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「お疲れ様ぁ。静香。」
表舞台であるホールから引っ込むと、少し薄暗いスタッフリームに支配人の片桐が立っていた。タキシードに口ひげを生やしたダンディな三十絡みの男性なのだが、なぜか女言葉で少し仕草もなよなよしている。撫で付けた髪の下の黒い少し垂れ目気味の瞳は優しげで、一見少し頼りなさそうに見えるが、本当に頼りない男がこの夜の街の激戦区である舞台町で何年も店を任せられるほど世の中は甘くない。
その証拠にリヴァイアサンは片桐が支配人になってからそれ以前の売り上げの三倍を記録しており、以前の二倍の広さに改装にも成功している。
静香は片桐を確認するとホールに通じる扉を閉める。途端、喧騒が遠くなる。
二人きりの空間になった瞬間、静香はそれまでの余裕に満ちた万能キャバ嬢の顔を変化させ、不機嫌丸出しの二十歳の女性の顔になった。
「…支配人。なんなんですか?あの客は?あんなのが紛れ込むなんて。会員制の売りはどうしたんですか!ぐわっ!あんなのせいで私の給料が!」
口調も態度も変えて地団太を踏む静香に、まあまあと片桐がなだめる。
「ほんと。まいっちゃいわよねえ。ま、貴女の給料だったら、全員分のボトルでも今日一日働いたら十分稼げるでしょう?ちゃんと給料から引いておくから払いは気にしなくてもいいわよ。」
意地悪く笑う片桐にぶすっとした表情を向ける。客にはとても見せられない顔だ。
「稼げますけどね。今日の分はただ働きじゃないですか!」
「だったら、おごるなんていわなきゃいいのに。」
呆れた表情を見せる片桐に、眦を上げて反論する。
「それはそれです。お客さんに不快な目にあったと外で言いふらされたら信用を売りしにしている店としても打撃じゃないですか。私はここ以外で働く気は無いんですから、つぶれてもらうと困るんですよ。」
静香は十八歳になってからこのリヴァイアサンで働き始めて、二年。それなりに仕事に誇りを持っていた。世間には眉をひそめられる仕事だが、人と話すのはむしろ好きでお酒を交えても会話の主導を握って、相手を楽しませられたらそれはそれで快感を覚える。逆に相手の機嫌も損ねやすい仕事であるため、スリルがあって面白いとも思うし彼女にとってはなかなか挑戦し甲斐のある仕事であった。
それに時間の融通が利くし、なにより時間単価の高い仕事は一人暮らしである彼女には大変都合が良い仕事だ。なくなってもらっても困るし、なによりこの場所が自分の居場所だと思っている。
そんな静香のプロ意識を知っていた片桐も流石に今日の客はまずかったと思っているのか素直に謝ってきた。
「…それはほんと、ごっめんねー。今後は出入り禁止のブラックリストに載せておくからぁん。」
素直に謝るのは片桐の良いところだ。下手に言い訳もしないし、大分自分より年下である静香の言うことも邪険せずに聞いてくれる。
「ほんとですよ?それにあれを紹介した奴もついでにお願いしますよ。本当に友達見る目ない輩もここの客としてだめだめですよ。」
「…いや、流石にそれは…。」
片桐が静香の言葉に渋面を作った。そのあまり普段にない決断の悪さにそっと眉をひそめた。
「容赦しちゃ舐められますよ?」
「それが、菅沼だって言ったら貴女それいえるぅ?」
思わぬ男の名前に、静香は絶句した。それから深く溜息をついた。
「…っ。………。あの男はまったく。」
菅沼と言う男はこの【リヴァイアサン】の上客の一人で最大の悩みの種でもある。払いはいいが、女の子にいろいろちょっかいを出しまくる。普通ならそのまま、力に任せて店から追い出せばいいのだが、どうやらどこかの暴力団の組員らしく報復が怖いため、ある程度のことを目と瞑っているのである。
「でも、それならあの客追い出してよかったんですかね?」
暴力団というのはともかく面子を大事にするから、身内に被害が及ぶとともかくただじゃ済まされない。菅沼の報復を恐れるのであれば、静香が啖呵を切った時点でむしろ押さえられているのは静香のほうではなかったか。
だが、片桐は心配ないとばかりに首を横にふった。
「それはいいと思うわ。自分が追い出されなかったら特に気にする人じゃないから。友達甲斐の無い人よね。」
「胸糞悪くなります。」
「こら〜。ナンバーワンが糞とか言わない。同感だけどね〜。」
茶化したようにいう支配人とくすりと笑いあう。
「じゃあ、ボトル分、もう少し稼いできます。」
静香が踵を返しかけたとき、片桐がさらに声を掛けた。
「うん。がんばって…あ。そう言えばさっきの男、黒服たちに聞いたらまだ店の近くをうろうろしているみたいだから、変えるときは一人で帰んないほうがいいわよぉ。」
あっけらかんとした口調だが、物騒な内容に静かは顔を顰めた。
「ええ?…しつこいですね。流石、菅沼推薦…。でも大丈夫でしょ。いつもの格好で変えれば誰も私だって気づきませんって。」
いつもの姿を自分で想像して、静香は自身を持って頷くと少し苦笑気味に片桐が笑う。
「…まあ、そうでしょうけどね。でも昨日貴女、酔っ払ってそのままの格好で帰ったでしょ?それは流石に危ないわよ?大丈夫だった?」
「……それは…。」
昨日のことを思い出し、少し言い淀んだ静香に敏感に片桐が反応する。
するりとそれまでの茶化した雰囲気を消し、鋭い視線を向けてくる。
「…なんかあったの?」
「あったと言えばあった…。」
片桐と目を合わさないように静香は視線をそらした。その様子に、普段笑ったような顔の片桐が怒った。
「なにそれ!何ですぐ言わないの!すぐに警察!」
携帯電話をすぐさま取り出した片桐を慌てて静香は止める。
「ちょっと!キャバクラの支配人がすぐに警察とか言わないでくださいよ。大丈夫でしたよ。だから今日何事もなくここにこれているんでしょ?」
慌てて取り繕うと、確かにそうだが、と言った感じで片桐がしぶしぶ携帯電話をポケットにしまう。
「…ま、そうかしら。でも本当になにもなかったのよね?」
心底心配といった顔の支配人に少しおかしくなる。本当にこの支配人はどうしてこんな水商売の店を任されているのか不思議なくらいお人よしだ。ナンバーワンとはいえ、たかだかキャバ嬢の自分なんかを心配するのだから。だが、悪い気はしないので笑った。
「相変わらず心配性ですね。本当ですよ。ちょっといつもと違う道を通って帰っただけです。ちゃんと家にも帰りつけてましたって。」
「ほんとに?まあ、静香の言うことだから信用するけど。気をつけてよ。」
疑わしそうな顔をしてはいたが、こちらを尊重して引き下がった片桐の行為にほっとする。着かず離れずな距離。決して他人行儀ではないが、家族といえるほど馴れ馴れしくもない。
そんな関係が静香にはとても居心地が良かった。
「はい。それじゃ、そろそろホールにもどります。」
「ああ、いってらっしゃい。」
今度こそ支配人が手を上げ見送るなか静香は再び舞台へと戻っていった。