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月下の人魚姫  作者: 朝倉牧師
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人魚の円卓

 ポロガニア王国の第一王子ルシオンと人魚の少女シャルロットは、運命の悪戯によって出会う。


 見渡す限りの大海原……。

 天地を蒼に染めた世界で、一艘の帆船が風を受けて優雅に進んでいた。

 豪華な外装が施されたその帆船に乗っているのは、ポロガニア王国の第一王子ルシオンと、外務大臣ルヴォルグ。

 そして親衛隊長のザルガと、その部下十数名が王子と大臣を護衛していた。


 陸路を使う場合とは違い、一度海に出れば船の上で命を狙う敵が姿を現す事などないが、海賊や海の魔物と出会った時の事を思えば十分とは言い難い戦力ではあった。

 しかし、この度の船旅の目的が目的であるが為に、これ以上兵士を率いる事ができない理由が存在していた。





 豪華な船室のソファーに腰を下ろした外務大臣のルヴォルグは、恰幅のよい体の割に小心な事で知られているが、外交の際には考えられる最悪の事態を常に考慮し、あらゆる手段を用意して慎重に事を進めることで、ポロガニア王国マウリッツ三世に信頼されていた。


「イスパラント皇国に向かう船とはいえ、もう少し戦力を揃えるべきでしたかな? いやしかし、あまり多くの兵を率いて我国に敵意ありと言い掛かりをつけられましても困りますし……」


 今回一応外交上は同盟国となっているイスパラント皇国から、第三皇女シーラの為の舞踏会が開催されると言う書状を受け取り、乗り気ではない第一王子のルシオンを説得して此度の舞踏会への出席を承諾させていた。


 ルヴォルグにはルシオンを此度の舞踏会に、参加させなければいけない理由が存在していた。

 イスパラント皇国からの書状には【両国の更なる親善の為に王子達の参加を~】とういう一文がしたためられており、半月程前から流行病に罹って療養している、第二王子ファーレンと第三王子ビルトを除けば、舞踏会に参加できる年齢の王子が存在しなかったからだ。


 もし仮に、このような内情で舞踏会の参加要請を断れば、「貴殿の国には王族の体調を維持出来る者すらおらぬのか? その様な国とは同盟関係をも考え直さねばいかんな……」などと言い掛かりを付けてイスパラント皇国が同盟と不可侵条約を破棄し、宣戦を布告してきかねないからだ。


 気苦労を重ねるルヴォルグの顔を横目に見ながら、面白くなさそうな顔でハンモックに寝転んでいるルシオンは「どうせ色気付いた姫様の品定め会だろう?」と、硬軟散りばめられた書状の内容からそれだけを正確に捉えて呟いていた。




 事態が急変したのはその日の夕刻……。

 沈みゆく太陽が世界を朱に染めた時、船の中もまた、【朱】に染まっていた。


 黒塗りの装束に身を包んだ十人ほどの賊が突如として船内に侵入し、何事が起ったのか理解が出来ない船員の命を奪い、風を受けて水面に船を走らせる帆に火を放ち、操舵の心臓部である舵を原形を留めない程に破壊していた。


「き…貴様らいったいどこから!! な……貴様はザルガ!! 国王陛下にこの船の護衛を任されていながら………、ぐはぁっ!!」


 船員たちの返り血で赤黒く彩られた黒塗りの装束に身を包み、不敵な笑みを浮かべながら護衛兵とルヴォルグを斬り捨てて、ルシオンの前に立っていたのは親衛隊長のザルガだった。


「ルシオン様、長くもない船旅ではありましたが、このあたりで終りといたしましょう」


 ザルガの後ろに控えていた剣を手にした黒装束が数人、ザルガの脇をすり抜けてルシオンに迫った。

 この時、ザルガはルシオンの死と今回の陰謀の成功を確信した。


 ザルガの誤算は、幾度となく城下に繰り出しては近海漁猟用の小舟や商船に乗り込んで、彼らと共に過ごしていたルシオンの船に対する経験と、身体能力を読み違えていた事、そしてここ数年近隣諸国と大きな船戦も無く、模擬戦も行っていなかった部下と、王子との練度の差だった。


 ルシオンは揺れる船の中である事を、微塵も感じさせる事も無く、迫り来る白刃をかわし、黒装束の一人に足払いをくらわせて剣を奪い、流れる様な動きで、瞬く間に黒装束を斬り捨てた。


「なるほど、どうやら此度の一件、色気付いた姫君の気紛れではなく、我が子可愛い年増女の逆恨みだったという事か」


「流石は聡明なルシオン様、そこに転がる凡臣とは違い察しのお早いことで……」


 ルシオンの言う我が子可愛い年増女とは、第二王妃のソフィアの事だ。

 昨年、第一王妃のマーリンが長年患っていた病で亡くなると、王位継承権を持つ第一王子のルシオンを疎み始め、事ある毎に些細な事で言い掛かりを付け、王位継承権を剥奪しようとしていた。


「ふん。まあ、感心した事といえば、お前も独自のルートで、イスパラント皇国で行われる舞踏会を嗅ぎ付けていた事位だ。俺も信頼できる部下から、その話を事前に知り得ていたからこそ、貴様らの稚拙な策に掛かったが、俺を亡き者にした後、流行病で臥せっている第二王子のファーレン辺りを、足の速い船で送り届けでもするのか?」


「な……、そんな話信じられるか!! もし仮にその話が真実であるにせよ、その先の事はソフィア様が考えてくださる」


 ザルガは誰の目にも明らかな程に動揺していた。

 元々機微に疎く、命令だけに忠実だった男である。

 あまり情報を与えては混乱し、裏切る可能性も無いとは言えなかった為、ソフィアがザルガに必要最低限の事しか伝えていないと考えられなくもなかった。


 しかし、ルシオンはもう一つ先まで読み、そもそもソフィアがザルガに説明する必要が無い事態を想定していた。


「そ……そういう事ですので、おとなしく此処で………、おい!! なんだ、今の揺れは!!」


 ギシギシと音を立てて不自然に揺れる船に、激しく動揺したのはルシオンではなくザルガの方だった、ザルガの計画では、このタイミングでここまで船が運航に異常をきたす事態はあり得ない。

 船を沈めるのはあくまでも、ルシオンを亡き者にした後、ザルガが油を撒いた船を脱出して安全圏に達してからの事だった。そんなザルガの心情を嘲笑うかの様に、明らかに異常と分かる揺れが数秒ほど続き、急激に船体が傾き始めた。


「やはりな…。死人に口なしか……、どうやらお前も、あの年増の捨て石の様だな」


 この時になってザルガは、我が身の浅はかさを呪った。

 冷静になって少しでも考えればわかる事だが、大臣や王子が死亡した船から親衛隊長だけが生きて帰って、王から嫌疑がかけられぬ訳があろうか?


 そんな筈はない、必ず断罪され、護衛の任務を全うしなかった咎により死罪は確実だ。

 当然王族と大臣を護らなかったというその罪は、ザルガの妻子にまで及ぶだろう。


 下手に遺族を残せば、それがいつ、復讐心に支配された暗殺者に姿を変えるか、知れたものではない。

 今回、ルシオンの暗殺を計画したソフィアにしてみても、生き証人が居る事を快く思う筈も無く、同調してザルガやその妻子の助命を願うとは考えにくかった。


「いったい誰が……」


 ザルガの脳裏に浮かんだのは、今回の陰謀に加担した者……。

 計画を立案した第二王妃のソフィア、偽の書簡を作成した外務大臣補佐のフォルシーニア、そして実行犯の親衛隊長のザルガ、そして……今回同行する筈だった親衛隊副隊長のリリー。


 今回の陰謀に加担し、今この場に居ない副隊長のリリーは一週間前から体調不良を理由に自室にて養生している事になっていた。

 しかし、彼女は初めから黒装束に身を包んで、船底の倉庫の隅で息を殺して潜んでいたのだ。

 当然このことは親衛隊長のザルガ以外は誰も知らない。

 計画が実行に移された今になってもルシオンの船室に来る事無く、姿も見せないリリーの真の目的は最早疑うまでもなかった。


「馬鹿な!! 私には次期宰相の地位を………、あの女!! 何が『今回の手柄は全て隊長に……』だ!!」


 おそらくソフィアは最初からザルガの腕を信用していなかったのだ。

 船の上で一騎打ちをしたとしても、ザルガの腕では相討ちが精々だと見切っていたのだろう。


 そして腹心であるリリーに与えられていた本当の計画は、ザルガがルシオンを釘付けにしている間に操舵輪や帆を破壊し、船の航行能力を奪うという算段であったのだ。

 しかも、最悪な事にザルガが知らぬ間にこの船はある海域へと向かっていた。


「あ……あのテーブルを思わせる大岩とその周りにある無数の岩礁……、まさか此処は……」


 船窓から外を見て顔を蒼白くするザルガに、ルシオンは「あんな場所は他にはないだろう? 人魚の円卓……別名マーメイドサンクチュアリ。どんな海賊も軍船も決して近づかない海の聖域だ」と、吐き捨てた。


「くそっ!! あの年増め、ここに船を侵入させるという事がどういう事か理解しておらんのか!!」


 ここにきてようやくザルガは自らが選らんだ道が完全に間違っていた事を思い知った。

 自らの欲望の為に国益すら考えない人物に、将来をかけていたのだから……。


 再び船が激しく揺れた。

 岩礁に船底を大きく破られ、そこから夥しい量の浸水が始まり、船を海の底へと誘い始めたからだ。


「全員なにか浮く物を確保して海に飛び込め!!」


 船内でザルガが最後に発したのは部下を想い、僅かでも生存確率を上げる手段だった。

 ザルガの命を受け、中身の入っていない樽やコルクで作られた非常用の浮き袋等が船外に投げ出された。


 その姿を見ていたルシオンは微かに笑みを浮かべながら、「このままでは流石に不味いな。俺も脱出するとするか」、と呟き、王家の紋章の入った短剣と、幾つかの宝石と金貨が入った革袋を腰に括り付けてザルガと反対側の海へと飛び込んだ。


 沈みゆく船から脱出し、運良くこれらの浮遊物にしがみ付く事ができた者。

 運悪く衣服が船体などに絡まりそのまま海の底へと連れ去られた者。

 運よく海上に出られたものの、近くに適当な浮遊物が無く力尽きた者など、様々な運命が脱出したザルガやその部下を待ち受けていた。


 この夜は満月ではあったが、闇が支配する海で全ての物を確認することなど叶わず、ルシオンやザルガは相手の動向を知る事も無く、潮の流れに身を任せ、流されるままに様々な場所へと導かれていった。

 




 数時間後、掴まっていた木片とルシオンが流れ着いた場所、それは人魚の円卓と呼ばれる大岩だった。

 ルシオンが自らの意志で泳いでこの岩に向かった訳ではなく、潮の流れに導かれて偶然にこの大岩へと流されて来たのだったが、それでもルシオンはある事を気にしていた。


「【マーメイドサンクチュアリに近付く事無かれ、近付かばそれは人魚に対する宣戦布告である。人魚と敵対する者、未来永劫、海の上での安全は無きものと知れ】だったか……、不可抗力とはいえ見逃してくれんよな……」


 ルシオンが呟いていたのはこの近海で語られる言い伝え。

 この海に船を浮かべる者で知らぬ者無き伝説である。

 事実、この場所に近づいた幾つかの国が船を出す度に舵に藻が絡まったり、巨大な海獣によって船が転覆したり、漁師が海に引きずり込まれて命を落としたりと海難事故が多発している。その幾つかは人魚が直接手を下したとも言われる。


「まあ、起こってしまった事は仕方がない。本当に人魚が現れたら一応事の次第を説明…………、あれは……まさか…………」


 ルシオンが乗っている大岩、厳密に言えば満潮時にも沈む事の無いこの岩は島ではあるが、その中央に人影が見えた。薄暗い月明かりに浮かび上がった女性の上半身は人影であったが、下半身には翠色に輝く鱗と金色に輝く鰭が伸びていた。


「お……」


 ルシオンは一瞬、言葉を失った。

 人ならざる人魚の姿を初めて見た為では無く、その人魚の美しさに心を奪われていたからだ。


 黄金で作られたかのような美しい髪、海の色を濃くした様な蒼い瞳、何処か憂いを感じさせる表情、そして人の部分である上半身。

 手は細く、しかし、細すぎもせず太すぎもせず絶妙なバランスで存在し、母性の象徴である胸は大きな貝殻で作られた衣服に包まれていたが遠目にもその存在に圧倒されそうだった。

 今までルシオンが王宮の舞踏会で見た各国の美女、いや、国家の庇護を得る芸術家が心血を注いで作り上げた彫刻でも適わぬ様な美しき姿は、まさに生きる芸術品と言っても過言ではなかった。


「人間!! そこを動くな!!」


 人魚に目を奪われていたルシオンに、大岩の傍から冷たい言葉が投げかけられた。

 そしてその言葉に続いて海中から姿を現したのは、別の人魚だった。

 岩の中央に座る人魚と比べれば幾分劣るが、それでも絶世の美女と言える顔立ちをしていた。


「人間め、よりにもよってこの日にこの場所に来るとは……な」


 更に別の人魚が姿を現した。

 そしてそれを切っ掛けにして十数人の人魚が次々と現れルシオンを取り囲んだ。


 この場所の人魚達のリーダーと思われる者がルシオンの正面に立ち、「人間よ。この場所をマーメイドサンクチュアリ。我ら人魚の聖域と知って乗り込んできたのか?」と、問いかけた。


 ルシオンは「そう思われても仕方がない事は理解している、しかし許されるならこちらの弁明を聞いて頂きたい」と切り出し、事の次第を懇切丁寧に説明した。

 その上で、「どんな事情があるにせよ、全ては俺の責任だ。こんな物で謝意を示せるか分からないが受け取って欲しい」と言って皮袋に入っていた宝石や金貨を取り出し、リーダー格と思われる人魚の前に差し出した。


「では、この緑と赤の宝石を受け取ろう。本来であれば許されざる事ではあるが、お主の人柄に免じて此度の事は不問としよう」


 リーダー格の人魚のこの言葉に、一瞬周りの人魚がざわめいた。

 今までであれば考えられぬ裁決だったからだ。

 しかし、次に続いた「その代り、明日の朝日が昇るまで、あの者の傍に居て貰えまいか?」という言葉に、周りの人魚は息をのんだ。


 指示されたのは島の中央で一人佇むあの人魚の事だった。周りの人魚は小さな声で様々な事を口走っていたが、やがてリーダー格の人魚に威圧されて一斉に口を噤んだ。


「こちらとしてもここから出る手段が無い。明日の朝まで傍に居る事は容易いが、その間に何かあるなら…………、いや、なんでもない。了解した」


 それを話す事が出来ないのだろうという事を察し、ルシオンはそれ以上何も聞く事無く岩の中央で佇む人魚の元へ歩を進めた。


「隣、良いか?」


 ルシオンに話しかけられた人魚はまず驚き、続いてリーダー格の人魚に視線を移してその表情からある程度の事を理解した。

 そして、「ええ、どうぞ」と小さく呟いて、自らの傍にルシオンを招き入れた。


 ルシオンには人魚の歳は分からないが、人間であれば二十歳前後であろうか? 月に照らされた人魚の顔は美しく、そして最初に出会ったリーダー格と思われる人魚と同じ様に何処か憂いを感じさせていた。


「どうしてひとりで此処に? と聞きたい所だが何か事情があるんだろう? 代わりといってはなんだが時間が来るまで何か話でもしないか?」


「そうね、私も同じ事を貴方に聞きたいけれど、何か事情があるのでしょう? だから代わりに人の暮らしとかを教えて貰いたいわ……」


 ルシオンは顔を綻ばせ、「なあに、俺の方の事情なんて大した事は無いさ。だがあまり面白い話でもないので、街の様子や俺たちの暮らしの事を話すとするよ…」と切り出した。


 その時、僅かに金属を擦るような音が辺りに響いたが、波の音に掻き消されルシオンの耳には届かなかった。




「なるほど……、毎日食べる食料品を売っているお店、衣服を買う仕立て屋、息抜きをする為の酒場、お祈りをする為の教会、人間の街には色々な物があるのね……。私達は海の底にある神殿で暮らしてるから火なんて滅多に使わないし、その、お酒……だったかしら? 樽に入っている赤い水はたまに船と一緒に沈んで来るわ。それを拾って来たお姉さまたちが神殿の奥でこっそり飲んでいるのは何度か見かけたけれど……」


 ルシオンが話を初めて数時間後。

 ルシオンと人魚はすっかり打ち解け、お互いの暮らしだけでなく趣味や嗜好……。飲食だけで無く生活様式や娯楽、そして様々な生き物の事を話し合った。


「なるほど。人魚の暮らしってのもなかなか興味深い物だ。自らの領土すら隅から隅まで知っている訳ではない我らにとって、海の中の世界など想像すら及ばないからな……。確かに難破船の数を考えれば様々な物資が海底に沈んでいる筈だし、それらが有効利用されていたとしても可笑しくは無いな」


 まさか人魚が海底で酒盛りをしているとは考えもしなかったが、人魚の味覚と人間の味覚に共通点があると分かっただけでもルシオンにとって大きな収穫だった。

 もし仮に人魚の多くが酒などの嗜好品を欲するのであれば、事故で沈んだ積み荷を漁らせるよりも、交渉の材料として人間側から纏まった量を贈る事も可能だからだ。


「城に戻れれば一考の価値はあるな……。さて……、どうやらお客さんがおでましの様だ、あまり歓迎も出来そうもないがな」


 ルシオンがテーブル岩の端々から覗く巨大な何かを睨んだ。

 実は一時間程前から海中に潜んでいた()()の気配に、ルシオンは気が付いていた。

 そしてこの岩から遠ざかる他の人魚達の気配も……。

 海中から現れた謎の生物の姿を目にしたとき、ルシオンは巨大な海蛇が鎌首を持ち上げているのだと思った。しかし、月明りで浮かび上がったその巨大なシルエットは蛇の姿ではなく、それらは全て吸盤が並んだ烏賊の足だった。


「こいつは大海蛇ではなく、大烏賊か……」


 厄介な相手だと思った。

 危険度はさほど変わらないが、眼球にしろ口内にしろ弱点を見つけやすい蛇と違い、烏賊は足そのものに弱点がある事は少ない。

 しかも本体が姿を現さない限り、海中に潜りでもしない限り致命傷を与えにくい。

 その上……、『朝日が昇るまで傍に居ろって事はこの人魚を朝日が昇るまで守り通せって事だろう』という事を、ルシオンが十分に理解していたからだ。




 大烏賊にしてみれば、目的の人魚の他に人間が居るなど予想外の事だった。

 そしてそれは一時間以上海中に潜み、様子を伺うという消極的な行動に表わされていた。

 戦うべきか、それとも今回は見逃しておとなしくこの場を去るか……。

 その上で出した結論は、【人間ごと喰らえばなんら問題はなかろう】だった……。


「チィッ!! たかが海産物が!!」


 ルシオンが手にしていたのは短剣だが、烏賊の足を切り裂くには十分な威力を持っていた。

 王家の紋章が入った短剣、それには東洋で造られる刀の技術を取り入れ、有事の際はそれで身を護れるように様々な工夫が施されている。


 ルシオンはそれを手に、滑り易い足場をものともせず唸りを上げて迫り来る足をかわし、吸盤と吸盤の間を狙って足を切り刻み、一本、また一本と大烏賊の足を斬り落とした。


 勿論の事、リーダー格の人魚との約束を覚えているルシオンは我が身よりも人魚を守る事を最優先とした。それが為に吸盤から生える鋭い爪に幾度と無く左手や背中を傷付けられたがそんな事に怯む事は無く、次から次へと現れる大烏賊の足に戦いを挑んでいた。


『こいつ、一体何本の足をもってやがるんだ? 伝説の大烏賊は百本を超える足を持っていると聞くが、まさかな……』


 この時ルシオンは既に十本を超える足を斬り落としていた。

 これだけ足を切り落とせば普通の烏賊であれば、もう一本たりとも足が残っていない筈だった。

 しかし海面から覗く足の数は未だに二十本を超えている。


 たまに途中で切れている足が襲って来る事があるので、無限に再生している訳では無い様だが、終りの見えない戦いは体力と精神の両方を消耗させていく。

 次第にルシオンにも疲れが溜まり、迫る足を躱しきれなくなっていき身体中に傷を増やしていた。


『こいつはまずい……。この時期なら夜明けまであと一時間ほどだが、それまでこの人魚を守りきれるのか?』


 口に出していい事と悪い事は十分に理解している。

 弱気な言葉は一切口にせず、心の中でほんの少し考えるだけ。

 しかし、劣勢というよりは絶体絶命といえるこの状況で、更に一時間以上人魚を守りきるという事が、いかに困難であるかは十分に理解していた。


 この時、ルシオンは満身創痍になりながらも、大烏賊の足による人魚への攻撃を、一度も許していなかった。

 可能な限り切り落とし、それすらかなわぬ時は我が身を盾にして人魚を守った。


『……どうして? この人はこんなに傷だらけになってまで……』


 如何な理由があるにせよ、我が身……、自らの命が一番大切。

 それは人魚であろうと人間であろうと変わりは無い。

 それなのにこの人間は、何度その身が傷付こうとも、迫り来る大烏賊の足の前にたちはだかり、自らを盾にして人魚を守り続けた。

 そしてこの時、人魚の心の奥である感情が芽生えていた……。





 ルシオンに二十数本の足を切り落とされ、怒りで目を真紅に染め上げた大烏賊が巨大なテーブル岩の上に姿を現した。


「よう海産物。ようやく姿を現したか、意外に小さいじゃないか……」


 小さいとは言ってもそれは伝説の大烏賊に比べての事で、目の前の大烏賊も十分に巨大な姿をしていた。

 ルシオンはざっと見て、約十メートル位だなと感じた。

 まだ無数に生える足はともかく、本体に致命傷を与えるには、自らが持つ短剣では役不足な事を、十分に承知していた。


『夜明けまでといっていたのはこいつが日光に弱いのか、それとも活動外の時間になるのか……。どちらにせよ……、守り抜くのみ!!』


 空が白み始めていた。約束の夜明けまであと十数分程、ルシオンは最後の力を振り絞って人魚を守り続けていた。


「きゃあぁぁっ!!」


「ちぃっ!! 其処から来るか!!」


 大烏賊は今まで切り落とされた自らの足に、まだ無事な足を密かに紛れ込ませて、ルシオンの死角になった所で、その足で人魚の身体を絡め取っていた。


「仕方ない…、当たれよ!!」


 ルシオンは唯一の武器である短剣を、怒りで真っ赤に染まった大烏賊の左目に放ち、見事に眼球の中心を貫いて、大烏賊をその激痛でのた打ち回らせた。

 結果、大烏賊は苦心して掴んだ人魚の身体を空中に放り出した。

 ルシオンは全力で人魚の元に駆け寄り、テーブル岩にその身が叩き付けられる前に抱きかかえ、この日何度目か分からない、人魚の窮地を救った。





 左目を潰された大烏賊は、完全に標的を人魚からルシオンに移し、残された足を全て使い執拗にルシオンだけを狙い続けた。

 この時点で朝日が昇るまで人魚を守るという約束は果たされたも同然だったが、満身創痍のルシオンの手には一切の武器が無く、朝日が昇るまで大烏賊の攻撃を躱し切れるかが問題となっていた。


『もうすぐ日が昇る、しかし、日が昇るとどうなるんだ? この烏賊が朝日を嫌って海の底に逃げ帰るとも思えないが…、しまった…』


 ルシオンは足元に転がる何かに足を取られ、その場に尻餅をついた。

 いつものルシオンであれば考えられない事ではあったが、体力を使い果たした上に満身創痍のルシオンでは、仕方の無い事だったかもしれない。


「俺とした事が切り落とした烏賊の足にでも躓いたか、……これは!!」


 尻餅をついた時点でルシオンは死を覚悟した、こんな好機を大烏賊が見逃すとは思ってもいなかったからだ。

 実際大烏賊は動きを止めたルシオンに止めを刺すべく、ゆっくりとルシオンに向かって進み始めていた。


 大烏賊がルシオンの目の前に迫った時、街の望んだ瞬間が訪れた。水平線の彼方から眩いばかりの朝日が昇り、凄惨な戦いの後を物語るテーブル岩を照らした。

 半透明の大烏賊の身体も朝日に照らされ、様々な生物の詰まった悍ましい内臓と大きな眼球の間にあるダチョウの卵ほどの大きさの水晶体の様な物が透けて見えた。

 しかし、朝日が昇っても怒りで我を忘れた大烏賊は海の底へと逃げ帰る事は無く、ルシオンの頭部を叩き潰そうと残された足の一本を高々と振り上げた。

 大烏賊の表情なんてものはルシオンにも判別は付かなかったが、もはや微動だにしないルシオンの姿を見て勝利を確信し、叩き潰される姿を想像して、嘲笑っていたのは間違いなかった。


「油断したな海産物、所詮、貴様らはその程度だろうよ!!」


 何処から取り出したのかルシオンの手には一振りの長剣が握られており、その切っ先で大烏賊の両目の間にあった水晶体を深々と貫いた。

 小波(さざなみ)の音しか聞こえないマーメイドサンクチュアリに、空気を引き裂くような大烏賊の断末魔が響きわたる。

 大烏賊の全身から黒い靄の様な物が溢れ出し、それと共に大烏賊の身体が朽ち果てて崩れ落ちていく。

 三百年近く生きた大烏賊は、その一割にも満たない時間も生きていないルシオンに打ち倒され、この先千年は続いたであろう命を此処で終わらせた。




 空には青空が広がり、日が昇るまで人魚の傍に居るという約束は果たされた。しかも人魚の想像を遥かに超える結果と共に…。


「海魔の力が弱まる日輪が天に上るまで無事だと知って驚きましたが、まさかあの海魔を倒してしまうとは思いもしませんでした……」


 昨晩出会ったリーダー格の人魚は空中に身体を浮かべ、ルシオンに話しかけてきた。


「なんだ、人魚は宙に浮けるのか?」


「ある程度、力を持つ人魚であれば空中を泳ぐ術を持っています。これはその応用の技術です」


 ルシオンが昔、懇意にしていた漁師に聞いた話だったが、そういえば海面を飛空する飛び魚とかいたなと思い、それの上位種が居てもおかしくないと考えた。


「何か失礼な事を考えている気がしますが、あなたの武勇に免じて深く追求しない事とします。あの子を…、シャルロットを生贄の運命から救っていただきありがとうございます…」


「なに、暴漢や怪獣から女性を守るのは男の役目だ、あの人魚の様に見目麗しければなおさらにな。特に感謝される事でもない。ああ、言っておくがアンタも十分美人だ」


 あの人魚~の辺りで目の前の人魚の表情が強張った気がしたのでルシオンはそう続けておいた。何処の世界でも女性という物は自分が一番美しいと言われたいのだろうと、ルシオンは心の中で考えていた。


「ティーリア。私はこの辺りの人魚を統べる女王で、ティーリアといいます。此度は我が娘シャルロットを救ってくれた事には感謝しています」


 子持ちだったのかと驚くと共に、女王でありながら我が娘を生贄に差し出した経緯が信じられず、思わずルシオンは口を開いた。


「女王の娘があんな海産物の生贄に選ばれるのか?」


「生贄を選ぶのはあの海魔です。その事に我らは如何なる口出しも許されません。たとえそれが我が娘であったとしても……」





 ルシオンも何か訳があると思っていたが、どうやらこういった事らしい。

 あの大烏賊はこの辺りを縄張りとする海魔の化身であり、この海域で人魚を襲わぬ代わりとし、毎年この時期に人魚を生贄として求め、喰らっていたそうだ。


 そして今年、ティーリアの娘であるシャルロットが生贄に選ばれてしまい、別れを惜しんでいたその最後の夜にルシオンが運命の悪戯で此処に流れ着いてしまったらしい。


 最悪の事態だとティーリアは考えたが、愛しい娘を一人で生贄にするのではなく、せめてその瞬間まで誰かが傍に居れば寂しくないだろうと思い、ルシオンが夜明けまでシャルロットの傍に居るように頼んだのだ。


 そして信じられぬ事にルシオンは人の身でありながら海魔の化身である大烏賊に立ち向かい、奇跡的に海魔の核である水晶体に気が付き、それを破壊して海魔を倒してしまった。これにより人魚はこの海域を縄張りとする海魔から解放され、二度と生贄を差し出さなくても良くなったという事だ。


「海の中では人魚は無敵じゃないのか? あんな烏賊位簡単に捌けたんじゃないか?」


「どれだけ我々が強かろうが、海魔の化身たる大烏賊の縄張りでは通用しません。過去に同じ考えを抱き、我らに相談無く大烏賊に挑んだすべての人魚はその身に石の戒めを掛けられ、石の彫刻と化して今も海の底に沈んでいます……」


 過去に友人や家族を生贄に指定され、それを受け入れられずに海魔の化身、大烏賊に挑んだ人魚はひとりやふたりでは無い。

 海魔の化身たる大烏賊はそんな事は事前に想定済みで、その時為に縄張りの海域にある呪いを掛けていた。


 人魚がその手に武器を持ち、反抗の意志を持って海魔に立ち向かった時その戒めは人魚の身体を縛る。人魚の身体目掛けて大烏賊の目の間にあった水晶体から光が放たれ、その光が人魚を包み込んで人魚を石の彫刻に変える。

 永遠にその身が石と化した無様な姿を晒し、他の人魚に海魔へ反逆を企てた者への末路と呪いによる戒めの恐怖を伝え続ける。


「私はこうなると予想していた訳ではありません。しかし、貴方にほんの少し期待しました。先程回収した剣を海藻で包み、貴方に何も伝えぬままこの大岩に忍ばせました。そうしないと海魔に反抗の意思有りととらえられ、剣を回収した人魚もこの大岩に届けた人魚も石の彫刻へと変えられていたでしょう」


 抜身の剣を誰かに差し出しただけでも敵対したと認識する呪い。

 確かにこの大岩に武器を忍ばせる方法など、そうは無かっただろう。


 ルシオンは身体から力が抜けていく事を感じた。大烏賊との戦闘に寄って齎されていた緊張がほぐれ、急激に訪れた睡魔がルシオンを夢の世界へと誘い始めていた。


「済んだ事はどうでもいい。女性の前だが失礼するよ。俺は少し休ませて貰う…」


 ルシオンはそのまま大岩の上に身体を投げ出し、瞳を閉じた。全身の傷から血が滲み出し、テーブル岩を朱く染め始めていた。海魔と戦い、気力だけで意識を保っていたルシオンから残されていた最後の力が抜け落ち、ルシオンの魂を深い闇の底へと誘おうとしていた。


「酷い傷……。でもこれはその身を挺してあの娘を助けてくれた証ね……、今、治してあげるわ」


「お母様!! その…、それは私が……」


 ルシオンが海魔から救った人魚、シャルロットがリーダー格の人魚の前に姿を現し、ルシオンと人魚の間に割って入った。


「あら? シャル、貴方もう祝福の術を使える様になっていたの?」


「はい、だから私が…」


 シャルロットは目を閉じるルシオンに近づき、『貴方に母なる海の祝福を』と呟きながら口付けた。ルシオンの傷に光が集まり、瞬く間に傷が塞がっていく。

 ルシオンの全身にあった傷は全て塞がり、今にも黄泉へと旅立ちそうだったルシオンは、安らかな顔で寝息を立てていた。


「よくやったわシャル。これで大丈夫ね」


「はい、お母様……」


 ルシオンの傷を癒す祝福の術を使う為とはいえ、初めて口付をしたシャルロットは頬を染め、熱の籠った視線をルシオンに向けていた。


「シャルロット。海魔を打ち倒して貴女の命を救った者としてこの男に感謝するのは認めましょう。しかし、それ以上の感情を抱くのは許しません」


「お母様…」


「貴女は人魚で、この者は人です。どれ程勇敢で尊敬に値する人物であっても其処だけは変わりません」


 種族の違い、それだけは越えられない壁として永遠に立ち塞がる。そしてその禁を破った人魚がどうなったかもティーリアは十分に承知していた。


「この者は此処であった記憶を封じて対岸の村に届けさせます。異存はありませんね」


 納得が出来ないシャルロットはティーリアに反論し、せめて記憶の封印だけは避けたかった。しかし、女王として振る舞うティーリアに何も言いだす事は出来ず、「はい…、お母様……」とだけ答え、口を紡ぎ俯いていた。





 数十分後、使いの人魚を通じてティーリアから呼び出され、人魚の中で最も様々な術に精通するセーラという名の人魚がテーブル岩に姿を現した。


「良く来ましたねセーラ。それではこの者の記憶の封印と対岸への移送。この二つをお願いします」


「用件は伺いました。では、私の役目は記憶の封印ですね。対岸の村への移送は他の者でお願いします」


 セーラはルシオンの額に指を当て、このテーブルで起きた海魔との戦いと出会った人魚の記憶に厳重に封印を掛け、代わりに海面を流されて漂流物で身体に怪我をした記憶を植え付けた。


「これで全身の傷と破損した衣服の矛盾は解決されると思います。後は余程の事が無ければ、記憶の封印が解ける事は無いでしょう」


 ルシオンの記憶が完全に消えなかった事に一抹の不安を覚えたが、魔法と言っても過言ではないその秘術に異を唱える事も出来ず、ティーリアはその結果を受け入れた。


「ではこの宝石も返しておきましょう。本来であれば此方から更に贈り物をしたい位ですが……」


 宝石の数が減るにしろ増えるにしろ、そんな些細な事であっても其処から記憶を取り戻さないとは限らない。


 ティーリアはその事を危惧し、昨夜ルシオンから受け取った宝石をルシオンの腰の皮袋の中へと戻した。


「後はルーたちに対岸の村まで輸送させるといいでしょう。あの子達の願いならあの村の人も快く受け入れると思います」


 ルーとニー呼ばれる人魚はまだ幼く、何度咎めを受けても禁止されている人里への侵入を行っていた。

 溺れて漂流している村の子供を助けたり、海中で拾った宝物の一部を手渡した事で村人と仲良くなり、セーラ達は今までも何度か漂流者をこの村の住人に任せた事もあった。


「今度の様な事もあるので今までの事は不問としましょう。しかし、あの二人も成人した暁には人里への進入を禁止します。その事は良く言いきかせておきなさい」


 セーラ達にそう告げるとティーリアはシャルロットを引き連れ、海底の神殿に向かいテーブル岩の上から姿を消した。





 読んで頂きましてありがとうございます。

 4~5話程度の短編で、投稿期間も空くとは思いますが、最後まで読んで頂ければ幸いです。

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