第一章『嵐の兆し』(3)
「赤い屋根の大きな倉庫だね〜」
五人の右側には沼のようにどす黒く濁った東京湾。左側には、延々と並ぶ巨大な廃棄倉庫。指定された番号の倉庫まで、ひたすら湾沿いに歩いていく。
「……なんかそのキャッチフレーズ、どこかで聞いたことあるような気がするわ」
「エエなァ、メルヘンチックで。平和な森の住人さんとか出てこうへんかなァ」
「僕、クマさんとかウサギさんがいいな!」
「純也、お前そろそろ現実と空想の区別つけろよ。もう絵本読むの禁止だからな」
「……森どころか、平和すらここには存在しないしな」
瞳を輝かせて『クマさん』とか言ってる少年に、遼平は今度、家にある純也の絵本を全て古本屋に売ろうと決める。いくら純也が子供っぽく見えるとはいえ、もう中学生程度の外見だ。『林のポン太くんのぼうけん』なんて絵本が家にあること自体がおかしいのだ。
大体本気で、洋服を着た二足歩行の動物なんかが出てくるとでも思っているのだろうか。『出てきたところで気持ち悪い以外のなにものでも無いな……』と心の中で遼平は静かに吐息。
「ったく、あんたらは心が荒みすぎなんよ。もうちっとこう……夢を持とうや?」
「じゃあ訊くが、こういういかにも『違法行為のために存在してます』みたいな場所で、まさに『僕たち未確認生物です』的な珍獣が出てくることを期待するのが、夢を持つってことなのかよ?」
「……なんで遼平が言うと刹那に夢が音を立てて崩れるんかなァ……」
数字の順に並ぶ倉庫の前を歩きながら、真のため息。八番倉庫の前を通過して、ようやく次は九番倉庫。目的地の十三番倉庫まで、まだかなりの距離がある。
「ねぇ……何か変な臭いがしない?」
そろそろ十三番倉庫の屋根が見えてきそうな所で、純也が首を捻る。その言葉に全員が周囲に振り返るが、他の者達には妙な臭いなど感じなかった。
「私は何も臭わないけど? 純くん、東京湾の臭いじゃない? ほら、すっごく油が浮いてるし」
そう言う希紗の指差した湾は、もはや水ではなく泥沼のよう。垂れ流された虹色の油が、気持ち悪く揺れている。
「……臭いはせぇへんが……妙な《気》は感じるな」
先頭を歩いていた真が足を止め、その低い言葉に希紗と純也は緊張の波が指先まで走っていくのを感じた。だが後ろを歩いていた遼平と澪斗は、とっくにそんなことは知っていて。
「はっ、面白いことになりそうじゃねーか」
「……くだらん……」
口元を引き上げて準備体操のように拳の指を鳴らす遼平と、無感情の冷たい声で瞳を閉じる澪斗。十一番倉庫の前で、五人は完全に歩みを止めた。
一瞬後、倉庫と倉庫の狭間から、無数の男達が出現。前後どちらの倉庫からも出てきたので、五人は必然的にそれぞれ背を合わせる。強面の男達は皆、黒いスーツにそれぞれの凶器。気配で感じ取るに、ざっと五十人程度か。
「良かったな真、非平和的な裏の住人さんのお出ましだぜ?」
「わーい、一緒に遊ぼー……ってなワケあるかボケ」
「えっ、違うの!?」
「純くん、青竜刀とか機関銃でどうやって遊ぶ気?」
「……命を賭けたゲームなら出来そうだがな」
「こんなザコじゃ命を賭ける価値もねーよ!」と聞こえよがしな大声で言い放った遼平に、一気に男達の殺気が集まる。遼平と背中を合わせている真が彼の高まる闘志に興奮で震えているのがわかって、やりすぎないないと良いが、と少し不安に。暴れたいが故に、わざと自分に怒気が集まるようにしたのだろう。
真の前にゆっくりと、武器を手にしていない白スーツの巨漢が現れる。どうやらこの集団の統率者らしく、囲んだ五人を見下ろして。
「ロスキーパー中野区支部の人間だな。死んでもらおう!」
「え、ちょ、そんないきなりでっか? あの、せめて理由ぐらい――」
「やれ!」
白スーツの巨漢が手を上げると、一気に周囲から雄叫びがあがり、今にも飛び込んできそうな体勢になる。
「……問答無用、か」
「この俺に挑んでくることだけは、褒めてやらぁ!」
「純也、希紗を頼めるか? こいつらはワイら三人でなんとかするさかいに、希紗を護っててくれ」
「うん、わかった。希紗ちゃん、僕の手を離さないでね」
素早く頷いた希紗に優しい微笑みを向けて、少年は彼女の手を握る。純也が気圧を調整し終わるのを待って、真は腰から木刀を抜いた。その横では既に澪斗のノアが起動済み。
「澪斗、遼平、ノルマは十分や。依頼主との打ち合わせに間に合わなくなる」
「フン、無駄に長いな」
「じゃ、とっととやるぜぇっ!!」
遼平の叫び、それが戦闘開始の合図。真と澪斗、その逆の方向へは遼平が走り出す。真達が向かった方向は、自然と二人に群がる者達で、その左右に別れた二人の間に隙間が生まれる。そちらへ向かって、純也は軽いステップで駆け出して。
「希紗ちゃん、身体から力を抜いて!」
「えっ?」
とりあえず言われるがままに力を抜いてみると、希紗は僅かに自分の足がアスファルトから浮いていることに気付いた。そしてそのまま滑るように、ターンを繰り返しながら少年に引かれるがまま、見事に男達の包囲網を抜ける。足が再び重力に従って地についた時は、十二番倉庫の前。
真は純也と希紗が抜け出せたのを確認し、木刀を全力で水平に薙ぐ。
右腕で薙いだだけで、男達は密集していた為に五〜六人ほど倒れていく。彼らが起きあがってこないようにわざと踏み台にして潰し、跳び上がったら宙返りをして男達の中心から背後にまわる。
真が木刀を右腕だけで握っているのを見て、彼の左側から襲ってこようとするその判断力はなかなか良い。だが、裏社会でそれでは、二流程度。
左腕が空いているからといって、そこがウィークポイントになるとは限らない。……むしろ、真ほどの人間なら、逆。
右手の木刀で遠くまで薙ぎ払いながら、左側から刃物を振り上げてくる人物の胸へ左掌で触れる。次の瞬間。
素早く、少しだけその胸を押す。それだけで肋骨が折れた音が響き、そのまま何人かを巻き込んで遠方に吹っ飛んでいった。
「コイツ剣術だけじゃ……!?」
「はー、気功なんて久しぶりに使ったなァ……。腕なまっとるやん、ワイ」
邪気の無い苦笑で頭を掻く男は、吹っ飛ばした人物を見ながら言う。『気功』とは本来、《気》を使って心身の健康を保つための鍛錬技術、『保健養生法』のことなのだが、それを彼は攻撃にも応用出来る。あの風薙社長から教わった、護身術の一つ。
「さてっと、依頼の前に肩慣らしせなあかんな」
畏怖で固まっていた男達に向き直り、真は再び木刀を突き出すように構えた。
「冗談じゃねえ!」
遼平は激怒していた。自分よりも背丈の高い男の頬を殴り倒し、水平に迫ってきた青竜刀の刃を握り拳一発で粉砕し、目障りな男の顔に膝蹴りを喰らわせながら。
彼が怒っている理由。次から次へと湧いてくるような敵達? 拳銃、刃物、何でもアリの凶器達? ……全て、否。
「冗談じゃねえよ――――弱すぎだてめえらあぁぁっ!!」
まとめて三人ごと左拳で吹っ飛ばしながら、野獣のように怒号を吼える遼平。彼にとって、この集団は烏合の衆。統率が無く、勝手に個人で襲ってくるだけなら、いくら数を集めようとも遼平の敵ではない。
集団で襲う際の最大のメリットである『統率された戦闘』が全く無いのだ。連携攻撃でもなんでもすればいいものを、こんな個人で襲ってくるのでは弱すぎて話にならない。
一切の防御行動をとらず、視界に入った者、全てを殴り、潰し、蹴散らしていく。どこの暴力組織だろうと関係ない、自分に襲いかかってくるのなら。
「楽しませろよっ、この蒼波遼平様を相手にしたいならなぁ!!」
その言葉に、誰もが悟っただろう。目の前にいるこの紺髪の男が、あの《邪鬼の権化》と呼ばれた裏東京最強の男だということを。
紅で染まっていく己の拳に、ただ男は嗤っていた。
銃口を向けられたと思った瞬間には、既に意識が遠のいている。
他の仲間達とは反対に、必要最低限の動きしかしない澪斗は眼鏡――照準グラスに従い、大きく隙の出来た者達から撃ち倒していく。
撃っている澪斗自身にさえ圧縮空気の弾丸は見えないが、右腕から伝わってくる振動で悟れる。たった一発で昏倒していく男達を見て、本当に今回の弾丸は威力が高かったのだと認識できた。
「アイツの銃はこけおどしだっ、当たったところで死なねぇ!」
誰かが叫んだ言葉は、確かに正解だった。『こけおどし』ではないが、ノアは敵を気絶させる程度で殺すことは出来ない。
「ほぅ……ならば、死ねる銃が良いか? 俺はどちらでも構わんが」
瞬間、先ほどの言葉を叫んだ男の左胸に当てられるリボルバー式マグナム拳銃。誰が見てもわかるだろう、引き金を引かれれば即死することを。
右手にノアを、左手にマグナムを構えた澪斗は、そのままマグナムの銃口を男の左胸に強く押し当てる。それに一気に冷や汗をかいた男は、後ずさりをしようとした。その隙を、右手で握っていたノアで撃ち倒す。
……元より澪斗に、マグナムを発砲する気は無い。彼らしくない、ただの脅し。そもそも右利きである澪斗は、左手で正確に引き金を引けないのだから。
だが、そんなマグナムも鈍器にはなる。左手のマグナムで男達の頭を殴り飛ばしながら、器用にも右手のノアで連続発砲。
かすり傷一つ付けさせない身のこなしで、澪斗は舞うように刹那の勢いで敵を昏倒させていった。
「くそっ、あのガキと女から狙えぇぇ!」
乱闘から離れた地点にいた純也と希紗に、やがて男達が気付いてしまった。二人の方へ駆け出す者達が、数人。
「もう、相手は僕達じゃないよっ!」
接近される前に、純也が向かってくる男達へそれぞれ殴るような素振りをする。瞬間、数メートルの間隔があるのに吹っ飛ばされる男達。
風上に逃げるようにしたのも、計算の内。乱闘から逃げた二人が気付かれても、風上なら純也のテリトリーも同然だ。
しかし先ほどの攻撃程度では敵は諦めない。すぐさま起きあがり、刃物や鈍器をその手に握って、全力で駆けてくる。
再び風を集めようと純也が右腕を前に突き出して構えていたが、不意に、彼の右腕が震え始める。まるで、痙攣のように。
「……っ、ごほっ、ごほっ……がっ」
突然激しい咳を繰り返した純也は、そのまま力無く地面に両膝をついてしまう。倒れるのを防ぐように両腕で身体を支えているが、腕は震え、顔は青白く。苦しい咳は止まらず、異常なほどの発汗。
「今だっ、やれえぇ!」
「ぼ、くが相手じゃ、ないってばっ!」
苦しそうに途切れる声で必死にそう言い、乱暴に右腕を横へ払う。
いつになく強力な疾風が、向かってきた者を倉庫へ叩きつけていた。純也には手加減をする余裕すらもう無かったのか、強打された者達は泡を吹いている。
直後、とうとう両腕の支えがきかなくなってうつ伏せに倒れる純也。咳は激しくなる一方で、身をよじって苦しみだす。希紗はしゃがみ、少年の身体を必死にさすって抱き起こした。
「純くん!? 純くんどうしたのっ、しっかりして!」
「き、さちゃん……逃げ……て、ごめん、早く逃げ………がはっ」
青白い顔に冷たい汗を流して、純也は余力で希紗にそれだけ伝える。完全に無防備になった二人に、あの三人を倒すことを諦めた輩が迫る。
「純くんがこんな状態で逃げられるわけないでしょ! みんなっ、純くんがー!!」
希紗の甲高い声に気付けたのは澪斗と真。遼平は興奮状態で気付かず、澪斗の位置では男達が邪魔で照準が定まらず、真からでは、遠い。
「てめぇらはここで終わりだぁぁ!!」
振り上げられる刃。
意識が朦朧としている純也をぎゅっと抱きかかえて、希紗は思わず目を閉じた。