第一章『嵐の兆し』(4)
「敵の弱点突くんは兵法の基本やけど……こいつらに手ぇ出すんはワイを倒してからにしてくれるか?」
固く瞳を閉じた希紗に聞こえた、鈍い音と静かな怒りを込めた声。
恐る恐る目を開けてみると、自分達に斬りかかろうとしていた男が目の前に倒れていた。男が刃物を振り上げていた方の肩から、逆に斬られた血が流れる。
「真……」
怒りと悲しみを同時に孕んだ男の瞳に、希紗は思わずその名を呼ぶ。今まで敵といえど背後から斬りかかることをしなかった真が、その《道》に背いた。……しかも、抜刀してまで。
純也を抱きかかえたままの希紗を見下ろして、真はすぐさま阿修羅を鞘に戻す。限界を超える速度で移動してきたのだろう、息切れで苦しそうな汗が落ちた。
それでも、すぐに純也の容態を確認するためにしゃがみこんで。
「希紗、何があった? 純也は……」
「わからないの、急に苦しそうに倒れちゃって……。純くんっ、返事が出来るっ?」
「ごめ、ん、二人とも……。……っ、僕の後ろに下がって……!」
まだ青白い顔のまま、ふらつきながらも純也は立ち上がる。そして真を押しのけ、まだ暴れている男達へ両腕を向けた。
「純也っ、無理はすな! そんな体力で力を使ったら……!」
「違う、んだ……僕にも……抑えきれない……っ、もう――――!!」
目には見えないが、何か莫大な力が純也の手の先に集まるのを真は全身で感じた。途端、悪寒にも似た戦慄が走る。
「澪斗、遼平っ、今すぐそこから逃げろぉぉっ!」
真の叫びは二人に届いたが、一体何を言っているのか理解出来なかった。が、遼平の耳だけは、周囲の空気が一切止まっていることに……音がしないことに気付く。
嵐の前の静けさ、それが今まさに表現されるべき状態。
「くっ、あああぁああああ!!」
無音の爆風、更に一瞬後から襲い来た大気を打ち破る轟音。
純也の絶叫と同時に放たれた、大の人間を何人も軽々と吹っ飛ばす暴風。群がっていた男達は木の葉の如く軽々と宙を舞い、ずっと遠方まで一直線に吹っ飛ばされる者、浮いた後にアスファルトに叩きつけられる者、運悪く東京湾に落ちる者など、少年の一撃で全てが終わってしまった。
あまりのその威力に呆然と惨状を見ていた真が、希紗の声で我に返らされる。今の一撃の影響か、純也の軽い身体が反動で後方に倒され、仰向けになりながら荒い呼吸を繰り返していた。
「純くんっ、純くん一体どうしたの!? ドコが痛むのっ!?」
上半身を抱きかかえる希紗に、喘いで汗を流しながら少年は何かを伝えようとしている。けれど、かすれた声は言葉にならず、ぎゅっと服の左胸を押さえるだけ。
「純也、しっかりせぇっ! 心臓かっ? 心臓が痛いんか!?」
急に倒れたと思ったら、いきなり強力な一撃を放ち、そしてまたぐったりと弱って苦しんでいる。純也の身に何が起こっているのか、誰もわからない。
「し、真っ、どうすればいいの!?」
「……。まずは、澪斗と遼平の無事を確認せなあかん。今のであいつらも吹っ飛ばされたやろうし……」
「それはそうだけどっ、純くんの様子はただ事じゃないわよ!? 早く処置をとらないとっ」
「きさ、ちゃん……だいじょうぶ……僕は、大丈夫だから……」
東京湾の波音に掻き消されそうな、弱々しい声。真と希紗が驚いて見下ろすと、希紗の腕の中から純也が起きあがっていた。
上半身だけ起こして息を整えようとしている純也に、真が問いかけようとした時、暴風で吹き飛ばされた男達の山の中から這い上がってきた腕が。
「つ〜っ、痛ぇ……。おいコラ純也! 何いきなりぶっ飛ばしてくれてんだよっ!」
気絶して自分の上に重なる邪魔な男達を蹴り飛ばし、遼平が早足で純也に詰め寄る。そして怒りの言葉を続けようとして純也の襟首を持ち上げて……彼は口を噤まざるを得なかった。
「ご、め……ごめんなさい……遼……」
「お前……どうした、顔色悪いぞ?」
誰が見てもわかる、少年の極度の疲労と状態異常。まだ整わない息で、純也は喉から精一杯の言葉を紡ごうとしている。
「なんか純くん、いきなりこうなっちゃったの。すっごく苦しそうで……」
「しかも倒れたと思ったらいきなりぶっ放すし……熱でもあるんか?」
両手を地面についてまた倒れそうになっている純也の身体を、遼平が支える。少年が寄りかかれるように背中をさすってやりながら、低い声で囁いた。
「どうしたんだ……お前らしくもねぇ」
「わからないんだけど……遼、何か変な臭いがするよ……苦しい……っ」
「まさかお前――」
遼平が言葉を続けようとした時、それを遮る声があった。完全に全員気絶していたと思われていた男達の中に、まだ立ち上がる輩がいたのだ。
「まだ決着はついてねえだろうがぁ! 変な風に邪魔されたがな、今度こそお前らを殺すっ!」
あの白スーツの巨漢が、しぶとくまだいきり立っている。その横に、息切れしながらも再び凶器を構える男達が数人。
「……ちっ、純也、話は後だ」
「しつこい方々でんなァ……あの風以前に、決着なんてついとったと思うけど」
「澪斗ってば、どこまで飛ばされちゃったのかしら〜」
とっさに空気の無音を感じ取って回避行動がとれた遼平と違い、澪斗は為す術なく吹っ飛ばされた。そこらに倒れている人間達の中に、彼の影は無い。……まさかとは思うが、東京湾に落ちたということはないだろうか。
こちらへ駆け出してこようとする者達、迎え撃つ構えをとる遼平と真。
だが、何かが空気を貫く音、そして突如閃光が溢れて全てが止まる。
遼平達には、スーツの男一人の首に、何か細いモノが刺さるのが一瞬だけ見えた。直後の爆発で、首を刺された男は紅い液体を噴き出す肉塊に成り果ててしまったが。
「な、なんだ!?」
「……ワイの見間違いじゃなければな、今の得物を使う厄介者を一人だけ知っとる」
「あんなえぐい凶器を持ち歩いてやがるヤツがこの世に二人も居てたまるかよ……冗談じゃねえ」
人肉が燃える異臭に吐き気を覚えながら、遼平達はその“何か”が飛んできた倉庫の屋上を見上げる。赤い屋根に腰掛けていた人物、それは。
深いフードをかぶった、黒コートの美神。死の芸術家にして《破壊の使徒》。
「フフッ、まさかこんな所で再会できるなんて、思いも寄らなかったな。どうやら今日の私は幸運らしい」
「こっちもまさか、『再会』があるなんて思ってなかったで。……今日のワイら、なんかいつにも増して不運?」
「生きてやがったのかよ――――ルイン!」
個人情報は一切不明の、最凶最悪の破壊屋。一度だけ、中野区支部と戦ったことがあるが、死力を尽くしかろうじて勝てた相手だ。あの時は跡形もなく消えて生死さえ不明になっていたが……。
「私は死なないよ? 君たちを美しい紅で彩り、破壊して《芸術》に昇華させるまで、ね」
フードで目元は見えないが、口が綺麗に弧を描くのがわかる。ルインをひどく嫌う遼平は、怒りを露わにして。
「ふざけんな! 俺達はてめぇのくだらねえ芸術とやらになる気はねぇよっ! 下りてこいっ、ぶっ殺すぞ!!」
「フフフ、私を殺す気かい? とても嬉しいねぇ……遼平君に本気でかかってきてもらえたら、素晴らしい作品が完成できそうだ」
もはや遼平の眼中に先程までの男達などいなかった。彼らは、『ルイン』の名を聞いて完全に恐怖で腰を抜かしていたから。
「は、破壊の使徒……! 殺されるっっ!!」
先ほどまでの雄々しさは何処に行ったのか、スーツの者達は気絶している仲間を置いて逃げ去ろうと背を向けていく。破壊屋の右手に、一瞬で数本のダーツが現れた。
「ゴミ屑程度の君たちでは、いくらこの私でもせいぜい『失敗作』ぐらいにしか出来ないのだけれど。汚い命への手向けに、紅の祝福でも描いてあげようか」
ルインの軽い腕のスイングで、背を向けて逃げ始めていた男達の首にそれぞれダーツが刺さる。直後、連鎖で広がる爆発。
断末魔をあげることすら許されなかった男達は、もう体液と焦げた肉を撒くだけのモノになっていた。希紗の小さい悲鳴と人肉を燃やす炎の音だけが、耳に残る。
「許せな、いよ……命を何だと思ってるの!? こんな醜い芸術なんかあるもんかっ!」
まだふらついている純也が、それでも懸命にルインを睨みつける。純也らしくないほどの、激昂。
「命が何かって? 《芸術》のための素材にすぎないだろう?」
「違うっ! 命より大切なモノは、存在しないんだ! たとえどんな命だってっ」
「フフフ、裏の人間なのにおかしなことを言うんだね? 裏社会の人間は、命より尊いモノを知っている。裏から出られない者は皆、『生命が最も尊い』だなんて大層な偽善を散蒔く表社会に心の奥では吐き気がしているからだろう? ……だから君は、そこに存在するのではないのかね?」
純也はその言葉に、すぐさま反論を口に出来なかった。ルインの考えを否定したいのに、反撃が出てこない。
それはつまり、破壊者の言い分がわかってしまうからなのか。
「……まぁ、君なんかと戯れ言を交わすつもりは無いんだよ。せいぜい美しく壊れてくれたまえ」
ルインの左手から一直線に、放たれてくる四本のダーツ。それぞれ警備員達を正確に狙って。
「みんなっ、伏せて!」
それだけ言うと、純也は残るありったけの力を込めて右腕で宙を殴る動作を。その腕の動きに合わせて突風が吹き、ダーツを爆破させる。
「ふむ……君の力は厄介だな、幼き風使い。まずは君から逝くかい?」
「生憎だけど、僕はまだ、死なないよ。死ねな、いん、だ……」
いつの間にか地上に降り立ち、距離を取ってこちらを見ているルインを睨みながら、純也は崩れ落ちていく。身体が不調なのにあれだけの力を使ってしまったのだ、もうほとんど体力は残っていないに違いない。
「希紗、あんたは純也と一緒に下がっててくれ。被害が及ばない場所まで遠ざかって純也の保護を」
真が静かに、阿修羅を抜刀する金属音。その横で遼平も戦闘体勢に入っている。このメンバーでは、戦力になるのは二人だけ。しかも――。
「真、俺達にはあいつの爆薬を防ぐ方法がねぇ。けど避ければ周りが破壊される……どうすんだよ」
「……まずワイが正面から斬り込んで、なんとかする。後はあんたが隙を見て倒す、今はそれしかない」
淡々と作戦を述べる部長の言葉の中に含まれていた、『なんとかする』。それはいつも中野区支部を救ってきた頼りがいのある言葉で、同時に部長の自己犠牲宣言。
「バカてめぇっ、ンなことさせられるか!」
「心配すな、ワイかて犬死にの趣味はない。ただ、何に代えてもあんたらは護る。……頼んだ、遼平」
真が、その特殊な流派の刀の構えをとり刃を水平に。もう彼の眼中にはルインしか存在せず、神経を研ぎ澄ませて瞳の色を変えた。
爆弾魔もそれに呼応したように、両手の指にそれぞれダーツを挟んで靴底をゆっくり地に這わせる。
誰だったのだろう、足音が、確かに鳴った。