導入
「なぁメアリー、オードリー王女を知ってるかい?」
静かな声で話した男は、赤茶の少々長めの髪、同じ色の無精髭、整った、けれどどことなく気の抜けた、余裕のある顔。彼はエイデンと言って、N王国の軍に所属している。
彼の特徴は、その顔に見て取れる通り、ガチガチの軍人のように規則や上官に縛られるようなタイプの人間では無く、寧ろ放逸で、その割にいつも他人を安心させるような、柔らかい雰囲気を持っていると言うものだった。
彼はつい2ヶ月ほど前、メアリーを初めて指名した日から、毎週のようにこの風俗店「セリーヌ」に通っている。
今では彼女にとって一番の上客だった。
絶対に彼女に痛い思いをさせない、金はごねずに必ず払う、話も、男にありがちな仕事については、最低限しかしない、こちらの事情を詮索しない、それでいて二人とも笑い合えた。気が合う、と言うのが一番わかりやすい言い方だろう。
誰にも言ったことはないが、彼はメアリーの前の夫に似ていた。優しげな、けれどそれだけではなく、どこか底知れない感じ。無精髭で、その割には女性的な顔の作り。静かな話し声。意思の強そうな青い瞳。
エイデンから見たメアリーは、兎に角綺麗だった。枝毛の殆ど無い、さらさらと音のしそうな位綺麗な、肩に掛かる位の長さの、金色の髪。鋭さを感じさせる、非常に美しい顔。緑がかった青い瞳。
華奢に見えるが、今着ている赤いドレスの下は、驚くほどしっかりと筋肉がついていて、むしろそれが彼女の美しさを増大させることを、エイデンは知っている。
彼女の容姿は非常に優れているが、最も魅力的なのは、彼女の心だった。
明朗で、気が強く、それでいて女らしい優しさを持っているが、その奥底に隠しきれない――誇り、と言うのが一番正確だろう、そういった高潔なものが感じられ、それが堪らなく彼女を美しくしていた。
まず、普通に生きていれば出会うことの無い、極上の女である。
その彼女が、訳あり連中が住む「13区画」の更に奥、住む場所すらない奴らの一歩手前の連中達と混ざって暮らしているのが、何とも違和感を醸し出していた。
「えぇ、もちろん知ってる、「反逆罪一家」の長女でしょ?むしろ、この国に知らない人なんて居ないと思うけど…また、面白い法螺話でもしてくれるのかしら?」
赤い唇をにやりと曲げて、目を細めて彼を見る彼女に、なんら不自然な仕草が見受けられないことに、エイデンは顔に出さなかったが、安心させられた。
「いいや、俺だって年中人を冗談で楽しませている訳では無いよ。偶には普通に世間話でもしたくなるってもんだ。」
そう言って少し肩を竦めた彼は、ベッドの側のテーブルに備え付けてある煙草を吸おうと、右手を伸ばしたが、直ぐに目の前の彼女に禁煙させられていることを思い出して、所在なげに右手で頭をポリポリと掻いた後、また何時もの静かで、柔らかな声で話し出した。
「軍の一部で、ここ2,3ヶ月程前から、オードリー王女の捜索が国内で突然開始された。一部って言うのは、軍に所属する約10万の人間の内、小隊所か、分隊にも満たない、たったの5人、それ以外の人間には知ることすら許されていない。これはこの任務がどれだけ機密性の高い任務かを簡単に表してくれる指標だと思うんだがね。」
そこまで喋ると彼はちらりと彼女を見た。彼女は驚いていなかった。「それで?」彼女は表情を変えずに聞いた。エイデンはまた話し出した。
「はっきり言うよ。君は疑われてる。直ぐにこの国を出た方がいい。この話も、「二重スパイ」の目をかいくぐって、やっとの事で君に話せているんだよ。必要なら、俺も軍を抜けて、君とルーカスと一緒に逃避行する気があるぜ。」
恐ろしく重要な事を、こうしてさらりと言うところまで、オースティン――死んだ夫にそっくりだと思って、メアリーは思わず笑ってしまった。しばらく笑って、ちらりと彼を見ると、ぽかんとしていた。笑われるとは思っていなかったらしい。
メアリーはエイデンから目を離して、部屋の中をぐるりと見回した。
ベッドの木の部分は元の色が本当は何色だったのかも分からない位黒ずんでいたし、テーブルも、入り口の扉の木材も、部屋の壁も、所々へこんでいたり、欠けているような有様だった。
それらを覆い隠すように、派手な色使いで部屋は彩られていた。どこもかしこも蛍光色だらけで、部屋に居るだけで気が滅入りそうになるのは、彼女にとって何時も変わらない事だった。
この明るい墓場のような場所から、生まれてちょうど一年になる、息子のルーカスと出ることが出来るというのは、メアリーにとって何にも変わる希望だった。
だが、彼女は迷っていた。何時かこうなるかも知れないと言う事は、彼が姿を見せ始めた時からイメージ出来ていたが、彼が何処まで考えているのかが気に掛かっていた。様々な情報、それに対応した思考が短い時間に恐ろしいくらいに巡った。その思考を少しばかり緩めて、エイデンの顔を見ると、彼もこちらを見ていた。
「ねぇ、エイデン、二つ聞かせて。」彼女は彼の目をじっと見つめながら話した。嘘偽りを一切許さないと言わんばかりの鋭さが其処にあった。
「どうぞ。」彼はやっぱり何時もと変わらない、気の抜けた、けれど何故か芯を感じさせる、静かな声で答えた。彼女の鋭さもいなしてしまうような、柔らかい目だった。
「一つ目。逃走の計画を教えて。」
「りょーかい。長くなるから、前日に詳らかに話すよ。今は簡単に言わして貰う。それでいいかい?」
「えぇ、それでいいわ。」
「まず、当日は必ず店に居てくれ。それから…」
話の内容が進むごとに、メアリーの眉間に寄っていた皺は次第に無くなり、代わりに唖然としたような顔になった。
エイデンは話し終わった後に、先ほど同じような顔をさせた仕返しだと言わんばかりに、まるで悪戯っ子のような、驚くほど幼い笑顔を見せた。
メアリーはその顔を見ると、自分が気の抜けたところを見せてしまった気恥ずかしさと、心臓の辺りをくすぐられるような、彼に対する好意が合わさって、少しばかり赤面してしまったが、咳払い一つで心を落ち着かせて、「二つ目よ。」と言った。
「どうぞ。」と、にやにやしながら彼は短く言った。それに少しばかり反抗したいのを抑えて、彼女は「軍を抜けてどうするつもり?」と聞いた。
彼は間髪入れずに「革命軍に入る。」と言った。予想していた事だったので、間を置かずに「私も入るわ。」と答えた彼女に、エイデンも「そうして貰う予定だよ。」と答えた。
お互い、情報は揃っているらしかった。
ここまで確認し合うと、二人とも、親しい間柄の人間にしか見せないような、無邪気な、それこそ子供に戻った頃のような笑顔で、こう言った。
「久し振りだね、「馬女」。」
「本当、懐かしいわね、「ぼさぼさ」。」l




