第一章『嵐の兆し』(1)
第一章『嵐の兆し』
「エエ加減、遅刻するなって言うとるやろがァァァ!!」
やっぱりいつも通り、事務所の扉が開かれると同時に叩き込まれる部長のハリセン。『パシィィィン……!』と余韻まで響かせるその一閃は、もはや中野区支部名物……なのだけれど。
ところが今日響いたのは、耳障りな金属音。妙な感覚に、真はハリセンで叩き倒したはずの人物を見ると。
「よっしゃっ、『秘技・金の盾』作戦、成功!」
「……っていうか、ただの鍋のフタだけどね……」
一家に一つはありそうな金色の鍋のフタを構えた体勢のままの遼平と、それを後ろから引きつった苦笑いで見ている純也。何なのだろう、この三流芸人コントのような光景は。
「ざまあみやがれ真! いつまでもこの俺様がやられるばっかりだと思うなよっ!」
「あんたなァ……こんなモン準備しとるヒマがあんならなァ……!!」
得意気に鍋のフタを手でクルクル回す遼平に、ハリセンを握り締めた真の拳が震える。瞬間、殺気に物凄く近い《気》を感じ、純也が「遼っ!」と叫んで腕を掴み、もう一度鍋のフタを構えさせた。
空気さえ切り裂く、疾風の一筋。
「は……?」
にやついていた遼平の顔が、そのまま固まる。咄嗟の純也に支えられた左手が握っていた鍋のフタが、真ん中から鋭利に――――切断されていた。
彼の前には、もはや美しくさえ見える右腕のハリセンを振り切った姿勢の、真が。
「て、てめぇっ、たかが遅刻でここまでやるか!? っていうかハリセンで衝撃波なんて出るのか普通!?」
「遼っ、普通じゃない! 普通じゃないんだよ僕らっ! 今更だけど!」
動揺して震え上がる男と少年を前にして、部長はゆっくりとハリセンを愛撫する。確実に黒いオーラを漂わせた、清々しい笑みで。
「……そんな猿知恵考えとるヒマがあるなら、もっと早う出勤できるよなァ、遼平くん?」
「全面的に俺の責任!?」
「……違うのかなァ、蒼波遼平くん??」
「す、すみませんでした……完全に俺の責任デス……だからその凶器を下ろし、て、ください……」
泣きそうに震えてしがみついてくる純也と一緒に、遼平はひたすら頭を下げる。知らなかった、まさか真のハリセンにそこまでの破壊力があったなんて。さすが、関西より伝わりしツッコミの神器。
「まったく……毎朝の事とはいえ、殺したくなるやかましさだな」
「私はもう慣れちゃったけどね〜。もはやこれも真の日課よね」
それぞれデスクに着いていた澪斗と希紗の、呆れた声。その言葉にどっと部長は疲労を感じ、ため息を吐いて席に戻ろうとした。……が、上着を誰かに掴まれ、彼は後ろに弱く引かれる。
「あっ、あのね真君! 今日は、僕が寝坊しちゃったのも原因で……だから……ごめんなさい……」
振り返ってみれば、真摯な瞳で見上げてくる純也。強烈な一撃がお見舞いされるのを覚悟して、震えながら。
「あァ、純也は素直やなァ……。エエよ、ワイなんかもう、疲れたし。今度からは気ぃつけや」
真の手が上がったのを誤解して目を瞑った純也の頭に、軽くハリセンが落ちる音。少年の銀糸に、優しく触れる。
「ずりぃぞ真っ、なんで純也だけひいきすんだよ!」
「ちゃうって、純也の頭が悪うなったらことやろ」
「俺ならいいのか!? それを『えこひいき』って言うんだよ! なんだよ、俺と純也の何が違うんだよ!?」
「「「いや、全部だろ」」」
遼平の言葉を聞いた同僚達が、さも当たり前のような顔で同時に同じ発言を。むしろ、『一体どこに共通点があるのか?』と問い返したいぐらいだ。その反応に遼平は「ちくしょーっ!」と地団駄を踏むに終わる。
「真君……本当にごめんなさい」
「明日は遅刻しなけりゃエエ話や。気にすんな、純也」
どこか悲しそうな純也の表情に気付かず、真は自分のデスクに座る。純也もとぼとぼと席に着くが、遼平は早速接待用ソファに寝ころび、昼寝する気満々だった。
純也がふと、自分のリュックサックから銀色の手のひらサイズの箱を取り出す。中から出てきたのは、白い小さな錠剤。
「あれ? 純くん風邪?」
「あははは……、そんなものかな。家で飲む時間が無くて」
「なんや、医者の不養生っちゅーやつか」
四つも口に含み、純也は一気に水で飲み込む。そしてすぐに、錠剤ケースを隠してしまった。
ふと微かな寝息に気が付けば、既に軋む接待用ソファの上で遼平は夢の中。ソファに全員の視線が集まり、部長は深呼吸のようなため息を。
「あいつ……事務所に寝に来とんのちゃうか!?」
「僅か数分で眠りについたな……。毎度思うが、何故あんなに昼間に眠れるのだ?」
「まぁ、裏警備員としては適性があるんじゃない? すぐに仮眠できるトコロとか」
そんな同僚達の言葉に、遼平の同居人である純也は苦笑して、答える。
「なんかね、深夜に起きちゃって、そのまま眠れなくなったんだって。朝は顔色が悪くて心配してたんだけど……今は眠れてるようで、良かったよ」
「嫌な夢でも見たんやろか?」「さぁ……」と不思議そうな同僚達に気付くことなく、ソファの上で男は相変わらず間抜けそうな顔つきで眠り込んでいた。いつもと同じ……勤務中に爆睡、という不義に。
「んー、それにしても、今日も平和やなァー」
事務所への麗らかな日差しに、部長は和むように背伸びして。いつも何か作業をしている彼らしくない、呑気な姿。
「……真」
「何やの、澪斗?」
「昨日、依頼が来ていただろう。その話はいいのか。……それとも、貴様一人で行くと?」
本人はその気が無いのだろうが、睨むような目線。それに、真は気まずそうに「あー……」と視線を逸らして。
依頼を受理するのも社員を選定し派遣するのも、中野区支部では部長の仕事になっている。部下の誰にも依頼内容への適性がなかった場合は真が独りで赴いてしまうことも、稀にある。
「……知ってたんか。ワイ一人やとキツい仕事なんやけど……それ以前に、気が向かへんのよ、この依頼」
真が話題にしたがらなかった依頼内容。彼が『気が向かない』と言うのは、相当の違法に触れることか、人を傷つける仕事か、もしくは――――。
「人間の命を壊す依頼、か」