第1話 覚醒
「おはよう、お爺ちゃん」
「ああ、リステリア。おはよう」
朝の挨拶を交わし合う二人。それは血の繋がった祖父と孫。
彼女たちが住んでいる場所はルツェンブルクという西端から3つ目の街であり、王都に次ぐ規模を誇る街でもある。
「今日の調子はどう?」
「悪くない⋯⋯リステリアもあまり気にしすぎるでない」
「そんなこと出来ないよ。唯一の、家族なんだから」
リステリアに家族と言える者は祖父ただ一人。それ故に、彼女は彼のことを心より大切に想い、そして二度と失わないよう最善の努力をしている。
「今日のご飯はネギと川魚の入った雑炊だからね。ちゃんと食べるんだよ?」
「わかっている。儂の事ばかり気にかけんでもいいものを⋯⋯」
「そんなこと出来ないって、さっきも言ったでしょ?」
リステリアも、祖父も頑なに譲らない。
リステリアは一度、寝たきりで動けない祖父がいる寝室を出る。彼女は真っ直ぐ台所に向かい調理を始めた。
その調理の手際は僅か10歳であるとは思えないほど手慣れており、微塵も無駄のない動きで雑炊を手掛けた。
その雑炊には先ほど言っていたように、ネギがたっぷり入っており、ところどころに白身魚をほぐした身が散らばっていた。
彼女はそれを寝室へと持っていく。
扉を軽く叩き、入室の合図をした彼女はゆっくりと押し開けて行く。その動作はまるで音一つ鳴らすことが無かった。
寝室に入った彼女は扉を閉めることなく、そのままお盆に乗せた雑炊を祖父の元へ持っていく。その際、零れないよう慎重に運ぶ姿は見ていて微笑ましく感じることが出来る。
祖父はその匂いを嗅ぎ、どこか遠い目をした。
それに目敏く気付いた彼女は祖父の名を呼びかける。
「ビレッツェお爺ちゃん!しっかりして!」
しかし、その呼びかけに応じることは無く、安心しきった様子でその体から熱が奪われていった。彼女はすぐに悟る。
「そんな⋯⋯、お爺ちゃん!お爺ちゃん、お爺ちゃん!ビレッツェお爺ちゃん!!」
何度呼んでも結果は変わらない。
彼女はそっとその首に指を当てて脈を確かめた。その結果、無情な現実が彼女をたたきつける。
「脈が、無い」
呟き、そして泣き叫ぶ。
その日の早朝、彼女の嗚咽が止まることはなかった。
たっぷり数時間ほど泣いた彼女はゆっくりと、祖父の体に押し付けていた顔を上げる。その顔の目元は赤く腫れており、常であればその瞳孔は蒼く輝いていたが、今は失っていた。
彼女の顔は何かを決めたような顔をして、とても10歳では身に付ける事の出来ないであろう覇気を纏う。
その瞳の奥には、かつての記憶が逡巡していた。
* * *
「お母さん、お父さん!これでトイレも楽ちんだよ」
「リステリアは凄いな。流石父さんの子だ」
彼女の父親は彼女を抱き上げると「高い、高い」と言って何度も上下させる。それが楽しいのか、彼女の顔も次第に綻んでいった。
「あまり高くあげすぎて落とさないでね?」
「そんなことするわけがないだろう」
父親は母親に窘められるが、なんでもないように答える。実際、落ちそうになれば魔法を使ってクッションを作り、怪我をさせないようにするくらいであれば、父親や母親には息をするようなもの。
「リステリアも今年で5歳か。早いものだな」
「そうね⋯⋯でも、私は外の世界を見てもらうべきだと思うわ」
「それは出来ない。この里で生まれた以上、言い伝え通りにしなければならん」
母親は頑なとして譲らない父親に溜息を吐く。
リステリアの頑固性は遺伝なのかもしれない。
リステリアは“トイレ”を作り、疲れたのか夢の中へと沈んでいく。それを暖かい眼差しで見届ける両親の姿は母性愛に溢れていた。
リステリアが眠った後、二人は彼女についての話をしていた。
「それにしても、リステリアはどうやってあんなもの思いついているんだ?」
「そんなこといいじゃない。村の生活が向上していることだし、これなら旅商人になるのも夢ではないわ」
「全くお前は⋯⋯、旅商人に未練があるのか?」
「いいえ。あなたと出会えた。それが全てで、今はこの子もいる。だから大丈夫よ」
彼女の母親はこの、名のない里に嫁いでくるより以前は、彼女の祖父と共に旅商人を営んでいた。祖父は元々ルツェンブルクの領主の嫡子であったが、旅商人が持ち込んでくる面白おかしな話に憧れ貴族籍はそのままに、旅商人になった。やがて結婚し一人娘を授かったが、娘が生まれたと同時に愛する妻をなくす。
祖父、ビレッツェはもう一度旅商人となり、国中を歩き回った。領主として教育されてきた内容と、実際に見て経験するというのは全く違う。
彼はそれを娘にも味わってもらうため、教育しながら旅商人の手伝いをさせてきていた。だからビレッツェの一人娘であり、リステリアの母である彼女は旅商人になるという夢があったのだ。
しかし、この名のない里に来て一変した。
一目ぼれ。彼女は現在の夫に恋をし、そして叶えた。旅商人になるよりも一人の女としての幸せを掴んだ。
彼女と夫の口論はリステリアが目を覚ますまで続いた。
「んっ⋯⋯おはよ」
目を覚ましたリステリアはまず挨拶をする。これは半ば反射的にしているものだ。前世の記憶や経験に引きずられ、そうしている。
「(今日もお父さんとお母さんは仲良しだなぁ)」
彼女が見る限りでは、父親と母親は常に仲が良い。時に大ゲンカをしているものの、前世での知識にある“喧嘩するほど仲が良い”という諺が思い浮かぶ。
彼女は日本人として生まれた過去を持ち、そして転生している。
だが、彼女が前世の知識を取り戻したのはほんの最近だ。5歳の誕生日目前となった今より、数週間前の出来事である。
彼女たち親子3人はいつものように、リステリアに魔法を見せるため森の奥までやってきていた。
「この辺だな。よく見ておくんだぞ?」
父親はそう言って歩みを止め、龍脈の力を練っていく。
反対に母親は魔力を練っていく。
二つの力はやがて混ざり合い、綺麗な淡い光を帯びた輝きを放った。
『地を蠢く龍の祖よ。我らに力を与えたまえ。“地割れ”』
“地割れ”と命名されている魔法は森を切り裂き、大きな崖を作り出した。その崖の底は知れず、暗闇の中に一片の輝きもない。本当の闇。
そして、リステリアが興味本位でそこに近づいた。当然のように足場は脆く、崩れやすくなっている。更には集中して魔法を使っていた反動か、両親は彼女の行動に気が付けなかった。
そして⋯⋯彼女は落ちた。底の見えない闇へ。
「リステリア⋯⋯?」
父親が呟く。だが返す言葉はない。それに気付いた母親も周りを見た。
しかし見つからない。どれだけ見ても、何回確認しても見つけることが出来ずにいた。そして一つの結論に行きつく。
「まさか⋯⋯ッ」
その推測は正しかった。
父親は地割れの闇に光の魔法を用いて照らし出す。肉体を強化する魔法を使って、二人はゆっくりとその地割れの中に入っていった。
光が届くのはせいぜい10メトといったところ。これ以上すれば目がチカチカして彼らは本来の目的を達することが出来ないため、抑えている。
下降した先の地面で横たわる一つの影。
それは彼らの唯一の愛娘。その姿は血に塗れ、誰がどう見ても息絶えていると確信できるほどの惨状だった。
「そんな⋯⋯リステリア!リステリア!!目を覚ませ!」
二人はそれぞれのやり方でリステリアを起こそうとする。それでも死人は戻らない。
やがて生気を失った虚ろな瞳になった彼らは、龍人族のみが使えると言い伝えられている禁術に手を出す。それは龍脈の力と魔力を、本来は反発し合う二つを混ぜ合わせるという高度な技を使ったもの。
“地割れ”は禁術ほどではないにしろ、二つを混ぜ合わせて発動するものだ。
父親が龍脈の力を使い、母親が魔力を扱う。二人とも息は荒れており、その表情は暗い。
『龍の祖よ、我らが願いを聞き届けよ。我らが願いは、“全てを巻き戻せ”』
刹那、世界が逆行する。それは里にある家を出る前のところで停止した。
「ここは⋯⋯?僕は一体⋯⋯」
リステリアが目を覚ます。それは覚醒の時を表し、前世の記憶を取り戻した瞬間だった。
「僕は、初雪奈緒⋯⋯でも、リステリアでもある⋯⋯?まさか」
彼女の頭の中に“転生”の二文字が思い浮かぶ。それは彼女が前世において渇望していた事象。彼女、前世では彼。彼は男であったが、中世的な顔立ちをしており、どうせなら女になりたいと思っていたため、リステリアという少女に転生出来たことは僥倖だと思った。
「リステリア。今日は何の魔法がいいんだい?」
優しく問いかけるその声音は、彼女を心底安心させるものだった。
「おとう⋯⋯さん。魔法、そっか。魔法があるんだよね」
彼であった彼女は前世と今世の知識を統合させ反芻する。
「今日は、いいや。家でゆっくりする」
思い出したくない記憶。思い出そうとしても思い出せない記憶。それは、一度時間が巻き戻され生き返った記憶と、前世での最期の瞬間の記憶。
彼女はふと両親を見る。彼らが時間を巻き戻し、前世の記憶が手に入ったのだろう、と推測しているためであり、本日の魔法の見学を取りやめた理由でもある。
彼女は知っているのだ。タイムパラドックスという、絶対に変えられない未来のことを。