序 章 別離と旅立ち 1
なろうでは初投稿です。
マラドロ・アプレンディは、あの日のことをよく覚えている。
一年前。十二歳の、ある日。
エストランタ王国。その西にある小さな村、パトリア村。マラドロの故郷。
その日はやけにいい天気だった。
太陽が空の真上にあるから、家の中はむしろ暗かった。
ぼろぼろな木枠の窓からは、雲一つない青空と、遠くまで広がる草原が見えた。
だが、そんな澄み渡る青空とは対照的に、マラドロの心は暗かった。
木とレンガでできた小さな家の、小さな部屋。そこにある小さな手作りのベッドには、マラドロの母がすぅすぅと眠っていた。
マラドロはそのベッドの傍らで、ぼろぼろの木の椅子に座り、朝からずっと母の顔を見つめていた。
ひどくやせ細った母を見て、もう、母が長くないことをマラドロは悟っていた。
きっと、母も気づいていただろう。それでも母の寝顔は、穏やかだった。
頬がこけて、頭蓋骨の形が分かってしまうほどやつれている。だというのに、母の顔は、この世界のつらさとか、苦しさを、そんなもの知りませんよ、とでも言っているかのように、静かで、安らかだった。
ふとマラドロは立ち上がり、自分の後方にある棚の、写真立てを手に取った。
写真には、派手な化粧を施した、ピエロが写っていた。
「マラドロ?」
聞こえた声にマラドロは振り向いた。母の声だ。いつの間にか起きていたらしい。
「……お父さん、見てたの?」
「……うん」
父、というのは、写真のピエロのことだ。
父はエンターテイナーで、各地を転々と旅をしていた。今、父が何をしているのかは知らない。それでも二人は、父が今日も誰かを笑顔にしていると信じている。
「かあさんにも見せて」
マラドロは写真立てを、母の顔に近づけてあげた。きっと、あの今にも折れそうな手では写真立てを持つことすら、かなわない。
「やっぱり、かーっこいいなぁ……」
「そうかな」
そのピエロは派手な化粧をしていて、マラドロの目には、かっこいい、というより、おどろおどろしい格好に見えた。しかしどうやら、母にとっては、違うらしい。
「そうよ、私にとって世界一かっこいい人だもの」
くすくす、と自慢げに母は語るのだ。やれやれ、とマラドロは肩をすくめる。
「はいはい、惚気るのはその辺にしてさ、ご飯食べよう?」
母は、もう何日もものを食べていない。マラドロはすこしでも食べてもらえるように、粥を作っていた。キッチンから粥の入った鍋を持って来ようと立ち上がろうとする。しかし。
「んーん。いらない」と、母はそれを拒否した。そして続けて、「それよりかあさん、今日はマラドロとお話ししたいな」と言った。
マラドロの心臓が、キュ、と縮まった気がする。嫌な汗が流れる。まるで、死神か悪魔に心臓を掴まれているかのようだ。
「…………えー?何の話ー?」
薄々想像はついている。ただ、信じたくない。だからマラドロは、とぼけてみせた。
「……マラドロのこれからについて、とかさ」
母が、神妙な面持ちになる。
マラドロは、ああ、と察した。
その一言で、マラドロはもう逃げられなくなった。手が小刻みに震える。怖い。母が居なくなることが、どうしようもなく怖い。
それでも聞かなくてはいけない。息子として、家族として。
これは、母の最期の言葉。
遺言、なのだから。
「マラドロ、キノコ食べられるようになりなさい。残すのは行儀が悪いわよ」
「……うん」
「それからね、人様の迷惑になることはしないように。もししちゃったら、ちゃんと謝ること。マラドロはわかってると思うけどね」
「……うん」
親としての、最後の説教。でも、普段通りのお説教。それがいっそう、悲しい。
いつもは軽く流してしまうのに、今日だけは真剣に聞かなければならない。明日も、明後日も、その厳しく、優しい声で叱ってほしいのに。きっとその願いは、もう叶わない。
「とうさんの背中を、追いかけるんでしょう?」
「…………」
マラドロの夢は、父のようなエンターテイナーだった。いつかとうさんのようなパフォーマンスをやるんだ、と毎日のように母に語っていた。そのたびに母は、はいはい、とにこにこと笑っていた。
その想いは、今も変わらない。
マラドロはまっすぐ母の顔を見て「うん。もちろん」と答えた。
「よろしい。じゃあ、その想いを忘れちゃダメよ」
「わかった」
目頭が熱くなってきた。それでもまっすぐ母を見つめていなければいけない。見届けなければいけない――。
「マラドロ」
「……う、ん」
母が、マラドロの栗色の髪の毛を整える。
そして整え終わると、そのままマラドロの頭を撫でた。
背筋を伸ばす。膝の上の握りこぶしに力が入る。
「頑張ってね」
「ん……」
「辛いことがあっても苦しいことがあっても、マラドロならきっと乗り越えられるから」
母は、細くて白くて冷たい手のひらで、マラドロのほほを包んだ。手の甲に、マラドロの涙が流れた。
「……ん」
「がん、ばって……」
「……約束する」
くしゃくしゃにしゃがれた声で返事をする。震える両手で、頬の母の手を優しく握る。
すると母は、すぅ、と穏やかな顔になって、ゆっくりと目を瞑った。
「……マラ、ドロ」
「なに?」
「かあさんのところに生まれてきてくれて……ありがとう……」
「…………っ」
それきり、母は目を覚まさなかった。マラドロは、自分のほうが感謝するべきなのだ、今まで育ててきてくれて、ありがとうと言いたかったが、嗚咽に邪魔をされて、最後まで言葉にならなかった。
青い空が茜色に染まるまで、マラドロは泣き続けた。もう二度と目を覚まさない、母の亡骸を抱きしめて。
その日が、母が死んだ日だ。