恋愛をしたいなら私とすればいい
夜、彼自身も泥まみれになりながら部屋に引き上げて来た。
「食事はとりましたか?」
「ああ。悪いが、あちらの家の人に引き留められてかなりの勢いで勧められて御馳走になってきた。彼女も擦り傷以外の怪我はないそうだ。よかった」
「どこの家の方だったのですか?」
「ダーヴィ侯爵家。彼女はそこの一人娘で、名前はカトリーヌ嬢。元々身体が弱くて表には出てこないようでここにも静養のために来ているらしい」
ダーヴィ侯爵家はかなりの資産家と聞く。家格にしても私たち二人を合わせてもさらに上に行く。社交界に出ていたならば確実に多くの男性に求婚されるに違いない。それに、私よりも二つか三つは年下だろう。
「そうですか……」
彼の顔を盗み見た。客観的に見れば醜男ではないだろうが、とりたててハンサムとも言い切れないふつうの横顔。侯爵家の令嬢ならば求婚者なんてよりどりみどりだろうし、私の若干の不安は取り越し苦労ということもわかっている。それに、彼女と関わることだってこれっきりだろう。彼女自身は長期で滞在しているかもしれないが、私たちはごく短い休暇を当ててこちらに来ている。短期間でどうこうなるとは思えない。
しかし、私は見てしまったのだ。助け起こされた彼女が彼に見せた恥じらいの顔。かわいらしく頬を染めてみせるさまを、彼に向けるまなざしが熱を帯びた様子だったのを。どうか、面倒な事態になりませんように。
次の日の夜はホテルの舞踏室を開放しての恒例のパーティー。一抹の心配は残ったままだったけれどもイブニングドレスをまとって参加することにした。もちろんパートナーは決まっている。
「今晩のパーティーはそこまで堅苦しいものではなさそうだし、疲れてしまったらすぐに部屋に引き上げてしまおうか」
「そうしましょう。サルマンさん、今晩は踊るつもりがありますか?」
「君が望めばね」
紳士としては百点満点の答えをいただいてから、パーティーに出席する。ホテルの客は長期滞在と短期滞在に分かれるから、私たちは物珍しくとも悪目立ちはしなかった。新しい顔ぶればかりだったから次から次へと自己紹介と挨拶の嵐。いい加減、笑顔まで引きつってきた気もする。彼の表情もそれ以上に強張っている。
「……外へ散歩に行きません?」
「気が合うね。僕も同じことを考えていたよ」
テラスに出て夜風を浴びるとようやく息ができるようになった。喧噪を離れて二人きり。そしてここはハウニーコート。ロマンス小説でいえば最初の盛り上がりを見せそうな場面だ。
とはいえ、私の隣にいるのはあのサルマンさんであるし、今は夫婦と呼ばれても他人行儀に「サルマンさん」と「マティルダ嬢」と呼び合う仲であるし、期待するだけ無駄だというのはわかっている。ただ、ロマンチックな気分だけはひたらせてほしい。
しばらく外にいると、むき出しの肩が冷たくなってきた。寒気を払うように手で触れていると、彼が燕尾服のジャケットを脱いで着せた。
「コートを持ってこようか?」
「いいですよ。もう少ししたら戻るつもりですし」
ジャケットの衿元を引き寄せるように羽織ればいくぶんか温まった。
「サルマンさんは寒くありませんか?」
「僕は大丈夫だよ」
はあ、と息を吐いた。どちらともなく、いつのまにか身を寄せ合って、空の星を眺めていた。
隣の人が特段ハンサムでなくてユーモアもない仕事人間だけれども、隣にいるだけで「ま、いいか」と許せるような気がしてくる。なるほど、これが「慣れ」というものかもしれない。
「呼び方、いつになったら戻しますか?」
「そこはまあ、適当に」
「なんですか、それ?」
「案外楽しいからね。君をマティルダ嬢と呼びながら一緒に過ごしているとふつうの恋人同士のように錯覚する。新鮮なんだよ、とても」
「私も楽しかったですよ。サルマンさん、と呼ぶのが。今では私もサルマンであることは承知していますが、そういったことを一旦忘れてしまうのも悪くありませんでした」
「ふうん。僕たちは同じことを考えていたのか」
どこからともなく見つめ合った。ロマンス小説ならここで間違いなく甘い口説き文句とロマンチックなキスがあるのだろうけれども、サルマン氏は実にドライな口調で「戻るか」と短く告げるのみ。はあい、と間抜けな返事をしたのは許してほしい。
会場に戻ると二人でダンスを踊り、次はそれぞれが違う相手とダンスをした。
その後のことだった。遠目で見た彼の前に彼女が立っているのが見えた。小さな赤い花を散らしたドレスと、複雑にリボンで編み込まれた髪型。彼女は会場にいたどの淑女よりも可憐な華だった。
彼は彼女を呼び止めてフロアから何かを拾い上げる。それはレースのハンカチのようだった。彼女は受け取って甘い笑顔を向けている。そして彼も。どこからともかく手を取り合って、二人は身をくっつけて踊り始めた。二人には会場中の目が釘付けとなっていた。彼女はホテルでもかなりの有名人だと私の近くにいた人も話している。
「彼女が来るなんてかなり珍しい。あの顔を見るといい。あの令嬢にもとうとう春が来たのかもしれないね」
心中、とても穏やかではない。
ハウニーコートで生まれる恋。ロマンス小説に限らず、実際の噂話でもちょくちょく耳にする。その淡い恋の芽生えと切ない結末に私も心を痛めたのだ。でもそれは読者として。本当の恋は私もよくわからないけれども、自分の目で見たその形は、辛くて悲しいものだった。登場人物ではなくて、この私自身が嫌だと思っている。
私は小説の中で何人も見て来た嫉妬に狂う女たちとは違うつもりだった。ああはなるまい。そこまで心を傾けるはずがないのだと。だが本当はさほど思っていない相手でも、嫉妬という感情は湧き上がってくるものかもしれない。
さりげなく彼らの近くまで近寄る。彼の目が私を見つけた。
「アドルファス」
彼は一瞬、驚いたようだったがすぐに「どうした、マティルダ」と調子を合わせてくれた。
状況を飲み込めていない彼女へ私は「こんばんは」と挨拶した。
「紹介しますよ。彼女はマティルダ。彼女と旅行に来ているんですよ」
「……どういうことでしょう?」
彼女は視線を彷徨わせた。
「どういうことと言われましても、そういう関係なのですが」
紳士的な口調で彼が事実を話したところ、百合のように清らかな彼女には刺激が強かったらしく、「……あ。あ、そうなのですか」と声を震わせている。
もしかして、彼女はあの自転車で転倒して助けられた時も、そしてこのパーティーにいる時も、隣にいる私が見えていなかった? そして説明不足が多々ありそうな彼のこと。さりげなく私の存在をほのめかすことなど夢にも思わなかったに違いない。つまりあれだ、ガードが甘い。
表面上は穏やかに彼女を慰めた後、私たちは部屋に戻った。
「しばらく噂になりますね」
「一時のことだよ。また次の噂が出てくるよ」
彼はのんびりと掌で押さえながらおおあくびをしている。いつもは気にも留めないが、今晩は狼男がごとく暴れまわりたい気分になった私は苛立ちを隠せない。
「あのカトリーヌ嬢はあなたの好みの顔ですね。夜会で声をかけていたのはああいうタイプの子が多かったように記憶しています」
そしてユーモアのなさや表情のワンパターンさにあきれられて戻ってくることの繰り返しだった。彼は私と同じぐらいモテないと思っていたし、互いに好みが食い違っていたからこれまで恋愛関係に至らないで知人レベルの付き合いでいられたのだ。
「そうだったかな」
「そうですよ。知り合って結構経ちますから夜会の時の行動ぐらいはなんとなくわかります」
「……嫉妬しているの?」
「していません!」
自分のベッドに腰かけた彼に、頭に血が上った私はタイを結んだ衿元をひっつかんだままベッドに片膝ついて乗り上げた。
「……アドルファス。いいですか。とりたてていうこともなく、ただ単にタイミングの問題で結婚に至りましたから、長い人生の中、互いに好きな人ができることや、恋愛したくなることがあってもおかしくありませんし、事実、割り切って生活している夫婦がいることも十分、承知しています。しかし、私たちの場合はまずは順序があると思うんです!」
「……順序?」
「恋愛を試みるならまずは私からだということです! 好きになるとはお互いに限りませんが、努力してみるべきです! どこかの令嬢に目移りするよりも、身近な妻! 違いますか!?」
勢いに飲まれた彼はしばらく惚けたようになりながらも「情熱的な告白だよね、うん」と呟いた。
「……告白ではありません。切実な心の叫びなんです。私、ああいう令嬢が一番苦手なんです。人間性が嫌だということではないけれど……いい出会いがあっても、いつもああいうタイプの令嬢が後から取っていってしまうんです。わかっているんですよ、男性はああいう従順そうな清純派が好きなんですよね。私は大体不利な立場に立たされて、挙句の果てには幸せそうな二人を見せつけられて婚約パーティーに友人として招待されるんです……」
「マティルダ。落ち着け。君だって十分に清純派に見える」
慰めどころはそこじゃないんだ。
一度勢いがつくとなかなか止められるものでもなく、悲しみが倍増して涙が出てきそうになる。
「いいですか! いくら美人でも四十年経てばみんなしわしわよぼよぼのおばあちゃんだし、四十年経てば性格だっていくらでも変わります。容姿だとか、家の財産だけで恋愛相手を決めてはだめなんです。だから恋愛をしたいなら……恋愛をしたいなら私とすればいい」
しばらくは自分の呼吸する音しか聞こえなかった。相手がどんな顔をしていたかなんて見えていなかったし、自分がどれだけ恥ずかしい発言をしていたかも顧みる余裕はなかった。
「……僕だって何も考えていないわけじゃない。愛がないよりはあった方がいいし、はじめから努力するべきだと思っていた。結婚の理由はタイミングだったかもしれないけれど、時間が経つうちにきっと、運命だったんだと思えるさ」
一本一本彼にしがみつく指を離されて、両手を包まれる。額に暖かいぬくもりが触れる。唇の感触だった。
「今はちょっと気が立っているようだね。ぐっすりと寝てしまいなさい。朝起きれば冷静になっているから。……おやすみ」
彼に促され、ベッドに潜り込んで熟睡した。夢は見なかった。