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今さらな結婚の顛末記  作者: 川上桃園
ハウニーコートの恋
1/17

売れ残りの結婚


 社交界に出て三年目となればそろそろ「売れ残り」だ。家に届く招待カードや贈り物が大幅に減り、代わりに友人たちの婚約の知らせと結婚式の招待カードが舞い込んでくる。

 私もかつては素敵な出会いに心ときめかせた十七歳の乙女だったけれども、三年目になれば社交界の華になるどころか壁の華。自分より若い令嬢が以前の自分と同じように純粋で初心うぶな顔で男性たちと話しているのを眺めるだけの立場だ。

 三年で素敵な出会いはいくつかあったがどれも実を結ばず、二十歳を過ぎようとしている今となっては結婚しなくとも親が失望しない程度の外面を整えようと資格の勉強に励んでいた。


 その日は友人の婚約披露のパーティーだった。彼女とその婚約者にお祝いを述べ、その場にいた知人とも世間話をして別れたら、食べることしかやることがない。

 テーブル上の銀食器に盛られた美味しそうなフルーツをひたすら取っては食べるという単調極まりない作業を繰り返しているうち、隣に知った顔が来た。

 会場の華やかな雰囲気に悪酔いしたのか、元々感情の読みにくい顔に渋みが加わっていた。


「マティルダ嬢も来ていましたか」

「ごきげんよう。さきほどはお見掛けしませんでしたね」

「ついいましがた到着したもので。いなくともさして影響はないでしょう。彼らはお互いに夢中で、僕が来ていなかったことすら頭になかったようですから。結婚となると、みんな頭が馬鹿になるらしい」


 私と彼は夜会で会えばなんとなく挨拶をする程度の仲だ。出逢いからして、何度も顔を合わせるうちにぽつぽつと話をするようになったというだけの平凡極まりないもの。本人はロマンのロの字も解しないし、結婚や恋愛に対しても懐疑的でいちいち嫌味っぽい。ただ「独りの方がずっと気軽じゃないか」という割に毎回違う女性に声をかけにいくのはどうかと思っている。こういうタイプが年食ってから若い女の子と結婚して鼻の下伸ばしてでれでれするんだよ、と言ってやりたい。

 そんな相手だから互いに示し合わせて逢引することは今後も含めて絶対にない。今回の夜会も、私が主役の女性の友人として招かれ、彼は主役の男性の友人として招かれた。顔を合わせたら軽い世間話ぐらいはするけれど、別れても名残惜しさの欠片も感じたことがない。


「馬鹿ではなくて、愛に溢れているんですよ。好きな相手と結婚できたらみんなそうなります。普通のことではないですか?」


 彼は私の問いかけには答えず、ただ「また友人に先を越されましたね」と心にくる嫌味をくれた。


「それはあなたもですよ?」

「僕はそれほど焦っていませんからね」

「そうですか。たしかに男性は女性ほどには結婚に縛られていないでしょうから」


 遠目で見た結婚する友人の横顔は幸せに満ち溢れている。だが彼女も半年前までは私と同じ立場で、私以上に焦っていた。

 ――早く結婚しなくちゃ。親がね、がっかりしているのを見るのがつらいの。同じ年に社交界に出た子たちはみんなもう相手を見つけているのに……。


「女性が独りで生きていくのは難しいですからね。特に経済的に自立する手段がなければ選択することすら叶わない」

「それだけでもありませんよ。家を継ぐ方に嫁いだ場合、子どもを産んで血筋を次代に繋げることが求められています。けれどどうしても時間制限がありますし、色々な事情があって厳しいこともあります。侯爵家に嫁いだ姉は大変そうでした」


 友人は家付きの娘だ。私のような三姉妹の末っ子とはまるっきり立場が違い、プレッシャーがあっただろう。そこからひとまずの解放を得たからあんなに溌剌とした笑顔を周囲に振りまけるのだと思う。


「でもエミリアが幸せになれそうでよかったです。相手のヴィンスもとてもいい人そうで」

「たしかにヴィンは優しいですよ。ちょっと気弱なところはよくないが、女性受けはいいはずです」


 なぜこの人はまたも人の評価に泥をつけずにはいられないのか。

 彼は私が適当に打った相槌のどこが面白かったのか、喉の奥を鳴らして、くつくつと笑う。


「僕などはあまりに女性の影がなくて、結婚する気もないものだから、ゲイだと勘違いされることがあるのですが、いたってノーマルなのですよ。知らないうちに誤解が広まるのは非常に困る」

「小さな噂は放っておいてもそのうち消えますよ」

「そのとおり」


 何を言いたいのだ、この人は。しばらく沈黙が続く。気まずいと思わなくなったのは、もはやサルマン氏と私の会話はいつだって絶妙に噛み合っていないのを理解しているからだ。期待値がなければ悲観的になることもないから精神的にすごく楽なのだ。


「もし仮の話だが、私とマティルダ嬢が結婚することになったらどうなるのでしょうね」

「灰色の日常が視えます。私だって好きな相手と結婚したいですよ」


 仕事などと言ってまったく家に寄りつかず、妻を大事にできない夫の典型。それが私のサルマン氏に対する評価だった。


「……ああ。昔、百本のバラの花束を持って求婚されたいと言っていましたね。それと、『情熱的な愛の告白もされてみたい』と」

「む、昔の話です……!」


 噛みつく勢いで力強く言い切る。どうして今、恥ずかしい過去を掘り返すのだ。

 彼とはそのうちなんとなくの流れでワルツを踊り、それぞれにまたダンスの相手が現われたから自然に解散した。

 今から思えばこの時の会話は未来の予兆だったのかもしれないし、彼自身が事情を知っていて訊ねたことかもしれない。



 

 翌年の早春、私は親が持ってきた縁談相手と結婚した。相手はあのサルマン氏だ。しかし結婚の誓約書にサインして早々、新郎は仕事の用で遠く外国まで出かけ、半年帰ってこなかった。

 私は二人の新居で独りきりの生活を続け、「あれ、家族に気を遣わないこの生活はもしや私の夢の城……?」と思い始めた矢先、ヤツからの帰国の知らせを受け取ったのである。いまさら結婚生活をはじめようという気にもならなかったが、帰国の日には周囲のすすめもあって帰国の船が到着する港まで迎えに行った。

 一瞬たりとも夫婦生活を送った覚えのない夫。途中、出張期間の延長する手紙すらよこさなくなった夫でもある。婚約期間もほとんど会わずに過ごしてきたから、会ったところで夫というよりただの知人という目で見てしまいそうだ。

 夫は大きな革張りのトランク片手に船のタラップを降りて来た。目が合ったところで「おかえりなさい」と言ってみた。


「……そういえば結婚したんだっけ」


 このうっすらした反応。彼は気まずさと居心地の悪さがいりまじったような複雑な顔で私の前に立った。けれどこればかりは私も似たような感情を抱いていたからお互い様だ。肉親以外に「おかえりなさい」と言い、その相手が独身主義者のサルマン氏なのだ。神様は何がどうなったら私たち二人を結婚相手として結びつけたのか、理解に苦しむ。


「……ええ、結婚しましたよそして私が奥様ですがなにか」

「あぁ……うん」


 気圧されたのか、夫は少し黙り込んでから「悪かった」と短く言った。さて、彼は「何が」悪かったと思っているのだろうか。


「あなたの方は元気そうでなによりだ」

「サルマンさんはきっと半年の間に生死をさまよっておられたようですね」

「……は?」

「いえ、まったく手紙をよこさなくなったのはそういうわけだったのかしら、と想像していました」


 夫は明らかに不機嫌になった。そのままだんまりを押し通して私の脇をすり抜けようとする。とっさに夫の腕を掴んだ。


「待ってください」


 不機嫌になりたいのはこちらの方だ。初めは半月の出張の予定が、一か月、二か月と続き、最終的には半年になった。滞りがちだった手紙はそっけない事務連絡ばかり。独身主義者なのは結構だが、私への労わりの言葉もなしというのはありえない。普通の新妻だったら離婚案件で実家に帰っている。そうならなかったのは単に私が広い家での一人暮らしに楽しみを見出したことと、縁談で決まったこの結婚自体に過度な期待をしていなかったから。我ながら醒めている。

 不審そうに見下ろす夫。酷薄そうな薄茶の眼にぐっと押し黙りたくなるが、勇気をもって言った。


「私の言い方が悪かったかもしれません。でも……これでも心配していたんですよ。滞在先で事件に巻き込まれたかもしれないとか、病気にかかってしまったのかもしれないとか……」

「あちらでは仕事をしていただけだ。トラブルが重なってずるずると帰国が伸びた」


 夫はいくぶんか口調をやわらげた。


「手紙ぐらいちゃんとください。手紙が返ってこないと、勝手にこちらでいろいろ想像してしまいますから。あちらで運命の恋に落ちたからと離婚を切り出されることも覚悟していました。……さすがにそんなことはありませんよね?」


 夫の背後をちらっと見る。降りてくる船客の中に、夫を見つめる女性がいないか、確認したのだ。

 想像しすぎだと笑うがいい。だが私は初夜さえ出張の準備があるからと放っておかれた新妻なのだ。多少なりとも疑り深くなる。


「当たり前だ。仕事をしていただけの僕にそんな暇はない! 少しは信じるべきだ」

「無茶言わないでください。サルマンさんとはただの知人関係で個人的なことなんてほとんど知らないんですよ? 私たちの間に互いを信じられるだけのものがあると思いますか?」


 その言葉に納得したのかしていないのか。長い沈黙ののちに、彼は「帰ろう」と告げ、荷物を抱えて歩き出す。身を翻してその背中を追いかける私。だだっ広い港の中央で息を切らしながら声をあげる。


「だから、待ってください!」

「なんだ、マティルダ」


 初めて名前を呼ばれた。しかも呼び捨てだ。なんなのだ、この人。


「はぁ、はぁ……。歩くのが早すぎます……!」

「そうか」


 立ち止まった夫は私が追い付いたのを確認して、今度はゆっくり歩き始める。二人の距離はつかず離れず、贔屓目に見積もっても新婚夫婦のような熱量に乏しい。

運よく大通りで辻馬車を捕まえることができたので、馬車は愛しの我が家に向かう。がたがた揺れる不快な車内だが、背もたれを使えて体重が預けられるだけで頼もしい。ほら、朝から気疲れが甚だしいから。

ほっと息をついたところで思い至った。そういや、同じ家に帰るんだった……。

夫は頬杖をついて外の街並みを眺めている。話しかけづらい。気まずい。帰りたい。


「……サルマンさん、昼食は済まされましたか?」

「まだだ。家で食べる」


 また、だんまり。会話が続かない。と、思いきや。


「『サルマンさん』と呼ぶのはおかしくないか?」

「え? ……そうですね」


 私も『サルマン』になったのだ。マティルダ・サルマンに。ただ、何と呼べばいいのかわからず、独身時代のように「サルマンさん」と呼んでしまっていた。


「何と呼べばいいですか?」

「下の名前でいい」

「……アドルファス」


 夫は返事の代わりにフン、と鼻を鳴らした。居心地悪そうにしている私を馬鹿にしている。

 知っている顔に言いなれない呼称。この組み合わせに慣れることがあるだろうか。


「なんだか変な感じがしますね」

「結婚したのだから否が応でも慣れる。君にとっては不本意なものだったとしてもだ」

「不本意では……父が持ってきたとはいえ、話を承諾したのは私ですし」

「だが理想ではない」


 彼は腕組みをした。


「君の好みはユーモアセンスに溢れた容姿端麗な明るい貴公子だったと記憶して……」

「忘れてください過去の私は死にました」


 この男は、夢見る乙女だった私のなりゆきまかせのふわふわ発言を逐一引っ張り出してくる。昔の自分が身の程知らずすぎていたたまれない。


「私はいいんです。どうせ他に行き先は見つからなかったでしょうから。でもあなたの方は? 結婚する気なんてさらさらなかった様子だったし、あなたのタイプとは違うでしょう?」


 彼が声をかけていたのは、基本的に小動物のような清楚で可愛らしい女性だった。間違っても大柄で内心口の悪い私のようなタイプじゃない。


「父に薦められたから。それだけだ。タイプだなんだと考える余地もない」


 仕事口調のようなドライさだ。


「それとも甘い言葉が欲しいのか? 悪いが、僕は君の求める理想ではないからお世辞は言うつもりはない」

「あなたが急にお世辞を言い出したらこちらがびっくりしますよ。だからいいです。この際、割り切っていきましょう」

「世間の多くの夫婦のように、ただの同居人だと?」


 今度は私の方が沈黙する。元々は愛のある結婚生活を目指していたはずなのに、いざ結婚すると「ただの同居人」関係でいいと言ってしまっていいのだろうか? それだと本末転倒のような気がする。何がどうとは言えないが、何かが違うのだ。


「……やっぱり、お世辞は必要かもしれません」

「え?」

「とりあえず、愛を囁いてみるところからはじめてみますか? さあ、どうぞ」


 見なきゃよかった。夫は眉間にすさまじい三本の皺を立てている。まだ若いのに二十歳ほど老けたような表情だ。


「僕は何も言わないからな。思ってもないことを言いたくない」


 ため息が出た。歩み寄りとは難しい。形から入ることも重要だろうに。


「だったらはしたないような気もしますが、私の方から言いましょうか?」

「そういうことは無理に言うことではないだろう」


 一旦口を閉じた夫が「まさか」と申し訳なさそうに尋ねた。


「本当は前々から僕のことを……?」


 とんだ思考の飛躍だ。


「違いますよ。大体、好きな人に新婚早々、半年放っておかれたら、とうに怒って実家に帰っています」


 親戚、友人、知人の間で私はえらく心配されているのだ。結婚生活はじめてまもないのに離婚の危機で、冷めた仲だと。案外、間違っていないのだが、なぜか浮気と不倫のお誘いが舞い込んでくるのには辟易している。


「ただ、言ってみたら何か変わるかもしれないと思って……」

「不思議なことを考えるね」


 私からしたら夫の思考の方が摩訶不思議である。こんなにも私は不安なのに。


「……私たちの今後はどうしたらいいのでしょう?」

「何も変わらないよ。僕は君と結婚した。これから一緒に生活することになる。それなりに上手くやっていくことに越したことはないさ」


 馬車の外は見慣れた景色に入ってきた。もう少しで家につく。変な気持ちだ。今までとは違う新しい生活が始まる。何かの小説で読んだ「人生の曲がり角」という言葉が頭に思い浮かぶ。

 夫はただの知人だった。仕事人間で、そもそも結婚する意志さえなかった人だ。新婚生活の出鼻さえくじかれ、ちょっとしたやりとりもちぐはぐになる、そんな相手。私が妻となって、愛のある結婚生活を送る? できるかどうかは限りなく怪しい。


「マティルダ」

「……はい」


 窓辺から視線を移せば、向かい側にいたはずの彼の顔が案外近くに迫っていたことに驚く。思わず身を引こうとしたところ、コルセットをつけた腰に手が回り、がっしりと固定される。

 本当に何の前触れもなく、唇に柔らかいものが押し付けられていた。息が止まる。ぼうっとして何も考えられなくなった。時間にしたら一瞬だったかもしれないが、まるで長い時間が経ったみたいだ。

 夫の顔がゆっくりと離れた。


「君の言っていることはわかるが、たまにイライラさせられる」

「……なぜ」


 夫は素知らぬ顔で外の景色を眺めていたが、私を一瞥すると、


「結婚したのだから許されるだろうと思って。こうやって恋愛感情のない相手と初めてしてみたが意外と……」


 夫は以前にも経験したとほのめかした。ちくりと胸が痛んだ。この人にとっては軽い行為だとしても私にとっては違う。初めて、だったのに。「何ともない」と答えが返ってきたら張り手をお見舞いしてやろうと思い続きを待った。


「意外と、それらしい気持ちになるね」



2020.4.22改稿

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