第二話 最悪の出会い
静香は逃げていた。
ああ一体どうしてこんなことになったのだろうか。
客と盛り上がった挙句、珍しく深酒をしてしまった帰りだった。
普段はそれとわからないように着替えて帰るのだが、その日は酒のせいか面倒でホールにいる姿に薄手のコートを羽織っただけの姿で帰り道を歩いていた。
午前一時。店が閉まり、掃除をして帰る道すがら。
一体どの位前からつけられていたのかわからない。ともかく気がついたときには、姿の見えない気配が、ずっと自分をつけているのを感じていた。
静香はナンバーワンのキャバ嬢だから、もちろん永久指名のお客は何人もいるし、しつこく言い寄る男達も多い。
ストーカーするような輩もいないとも限らないので、普段はそれとわからない格好で念のためいつも別の道を歩くようにしていた。
だから、きっとこうして追いかけてくる相手は自分の家は知らないはずだった。
そうでなければ静香の姿をしているときにわざわざつけてくるはずはなかった。家を知っているのなら待ち伏せすればいいのだから。
ともかくこの場を撒いて家に辿り着きさえすれば、きっと安全なはずだった。
男を撒くために静香は走りにくいヒールのまま、ネオン輝く舞台町を走りまくった。
右へ左へ。ともかく男を振り切りさえ、すればいい。
幸い静香は方向音痴ではないので、方向さえ見失わなければ家に帰れる自信はある。
複雑な細い路地の多い舞台町を奥へ奥へと突き進む。普段は立ち入らない物騒な地域だけは避けて急ぐうちに、はたと気付くと見たことのない場所に迷い込んでいた。
(ここは…。)
人通りはなくひっそりとした場所だった。すぐ隣には廃屋と思しき古い建物があり不気味さに花を添えている。あたりを見回すが古くて高いビルに覆われた場所で見通しは利かず、ネオンのある町側とは反対側にあるため、辺りは舞台町の中だというのに薄暗かった。
そこまで視認したときだった。視界が突然ぐらりと揺れたかと思うと、立っていられず、膝を突く。
(き…。)
気持ち悪い。
競りあがってきたものを喉の奥で無理やり止めて、荒い息をつく。視界がぐらぐらゆれた。
ただでさえ、あまり強くないお酒を普段より多めにもらった夜である。それに加えてストーカーを振り切るために、全力疾走だ。
気分が悪くならないほうがおかしかった。
何とか吐きかけたのは我慢したが、どうもこれ以上逃げることは体調的に出来そうもなかった。だが、ストーカーを撒けたかどうかも確認できていない状況で、道端で休んでいるわけにもいかなかった。
(ともかくどこかに隠れて…。)
そう思って、あたりを見回すと、一軒の古びた廃屋が目に入った。そこは今にも崩れかかりそうな今の舞台町には珍しい木造の建物だった。こんな建物が舞台町に残っているのかと、元気なときには驚きもしただろうが、今はそんなことはどうでもいい。
静香は揺れる視界とひどい頭痛にくらくらしながらも、なんとかその建物の玄関口まで這うようにしてたどり着く。
ともかく、どこか休めて、隠れられる場所が欲しかった。
こんな古びた建物に人が住んでいるとは到底信じられなかったが、玄関の様子が廃屋にしては綺麗過ぎる。この舞台町で使っていない建物の前を掃除するような善良な人間がいるとは思えなかった。きっとこの古びた廃屋めいた建物には人が住んでいるはずだった。
時間は既に深夜を回っている。建物内はひっそりとしていて、電気はついていない。本来全うな人間なら当に寝ている時間だ。あまりまえだ。
静香はぐらぐら揺れる視界で、呼び鈴を探したが、見当たらない。
仕方なく、玄関先の扉を拳で叩く。
「…す、すみません。どなたか…。」
ガラスの張られた引き戸を叩くと以外に大きな音がする。それをストーカーが聞きつけやしないかと、ひやりとする。自然に焦るので扉を叩く音が大きくなった。
「すみません!お願いします!匿ってくれませんか?どなたか…。」
そのとき、突然玄関先の明かりがつく。
その中に人影が見えて、どっと安心する。
どうやら中の人が気付いてくれたようだ。まあ、あれだけ留守でなければ出てくるだろうが。
ともかくこんな時間に押しかけるのだから、せいぜい頭を低くして、と思っていたとき、不意に引き戸が開く。突然のことに動揺して思わず、開いた人間をまじまじと見てしまった。
そこにはおそらく静香よりいくらか年上の男性が立っていた。ひどく廃屋めいた建物に不釣合いな人間だと言うのが第一印象だった。
まず長身だ。明らかに背の低い日本人用に作られた間口から頭を低くしてこちらを覗きこんでいる。
栗色の髪に切れ長の瞳。鼻はすっと通り唇は薄く引き結ばれている。美男が多いと言われるリヴァイアサンの客や従業員を合わせてもなかなかお目にかかれないほどの美男子がそこにいた。そしてさらに不釣合いなことに男の足元には幾人かの。
(こども?)
小学校低学年くらいの子供がいた。
舞台町は夜の街。あまり子供の情操教育に似つかわしくない町だけにこの町で子供を見かけることはほとんどなかった。それなのにどうしてこんな夜遅くに舞台町で子供をみることになるのか。
そんな廃屋に不釣合いの男は静香の姿を確認するなり、ひどく驚いたような顔をした。
「あんたは…っ!」
その言葉に静香ははっとして慌てて頭を下げた。
「す、すみません!夜分遅くに!私、追われてまして。決して怪しいものでは…。」
そこまで口にしたとき。
ばしゃん!
一瞬。静香は何が起こったかわからなかった。気付いたときには前髪から水滴が垂れていて、そっと頭を上げるといつの間にかバケツを抱えたその男が憎悪の視線をこちらに向けていた。
あまりに殺気立った視線に思わず背筋が寒くなる。この男性とは間違いなく初対面である。一体なぜこんな視線を浴びなければならないのかわからない。
あまりのことに呆然としていると、男性が親の敵に対するよう憎憎しげに吐き捨てた。
「ここはお前みたいな人間が来るところじゃない!とっとと帰れ!」
そのまま男は引き戸を閉めようとする瞬間、静香は。
「…うりゃあ!」
「っ!」
間一髪完全に締め切られる前に片足を扉の間に突っ込んで阻止する。驚いている男の隙をついて、再び、引き戸を全開にしたかと思うと、静香の行動に驚いている男の胸倉を掴んで、視線を合わせ睨みつけた。
「…初対面の女性に対して、突然水をぶっ掛けるとはどういう了見だ?こら?」
完全に据わった目をして睨む静香に、男も思わずびびり気味に身を引こうとするが、静香はそれを許さなかった。
「この町では舐められたほうが負け。そんな町に生きている女を舐めたら…舐めたら…。」
勢いが続いたのはそこまでだった。
一気に視界が回った。静香は思わず、胸倉を掴んでいた男にもたれかかる。それから今度は喉から競りあがってくるものを押さえることが出来ずに。
「おげーー。」
「っ●△×◎$%#!!!」
男の悲鳴にならない声が聞こえた。だが、気持ち悪さは収まらない。さらに水をかぶったせいか悪寒がする。
静香は、力が抜けていくのを感じて、そのまま意識を手放した。
出会い頭に吐く女と水をぶっ掛ける男と。
どっちが最悪なんでしょうか?