさんの体は今、普通では不可能な力を発揮したために、悲鳴をあげてしまっているのだと思います。体の筋という筋、腱や神経に至るまで、それはもうブチブチとズタズタと」
つまり力の指輪を使うことで、重くて扱えない大剣を振るう力を得る。その代わりに体は癒しの指輪でも治せないほどに壊れてしまうということだ。
「駄目じゃないですか……」
がっくりと肩を落とすサヤカに、キッドから現実の厳しさを再度投げられる。
「何もないところから無条件で強くなれる、そんな都合の良い話は無いってことだ」
「そんなぁ……」
「鍛えればいいだけだ。せめてこの剣を背負って自力で走れるくらいにはなっておけ」
キッドは自らの背中から剣を下ろし、サヤカに手渡した。
「は、はい」
「ああそれと、俺も指をちょいとな」
そう言いながらミカに向けて指を差し出した。
「どうしたんですかそれ?」
サヤカはキッドの指先に小さな傷を見つけた。
「さっき暴れる誰かに引っ掻かれたのさ」
「あれは…………私は悪くありませんから」
(そんな嫌味みたいに見せつけなくても癒しの指輪で治せばいいのに)
とサヤカは思ったが、ヤブヘビは避けたいので口に出すことはなかった。
「───なんて事があって大変だったんだから」
サヤカはガラガラに空いている食堂にてそんな雑談をしている。
雑談の相手はサヤカが食堂にひとりでいて、かつ客が誰もいない珍しい時にしか現れないエルという、得体の知れない女性だ。
「その話……本当……?」
エルは黙って話を聞いていたが、どうしても信じられない、あってはいけないことでも見つけたとでも訴えている震える瞳で、サヤカの目を見ている。
「もちろん。疑ってるの?」
「サヤカを疑うつもりはないけど、やっぱり信じられなくて……」
「何処が?」
エルはサヤカから視線を落とし、深呼吸をした。
「…………キッドが、癒やしの魔法を使ったって」
「そうだけど、魔道具を使ってるんだからおかしなことじゃないでしょ?」
深刻なエルの表情とは対照的にサヤカの表情はあっけらかんとしていた。
「というかキッドさんのこと知ってるんだ」
「よく知ってる。だからこそおかしいの」
「何が?」
「癒やしの魔法には優しさが必要なの」
「それで?」
「苦しんでいる人を助けたい、救いたい。そんな心の動きにつられる魔素が傷を癒やしていくの」
「キッドさんは親切だし、不思議じゃないと思うけど」
サヤカにとってキッドとは、冒険者になる時から自立までを助けてもらい、今でも手を貸してくれる、頼もしく優しい兄貴分である。
「けれど彼は……今まで自分自身にさえ癒やしの魔法を掛けることが出来なかった」
「え……? あ、そういえば私、キッドさんが怪我したところって見たことない……」
「でしょう? たとえしていたとしても、傷を治しているところは見たことが無いはずよ」
「たしかに……」
「信じられる? どんな人間でも少なからず自分への優しさは持っているもの。だというのに彼にはそれが無い」
「ど、どうして……」
「心当たりがないわけではないけれど……こればかりは本人のいないところで話す訳にはいかないかな」
それよりも、とエルは続けた。
「どうしてサヤカに対してだけ癒やしの魔法が使えるのか、そっちの方が興味があるわ」
「それはやっぱり……」
「やっぱり?」
「私が、美人だから……?」
「…………………………ありえない」
「……」
「あ、いや、違くて。サヤカはとても可愛らしくて、多くの男性から好かれる顔立ちしてるとは思うの。本当に。ただキッドはその……つまり、人を外見で判断するような人じゃないって言いたいの。そういうことだから……」
「……そう」
「……なんかごめんなさい」
「別に、気にしてないし」
食堂の中を気まずい沈黙が支配した。
(力の指輪 終わり)