六話 九月の雲
「貴方……!」
明らかに狼狽し、動きが止まる。
「お見苦しいところを……。ほら帰るぞ!」
父親の一喝に美嘉と母親は震え、呼吸が乱れる。
「い……や」
「あ?」
「……っ!」
美嘉は精一杯の声を絞り出すが、父親の睨みに身が竦んでしまう。
「こんな恥ずかしいところを見せやがって!」
「ごめんなさい……ごめんなさい」
母親の懺悔が繰り返される。
――窓ガラスが揺れ始め、外の木々が強烈な風を受けて大きく揺れる。
「でも、私は……あぁ……いやぁ……!」
次第に様子がおかしくなる。
狂い、乱れる。
「あぁ……! あぁあああああああああ!」
錯乱しながら震える右手を見つめ、出刃包丁の切っ先を己に向け始める。
――唸るような風の音。
「……母さん?」
「いやよ……死ねない。死にたい。消したい。消す……」
体全体を異常に震わせる。
恐怖と絶望、己に対する侮蔑が渦を巻く。
「殺す死ね殺す死ね殺す死ね殺す死ね殺す死ね殺す死ね殺す死ね殺す死ね殺す死ね殺す死ね殺す死ね殺す死ね殺す死ね殺す死ね殺す死ね殺す死ね殺す死ね殺す死ね殺す死ね殺す死ね殺す死ねこ殺す死ねこ殺す死ね殺す死ね殺す死ね殺す死ね殺す死ねこ殺す死ね殺す死ね殺す死ね」
言葉を紡ぎ続けながらゆっくりと立ち上がり、母親は美嘉に焦点を合わせた。
「……かあ……さん?」
痙攣したように体を震わせ、絶え間なく涙を流し続ける美嘉。
狂人と化した母親は一切の躊躇いなく右手を振り上げる。
「死ねぇえええ!」
――雨が風によって窓ガラスに叩き付けられ、爆発に似た音を響かせた。
先生はその光景をスパイスにアイスを齧り、脳一杯に広がる多幸感に溺れていた。
「日向、頼む!」
悠太は咄嗟に声を出す。
その声を聞き日向は己のLSに意識を集中させる。
LSは起動し、月鳥神の守護者として空間に静寂を与える。
「ゆーた……今日は付いて行くよ」
LSを介し脳に命令を送り続ける日向の瞳には苦しさが見える。
高速で伝達される脳の指令を、雑音を、LSが限界の力で処理していく。神経が焼き切れてしまうのではないかという苦痛を味わいながらも、悠太の……月鳥神のために堪える。
美術室から音が消え、悠太のみが行動をする。
他の誰もが動くことを許されない。
「月鳥……お前の限界試すからな」
悠太は月鳥神を呼び、その身に宿らせる。
「烈もこれだけの空間を鎮めるとはねぇ?」
その声と共に月鳥神は悠太の身体に完全に憑依する。
「日向の意思を汲もう。そして我が力の神髄を魅せてやろう」
日向の隣には甲冑姿の武士が一人。背中には太刀が背負われていた。
「守護をする身で空回りは厳禁だからね?」
月鳥神の守護者『烈』はその姿を顕現させ、日向の身を借り美術室を現実から引き剥がしたのだ。
現実から干渉されず、現実に干渉する世界。月鳥神が『雲晴らし』を行う空間。
月鳥神は他者からの邪魔を受けることなく使命を果たせる。
「なかせ……こ、これは?」
美嘉はやっとの思いで喉を震わせ、声を紡ぐ。
「知る必要はない。それじゃあ…………始めようか」
悠太の声が異空間に衝撃を与えた。
美嘉の両親の体から雲が現れる。
「月鳥……どうして漆原からは雲が出ないんだ?」
美嘉の体からは何も現れず、ただ呼吸を続けていた。
内側に包み込んだ雲を吐き出さず、両親から漏れ出す雲を少しずつ吸い込み続ける。
「漆原美嘉……その劣悪な環境を当然のように受け入れたのね?」
「……そうか、じゃあ改めてもらおう」
深い嘆息と同時に己の超能力を発動する。
「悠太、それは――」
「――俺を殺せよ」
月鳥神の制止の声が届く前に、超能力を最大まで引き出す。
脳からの指令がLSを介さず、月鳥神の力を増大させる。
狂いそうになる精神を根性で捻じ伏せ、超能力を発動する。
「これはなに? ……えっ?」
美嘉の母の体は本人の意思を無視し動き出した。
美嘉の父も同じく動き出し、二人は悠太の目の前に立った。
「おい、中世古?」
美嘉は何かを察した。
「漆原……お前の身の回りは常識と乖離している。現実を知れ」
美嘉の母は出刃包丁の切っ先を悠太に向ける。
「何を……する気だ?」
これから起こり得ることを想像する。
「二人の憎しみは俺のものだ」
「……やめろ」
否定を重ね、無理やりにでも止めようとする。
しかし体がは動かず、叫ぶことしかできない。
「いや……止まって!」
美嘉の母は無理矢理に己の体の動きを止めようとする。
よく研がれた出刃包丁は勢いを殺すことなく悠太の腹部に突き刺さる。
刃が全て埋まったところで停止し、勢いよく引き抜かれる。
「やめろよ! あぁ……いや!」
血は吹き出し、飛び散り、床を赤く染める。
口から漏れ出す血を手で押さえる。
湿度の高い台風の日の午後。血が空気に混ざり、その匂いが鼻を刺す。
「私……わた、私は動かして、ないっ! いやっ!」
美嘉の父親は呼吸を乱し、絶句している。
「終わってないですよ」
悠太の血に濡れた頬が少しだけ持ち上がる。
刺突。
「やめろ!」
引き裂かれる肉。
「違う! 私じゃないのよ!」
間髪入れずに再び刺突。
「やめてよ!」
血は絶え間なく流れ、飛び散る。
「止まって!」
グチャ……グチャ……。
内臓がゆっくりと漏れ出し、体の外に出た瞬間……重力に従い床に叩き付けられる。
「母さん! やめろ! やめろよ!」
「止まらないのよ!」
横薙ぎ。腹部は切り裂かれ、より血が噴き出す。
「やめろやめろやめろやめろ……」
美嘉の母親の体も返り血で染まった時……動きが止まった。
「やっと……」
美嘉が一息つこうとした瞬間、美嘉の父親は拳を振り上げた。
「――えっ」
拳は悠太の顔面を直撃し、連打される。
悠太はこの状況を表情一つ変えずに受け続ける。
月鳥神と烈はその姿を見守る。
「いやだ! 父さんやめろよ!」
休むことなく拳は振られ、悠太は殴られる度にフラフラと姿勢を立て直す。
日向は目を閉じ悠太の無事を祈り、先生はその光景を見て興奮し、絶頂を迎えようとしていた。
「それ以上は……死んじゃう…………死んじゃうよ!」
美嘉の叫びは殴打音に掻き消される。
父親は最後に力の込めた一発を悠太に叩き込んだ。
「あ……あぁ……」
美嘉は声を漏らす。
宙を舞う悠太。
「いてぇ……な」
悠太の漏らした声が美嘉に届いた。
「……許さない」
美嘉は自然と言葉を紡いでいた。
心の奥底に秘め続けた思い。
隠し続けた真っ黒な感情。
憎しみ。
「許さない!」
その瞬間、美嘉の体から雲が現れた。
「その憎しみ……引き受ける」
床に叩き付けられ血を飛び散らせた悠太は、雲を認め吸収する。
美嘉の体は操り人形のように動き出し、悠太の上に馬乗りになる。
「……え?」
「漆原、終わりにしよう」
「いやあああぁぁぁあぁぁ!」
狂声が轟き、美嘉は大きく口を開く。
八重歯は悠太の首筋の肉を引き裂き血管を突き破る。
顎の力は徐々に強くなり、肉がめくれ上がる。
「殺せ」
美嘉は、悠太の一瞬震えた首を噛み千切り大きく唸り声を上げた。
広がっていた雲は消え去り異空間は暗転……崩壊を始める。
美嘉達は眠りにつくように意識を失い、現実へ意識を戻す。
最後に悠太と日向だけが残り、使命を果たしたことを噛み締める。
「ゆーた……痛い?」
日向は横になる悠太の頭を膝の上に乗せ、いつの間にか傷の消え去った腹部を触りながら優しく聞いた。
「あぁ、痛いよ。本当に死んでしまう痛みだ」
死んだ魚の目はそのままに、日向と目を合わせる。
「ゴメンね」
「なんで日向が謝るんだよ」
悠太は呆れたように笑う。
「私が月鳥を――」
「――俺が望んだんだ。後悔は無い」
答えを完全に聞かず、過去の決断を繰り返す。
「……ゆーた」
「日向が守ってくれるから……それだけでいいんだ」
「…………うん」
日向は涙を零さぬよう上を向いた。声を漏らさぬように唇をきつく結ぶ。
「ところでさ。月鳥……こういうのは最初に教えてくれよ」
無事に解決したこともあり本気で咎めはせず、呆れながら月鳥神にそう言う。
「ふえ? 『こういうの』って?」
いつの間にか月鳥神は日向の背後で胡坐をしていた。烈と共に煎餅を齧りながら疑問を浮かべた。
「だから、他の人を丸々連れてきて雲を消せることをだよ」
「何言ってるの? こんなの初めてだけど?」
「は?」
「あの空間に行けるのは私と烈だけ」
「じゃあ……なんで?」
「悠太が連れてきたのですぞ?」
烈は兜越しに目を合わせ、首を傾げた。
「そうなのか?」
「自覚なし……ね? まぁ私の能力を使う以上それくらいしてもらわないとね?」
嬉しそうに月鳥神は笑い煎餅を全て平らげた。
「……まぁ、解決したしいいか」
「それじゃあ帰ろっか?」
月鳥神は右手に超能力を宿し、笑顔でふたりを見つめる。
「あぁ」
悠太と日向は目を閉じ、意識を現実から引き離してゆく。
深い微睡みから覚めたような、体に倦怠感の残る目覚めが悠太と日向を襲う。
周りの状況を確認すると、先生が笑みを浮かべながら二人の顔を見つめていた。
「よぉ中世古、圦本。今回は大変だったな?」
「えっと、そっか……戻ってきたのか」
日向は現実に戻ったことを知り、安堵の声を漏らす。
「先生。漆原は?」
死んだ魚の目をしながら悠太は椅子に座り直す。
「そろそろ起きるさ」
先生は視線を動かす。
それに合わせ、悠太も視線を動かした。
「……んん? ここは?」
「俺は……何をして?」
美嘉の両親は椅子に座りながらゆっくりと目を覚ました。
「……夢?」
美嘉は不思議そうにゆっくりと体を起こす。
「……というわけで、まだ本格的に部活が始まった訳ではないのですが……」
先生はいたって真面目な表情でそう言葉を放つ。
「漆原……さん?」
聞いていますか? と問うように名前を呼ぶ。
「はい、あぁ……いえ、部活……ですか?」
美嘉の父親は状況を理解できずにキョロキョロと辺りを見渡す。
「美嘉さんの部活についてお話を……とのことでしたので。これから美嘉さんも頑張ろうとしているので是非応援してあげてください」
思考回路が完全に復活する前に先生はセリフを畳みかけた。
「えぇ……そうね、そうよね。頑張ってね美嘉」
「え? うん……頑張るよ?」
美嘉と母親は曖昧に会話をしながら、平然を装う。
「えっと……それじゃあ、私達はこの辺で」
美嘉の両親は疑問を浮かべながらも、美術室を後にした。
「あぁ……えっと、中世古」
頭を掻きながら美嘉は悠太を呼んだ。
「なんだ?」
「なんか、よく分からないんだけどさ……その……」
右手で髪の毛をクルクルと触る。
言葉を探し、戸惑う。
「どうした?」
意を決したように悠太を見つめる。
「ありがとね」
美嘉は頬を少し赤らめながらも笑顔でそう言った。
屋上で最後に言われた言葉と全く同じであったが、その意味は明確に違っていた。
同音で、同義で、意義の言葉だった。
「……おう」
不愛想な返事であったが、ほんの少しだけ頬が緩んだ。
軽快な足取りで美嘉は両親を追った。
「質問です。先生って演劇部にでも入ってたんですか?」
一呼吸おいてから、悠太は率直な疑問をぶつけた。
「さぁ? どうだろうな?」
「変に演技が上手くて驚きです」
「その『変』ってどういう意味かは聞かないでおこう」
「そうしていただけると」
そんな二人の会話を見て日向は笑みを溢す。
「ふふっ……先生の演技、上手でしたよ! それに咄嗟にできるなんてね」
「圦本、そんなに褒めても何もないからな?」
「いやいや、本当に上手でしたよ!」
日向はお世辞ではなく、素直に、満面の笑みで先生を褒めた。
「ありがと……中世古もこうやって褒めればいいんだけどな?」
「屈折してるんで」
酷く汚れた笑み……しかし、本当に楽しくて、可笑しくて笑みが漏れた。
いつの間にか九月初めの嵐は消え去り、空は快晴。眩しい夕日が水溜まりに反射し、外の景色を一層明るく彩った。
こんにちは、
下野枯葉です。
九月の雲。
このお話で一段落です。
まぁ、まだまだ続くんですけどね。
このお話は最初の構想ではなく、その次の、しばらく考えて思いついた構想のお話です。
一番最初の構想は次の次になりそうです。
でも、このお話はとっても気に入っています。
面白いと思ったら感想とか頂けると幸いです。
厳しいこと言われたら泣きそうだけどね!
そうそう、最近の朝夕の冷え込みで体調を順調に崩しました。
うん。
辛いなぁ。
季節の変わり目に耐性を付けたいです。
いい方法は無いでしょうか?
深刻です。
来週までには治したいですね。
では、
今回はこの辺で。
最後に、
金髪幼女は最強です。