8奴目 悪と灰汁は取り除く
「お客様、どうされました?」
「いや、やはり服の下を確認しておこう。買った後に何かあっては困る。脱がさせてもらうよ」
「え、ちょ、お客様っ」
彼は言うが早いか立ち上がり、隅に控えていたレイクへと近づき、そしてまた強引に彼女の腕を引っ張る。
あまりにも突然な彼の行動に、レイクは対応できず、体制を崩し床に倒れ込んだ。
腕を掴まれていたので受身も取れず、膝を強打した彼女はうっと微かな悲鳴を漏らす。
しかしそんなことはお構いしに、男性は倒れたレイクのワンピースの襟を鷲掴みにして脱がせにかかる。
そんな男性の腕を、俺はいつの間にか握り締めていた。
どうやってレイクの下まで移動したのかそれすらいまいち不明だったが、ともかく俺は、男性の腕を力いっぱい握り締めていた。
「何だね?」
「やめろ」
「何?」
「やめろって言ってるんだよ」
もう一歩のところでレイクが売れそうだというこの状況で、元の世界への帰還に一歩近づこうとしているこの状況で、俺の思考はと言えば、どうすればコイツを追い返すことが出来るだろうかという方向に傾いていた。
レイクをこんな奴のところに行かせるわけにはいかない、そればかりが、頭の中にこだまする。
キレて殴るか、蹴るか、とにかく攻撃を仕掛けてきてくれれば、俺の勝ちなのだけど。
幸いコイツは沸点が低そうだ。既にこめかみに青筋を立てている、後一少し押せばそれで――
「うちの大切な商品からその汚い手を離せ」
「汚い? 何だと小僧、それが客に対する態度か!」
案の定、男性は一瞬でキレた。
今までの穏やかな様子など、もはや微塵も感じられない。
俺がイメージしたとおりの“奴隷を買う人間”そのものだ。
後は、手を出させられれば。
「お客さまは神様だと教わらなかったのか!」
「はあ、あなたが神? 紙の間違いでしょう? 丸めて捨てられる。それかせいぜい髪ですかね? 纏めて捨てられる」
「貴様ぁっ!」
「まあどちらでもいいです。どちらにしたってあなたは“カミ”ではなく“ゴミ”ですから」
「店主を出せ! お前など即解雇にしてやる!」
「店主は俺ですが。何かご用ですか?」
俺が勝ち誇った顔でそう言うと、眼前の男は悔しそうに歯を食いしばり、拳を握る。
「さあ、金を持ってさっさと帰れ。あんたはもうお客様でも何でもない。あんたに売る商品なんてうちには一つもない」
ダメ押しの最後の言葉で、男性の怒りは限界を超えた。
「クソがァァァァァァァァ!」
狂ったように絶叫しながらながら、拳を握り締め構える。
ただそんな彼を前にして俺は、臨戦体勢をとるでもなく回避行動をするでもなく、黙って男性を睨み付けた。
それを好機と思ったのか、彼は構えた拳を容赦なく俺の顔面へと振り下ろす。
拳が、俺の鼻先に触れかけた――しかし次の瞬間、男性は見えない何かに引っ張られるかのように、凄まじい勢いで後方へと吹き飛ばされ、そして自動的に開いた扉から、店の外へと放り出されてしまった。
「な、ななな、何なんだっ」
地面を転がり泥だらけになった男性は、何が起こったのか分からない恐怖からか震え上がっている。
「早く帰れ。次この店に足を踏み入れたら、これくらいじゃ済まないからな」
「ひっひぃ……」
「あなたも」
俺は、カウンター前でお金を抱えながら、ぶっ飛んでいった主を見つめる奴隷の男性に声をかけた。
「痛い目を見たくなければ、お金を持って帰ってください」
その言葉に数度首を縦に振ると、奴隷の彼はお金を素早く鞄に詰めそして店を後にした。
二人の背中が見えなくなるのを確認してから、俺は店の扉を閉めた。
そして静まり返った店内で、ふぅっと深呼吸をしてみたのだが、
「あぁぁぁぁ! やってしまったぁぁぁぁ!」
冷静になることは、とうとう出来なかった。
実は最初に来たお客さんも、こんな具合に追い返してしまったのだ。
元の世界に帰るためには彼女たちを売らなければいけない、売るためにはどんなことでもしよう。
そう思っているのに。
「はぁ……、また売れなかった……」
彼女たちが売られた先でどんな目に合うのか、それを考えるとどうしてもこうなってしまう。
目の前であんな乱暴に扱われる光景を見せられれば尚更。
偽善だ。分かっている。
どうせいずれは売ることになる、今はそれを先送りにしているだけ。
本当に彼女たちのことを思うのなら、今すぐにでもこの店から逃がしてあげるべきなのだ。
でも自分の身可愛さに、それも出来ない。
「売れなかったんじゃなくて、売らなかったんでしょイッくん」
入り口前でうなだれる俺に、レイクが歩み寄ってくる。
「分かってるよ」
そういう意味での“売れなかった”だ。
「バカだね、どうして売らないのイッくん。故郷に帰りたいんでしょ? 売らなきゃ帰れないんでしょ?」
「バカってレイク、そういうこというかお前」
「ふふ、冗談だよイッくん。売らないでくれてありがとう。助けてくれたとき、わたし凄く嬉しかったよ」
言って、彼女は満面の笑顔を俺に向けた。
「……」
これだ。破壊力抜群のこの笑顔。
もっと、奴隷らしくしていてくれれば。
お客さんが来たときみたいに、普段から死んだ目をして、生きているのか死んでいるのか分からないような反応しか示さないでいてくれれば。
そうすれば俺だってこんな悩まずに、もっと楽にこいつらを売り捌くことが出来るかもしれないのに。
こいつら、全然奴隷らしくない。それどころか、そこら辺の人間より生き生きしてるのだ。
まあ彼女たちが普通の反応を示すように働きかけたのは俺であって、そうなってくると自業自得だし。
それに彼女たちがこうやって話をしてくれなければ、異世界に一人という寂しさに押し潰されていたかもしれないということを考えると、文句も言えないが。
「いやぁでもさすがイクだ!」
駆け寄ってきたニコが、バシバシと俺の肩を叩く。
「客をあんな風にぶっ飛ばしちまうなんて、ワタシが見込んだ童貞なだけはある!」
「童貞言うなって!」
褒められているのか、貶されているのか分からなくなってくる。
「でもイッくんてただの人間なのに本当に強いよね。前のお客さんもあんな感じで吹っ飛ばしてたし。何か魔法でも使えるの?」
「使えたらこんなに苦労してないよ」
なんでも童貞を三十年貫けば魔法使いになれるらしいけど、生憎俺はまだ童貞暦十七年の新参者だ。
ただ確かにあの客の男が吹っ飛んだのは、魔法の効果によるものだ。
しかしその魔法は俺が使ったものではなく、この店が使ったものなのである。
つまりさっきのは、アリスさんの知り合いの魔女によって店に施された魔法、結界の一つ。
名を『売り切れ』という。
言うまでもなく魔女が名付けた恥ずかしい名のこの魔法は、害意を持って俺に攻撃を仕掛けてきた対象を、強制的に店から排除できるという効果を持っている。
この魔法のおかげで、店内において害意を持って俺を傷つけることは、何人たりとも不可能だ。
もちろん対象の放った銃や弓などの飛び道具でさえもそれは同じ。
つまり、俺、無敵。
「それよりレイク、お前膝大丈夫か?」
「だ、大丈夫じゃない、痛いよぉ……イッくんお注射して?」
「下半身に手を伸ばすな、そんなところに針はついていない」
「そうだね、そこについてるのはハリじゃなくてカリだね」
「ちょっとは自重しろよ!」
「ししししっ」
まあこの具合なら、問題ないのだろう。よかった。本当に。
「さて、それじゃあお昼ご飯にするとしようか」
ホッとしたら、何だかお腹がすいてきてしまった。
「ニコ、料理頼めるか?」
「当たり前の朝飯前だ! 今日はイクが客をぶっ飛ばした記念日として、胸に寄りをかけて作ってやるぜ!」
「胸に寄りをじゃなくて、腕に縒りをだ。裸エプロンでもするつもりかお前は」
「おいイク、エロい事考えるなって言ってんだろうが。客じゃなくて今度はイクがぶっ飛ばされてえか?」
「いや、だからお前のせいだからね!?」
「そうか? ならいいや、はっはっはっは!」
このおバカさんも、平常運転だ。
「ん?」
「どうしたの? イッくん」
「いや、ほらあれ」
カウンターの下に、何やら紙切れが一枚落ちているのが見えた。
「金か? イク」
「ああ、金だな」
近づいて拾い上げてみれば、それは五千リン札だった。
きっとあの奴隷の男性が、逃げるときに慌てて落としていったものだろう。
「俺が奴隷商人になって初めての収入だな」
いや、これは収入などとでは全然なく、ただの拾得だけど。
それにたとえこれを収入と呼んでいいとしても、俺がアリスさんに課せられたのは店の商品の全売却、額にして約二千四百万リンだ、たった五千リンではその足元にも及ばない。
まったく、この調子では、俺が元の世界に帰るのはまだまだ先のことになりそうだ。
お読みいただきありがとうございました。