2 返事 フォース・マスター 恋とお金と自由
もうすぐ、18時になる。
今日はまったく仕事が手につかない1日だった。
今日も暑気払いだと言って飲みにくり出す算段
の同僚たちを尻目に、自分のデスクからエレベ
ーターまでの通り道をいつもよりも大きく迂回
しながら、声を掛けられないようにしながら、
僕は約束の場所に向かった。
いつもは、ごちゃごちゃのままにして帰るデス
クの上が、今日は滑走路のようにキレイに何も
上に置いているものがなかった。仕事が手につ
かない分、机の周辺を片付けた、と言うよりも
ビニールの大3袋分のゴミを出した。
約束の場所へ向かう地下鉄の中でも、昨日の彼女
の言葉の意味を何度も考えてみたが、まったくピ
ンと来るものがなかった。
彼女の今やっているビジネスか、今から立ち上げ
ようとしているビジネスへ参加しないかという誘
いだろうと思うが、昨日たまたま落とした書類を
拾い集めて渡しただけで、彼女は僕のことを何も
知らないし、僕も彼女のことは全然知らないのだ。
気づくと、いつも飲んでいる缶コーヒーではなくて、
ビタミン入りの健康飲料を、なぜか駅の自販機で買
っていた。しかし、自分でも、何か大きな人生の転
換地点に立っている気が強くしていた。
だから、ビジネスの内容も、もらえる給料、もしか
したらアルバイト代かもしれないが、額がいくらで
もいいし、今のレベルの生活を維持できるかも考え
ずに、とにかく、やってみようと思った。
昨日、一度訪れたオフィスは、雰囲気がまったく違っ
ていた。人が慌ただしく出入りして、どこかで誰かの
電話でやり取りするの声が絶え間なかった。
「ありがとう。来てくれて。
昨日来てもらった時は、誰も居なくて静かだったけ
ど、いつもはこんな感じなの。お話は向こうの会議室
でさせてもらうんだけど、その前に、最初にひとつだけ。
あなたの返事は、私の話を聞いてからなのか、聞か
なくても答えは出ているのか、それだけ聞かせて欲し
いんだけど 」
昨日初めて会った時には、優雅さが一番印象的だった
彼女だが、今日は目を釘付けにされそうな程の清楚(
せいそ)さのベージュのワンピース姿だった。昨日の
彼女は何を着ていたかさえ思い出せなかった。
僕は話を聞かなくてもOKするつもりだったので、そう
答えた。
「私の方からの条件を何も聞かずに、OKをしてくれた
のだから、あなたが必要なものはすべて準備させても
らうつもりよ。 まあ、細かい点は、契約書に落とし
込んで、明日の夕方までには用意しておくから。
じゃあ、気分を変えて、ゆっくり話をできる所に行き
ましょうか 」
僕たちは、ビルを出てから、歩いてすぐの焼き鳥屋に
入った。
「ミナミちゃん。いらっしゃい」
彼女は、ここの常連らしく、店の若い大将が、すぐに
声を掛けて来た。
彼女の下の名前を聞いて、そう言えば、まだ、お互い
の名刺交換もしていなかったと思い、僕が名刺を出し
て名乗ろうとすると、彼女が手でそれを遮
って言った。
「名刺を交換するのは、仕事場か、高級クラブだけに
しましょう」
彼女は、囁くささやくように耳元でそう言
った。