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その日、彼は初めて先輩に連れられてキャバクラに来ていた。
就職と同時に地方から都心に出てきた彼はまだ都会の華やかさになれない。
まだ新人の彼は予想以上に高級な雰囲気に飲まれて、硬くなっていた。
きらびやかな内装、花のある女性達。完全に気後れしてしまっていた。
女性達と楽しそうに笑いあう先輩達を横に固まったまま、ウイスキーをちびちびとやっている。本当に華やかな雰囲気に目がちかちかしそうだと思っていたときだった。
その彼の横に突然ふわりといい香りが振ってきた。
「本日は初めてですか?お客様。」
軽やかな鈴の音のような声が聞こえたかと思うと、女性がふんわりと彼の横に座る。
まるでずっとそこにいたような違和感の無さで座られ、彼は驚いた。
彼は彼女の顔をまじまじと見た。決して派手とはいえない顔立ちだが、どこかはっとするような美しさを秘めた女性に思わず、彼は顔を赤くした。ふふっと優しく女性が微笑む。
「あれ、静香?相変わらずいつの間にいたの?」
「あら、やだわ。相沢さん。ついさっきですのに。そんなに存在感薄いですか?」
「そんなわけ無いじゃないか。でも静香はこの店の中のどこにいても違和感ないからな。妖精みたいだと時々感じるよ。美しい妖精女王?」
「ふふふ。嫌だわ。相沢さんたら。…それより、こちらの方を紹介してはいただけないのかしら?」
そう言われて、どきりとする彼に先輩である相沢はどこかすねたような顔を作った。
「ええ、なんでわざわざ恋敵になりそうなやつ紹介しないといけないわけ?」
本気か冗談かわかりかねる声音だ。静香は困ったように笑った。
「まあ、私はいつでもどなたを紹介されても相沢さん一筋なのに。」
「それは流石に嘘くさいな。静香。」
「ばれました?でも相沢さんが好きなのは本当ですよ。」
そう言って不思議な魅力のある笑顔を向けられると悪い気はしないのだろう。
先輩が肩を竦めて、ちろりとロックを舐めた。
「まあ、いっか。静香だしな。こいつは、…。」
そう言って相沢が彼を簡単に紹介した。彼はただ、静香の魅力に圧倒されて何も言えずにそっと頭を下げたにとどまった。だが、そんな態度でもまったく静香は気にしていないように微笑んでくれる。
その笑顔に陶酔していると、今度は先輩から彼女を紹介された。
「で、だ。この娘は静香。進藤静香だ。」
「進藤静香です。静香と気軽に呼んでくださいね。」
そう言って静香はそっと名詞を差し出す。淡いブルーの花模様の描かれた中に薄い色で名前が書かれている。それを固まった腕で何とか受け取る。
「今後ともよろしくお願いしますね。」
そう言いながら少しはにかむ様に静香が微笑み、彼は余計に固まった。
決して華やか過ぎる顔立ちではないが、はっとするような色気と笑顔が人気のキャバ嬢だった。今日の服装は白のラインが綺麗な薄いブルーのドレス。誰もが彼女の仕草に話術に一度は恋すると言わしめたほどのナンバーワン。その日彼女がついたテーブルはいつも以上にお酒の減りが早くなるともっぱらの噂であると後に先輩から聞くことになった。
「じゃ、自己紹介も互いにすんだし、さっきの続きなんだが…。」
そう言ってまた先輩が話し始める。笑いさざめくテーブル。よく場の雰囲気を変える人間がいるとは聞くが、静香がくる先ほどのテーブルより話の盛り上がりが遥かによく、明るくなることを新人の彼ははじめて知った。
思わず、静香の行動をつぶさに見てしまう。彼女は客の手にあるロックのグラスが残り少ないのを見て、静香はすぐにお代わりを用意する。
それをさりげなく交換して、その隣の客が煙草を取り出そうとする気配がすればすぐに、ライターを用意する。完璧な気遣いと、心配り。
まだ二十歳をいくらか過ぎたばかりの女性とは思えない接客術だ。
先輩が上司の悪口を言えば、相槌を打ち、客同士で盛り上がっていれば、あえて口を挟まない。皆が会話を楽しんでいる。その場の雰囲気を作るのが彼女の役目で、それを完璧にこなしている。
「それでさ、もう、そのときの社長の言い分ときたら…」
相沢が、そう愚痴ろうとしたとき、静香のテーブルの横で突然その騒ぎが起こった。
「きゃあ!」
がっちゃん!
そのとき突然何かが倒れる音が聞こえた。すぐ隣の席で客らしき男がソファに肩肘をつきまるで突き飛ばされたような格好をして、そのズボンにはおそらく倒れた拍子についたであろう酒のしみが見て取れた。
皆が呆然と音のほうを見る中、静香は素早く、そのテーブルについていたのはまだ入店して一週間たっていない新人の子だと確認した。
その間におそらく突き飛ばされたのだろうショックから立ち直った男がソファの上から立ち上がり、激怒した様子で怒鳴った。
「どうなっているんだ!この店は!支配人を呼べ!」
怒鳴り散らす男にびっくりしていると、隣の静香が動いた。それに気付いたこちらに素早く小声で「すみません」と非礼を詫びる。呆然とするこちらを残して彼女は、騒ぎの起こったテーブルに近づいた。
「お客様。何か、この娘が粗相を?」
静香が近づくと、女の子が胸の部分を両手で押さえて、涙ぐんでいるのが見えた。男は一瞬こちらに来た静香に見惚れたが、次の瞬間に声を掛けたのがキャバ嬢だとわかって怒鳴った。
「なんだよ!貴様!俺は支配人を呼んでいるんだ!お前みたいなキャバ嬢じゃねえ!」
静香に向けた、あまりの無知蒙昧な台詞に他の客やキャバ嬢が眉をひそめた。
だが、静香は慌てず、まるで子供に言い聞かせるみたいに言った。
「私はこの【リヴァイアサン】のナンバー1の静香です。ここでは女の子の統括をしているのは私です。この娘が何かいたしましたか?」
あまりに毅然とした態度に思わず、酔っ払っていた男もたじろぐ。
「…その女が、何もしてないのにいきなり俺を突き飛ばしたんだよ。だから俺はグラスを倒して、服に酒がかかってだな…。」
「うそ!この男が私の胸に手を…!」
少し涙目で反論しようとした女の子を目線だけで黙らせた。接待する側が、客を非難するのはあまり見目のいいことではないからだ。だが、彼女の言葉で大体の事情を察した静香はしずかに酔っ払った男に向き直った。
「…お客様。この娘がお客様にしたことの非礼は詫びます。ですが、ここは紳士の集まる社交場です。お客様は少しこの場所を勘違いなさっていませんか?」
「…なんだと?」
静香の言葉に客の顔に酒のせいだけでない朱が上る。だが静香はあくまで悠然と微笑んだ。
「ここは会話を楽しむ場所です。他のことがお望みでしたら、別の場所にお願いします。」
一瞬静香の笑みに見惚れたようになった男だったが、暗に出て行けといっている言葉だと理解して、いきりたった。
「…っ!たかだかキャバ嬢の癖にお高く留まってんじゃねえ!」
大分酔っている様子の男が濁った目で睨むが、静香はまったく引かなかった。
「あら、それなら貴方はそんなキャバ嬢に追っ払われているそれ以下の存在なのですね。」
「あんだと!こら!」
男が静香に触れようと手を伸ばすが、直前に静香がぱしりと手を払いのけた。
それから、醜いものでも見るように眉間に皺を寄せた。その表情がいつもの明るい彼女のものとはかけ離れ、まるで気高い女王のような威圧が見えて男が思わずたじろいた。
「触れないで欲しいわね。汚らわしい。…さあ、お客様がお帰りだわ。」
静香が手を叩くと、二人の屈強な男が客の両脇を掴み上げ、店から引きずり出す。
客は必死で抵抗しようとするが、ただでさえ力の強そうな男二人につかまれ、逃げることも出来ず連れ出される。
「くそっ!キャバ嬢ごときが!覚えていろよ!」
「…ええ、覚えておいてあげましょう。汚らわしいキャバ嬢以下お客様。」
静香の言葉に顔を真っ赤にしたまま、客の姿が、扉の外に消える。
それを完全に確認してから、静香は静まり返った室内に向かって手を打った。
一斉に扉に注目していた店中の視線が静香に集まる。
「さて、皆様。楽しくお酒をお楽しみの中、無粋な騒ぎを起しまして申し訳ございませんでしたわ。」
そう言って静香が深々と頭を下げると、店の従業員がそれに習って頭を下げる。
「…静香が謝ることじゃないだろう?あの男が悪いんだから。」
客の一人がそう言うと、そうだそうだ、と次々と賛同の声が上がる。
その声が静まるのを待ってから静香は再び口を開いた。
「いえ、この店のナンバー1として騒ぎを小規模に抑え切れなかったのは私の落ち度です。…ですが、庇ってくださった皆様のお気持ちは大変嬉しかったです。ありがとうございます。」
そう言って、最初に庇ってくれた男性客に笑顔を向ける。それは決して明るすぎるものではなく、恐縮している雰囲気の中に恥じらいのようなものを感じさせる表情で、思わず男性客が赤くなる。周りの嫉妬交じりの羨望が男性客に飛んだ。
「お詫びと言ってはなんですが、今日は各テーブルに一本ずつボトルを私からサービスをさせていただきます。」
「え?マジ?」
若い客が思わずといった感じで、驚きの声を上げる。
通常より高い店なのでボトルを入れるのに十万円以上はざらだ。ボトルを入れるのは若い時分は難しいのだ。
静香はそういった男性の懐具合も見た上で、その客にも決していやみでない笑みを浮かべながら話しかけた。
「ええ、お客様。不快な思いをさせたお詫びとしてはお酒で代用とは少しおかしいですけど。許していただけますか?」
「ええ!?そんな!もともと不快な思いなんて…。」
しどろもどろになった男性客は静香の笑顔で顔を赤くして俯いてしまう。
「…それは安心しました。」
そう笑顔のまま、心底安心したような顔をした静香は店の奥で店主がかすかに指を動かしたのを目端で捕らえて視線だけで頷き返した。静香はホールに向き直って
「では皆様。ごゆるりと再び楽しい時間をお過ごしください。」
頭を深々と下げた後、さりげない様子でまるで舞台を引っ込む主演女優のような足取りで奥へと歩き始める。
そんな静香を見て、誰も不自然に思って声を掛けたりしない。
ホールには騒ぎが起こる前のざわめきだけが戻り、静香はその舞台上から裏へ戻った。
キャバクラの雰囲気ってわかりません。
突込みがあったらどうぞ。
修正しますわ。