第四章『最善の選択』(4)
『――あんたも、辛いんだな』
今でも覚えている、遼平と出会った日のあの言葉は今も鮮明に思い出せる。獅子彦の能力を初めて知って、誰もが羨むような台詞を吐き心では畏怖を抱く中、あの目付きの悪い少年だけはその心と同じ言葉を伝えてきた。
それと同時に目を合わせた瞬間読めた、少年の痛々しい記憶。光や希望など知らない心。若かった闇医者は“も”という文字の残酷さを知る、まだ短すぎる人生で互いが背負ってきた暗闇は決して比較していいものではないけれど。
だから獅子彦は精一杯の不敵な笑みを返して、言ってやったのだ。
『――――お互いに、な』
あれから何だかんだで続いた腐れ縁は、人を嫌い避けていた獅子彦にいつしか変化をもたらした。人間の保護者になりたいと、“誰かを保護してやりたい”と思えるまでには。
そして獅子彦はその変化をなかなか悪くないと思っている。ならばそれは、遼平に救われたということだ。
護り庇いたいと思ったからこそ、獅子彦は遼平がどんな状況に陥っても彼の頼みを決して断らなかった。たとえ支払いの見込みが無くとも、闇医者は彼を治し続けた。
そしてそんな中途半端な保護者気取りが招いた結果が、今目の前に横たわっている。楽な姿勢にする為床に仰向けになった状態で、朦朧とした表情のまま紙袋と肺の呼気を入れ替え続ける子供が。
「……ちょっと待ってろ、今、薬を用意するからな」
医者が呆けている場合ではない、自分の感傷などより余程遼平の方が苦しいのだと己を叱咤し、獅子彦は注射器と精神安定剤を用意し始める。静かで真っ白な診察室には、遼平の苦しむ音だけが響く。
彼がそのまま失神しないよう声をかけながら、二の腕に注射針を刺し込んでいた時、不意に遼平の澱んだ瞳と目が合った。
最も強く読まされた想いは、謝罪で。そして自責と後悔と獅子彦への心配。
遼平の漆黒の瞳に映る闇医者は、患者に負けず劣らず蒼白だった。視界が霞んでいる遼平でもわかってしまう程の困窮した表情、だからこそ今患者の思考を支配している想いは『迷惑を掛け過ぎ困らせてしまった獅子彦への、ひたすらの罪悪感と謝罪』だ。
「……っ……! お前らしく、ないだろ、弱ってるからそんなこと考えるんだ、そんな弱気なんかお前に似合わない。考えるな、そんな風に考えるんじゃないっ、もう充分だ!!」
弱った患者の思考に釣られてはならない、呑まれてはならない。けれど獅子彦はわからなくなる、目の前で弱り苦しんでいるのは果たして自分にとって“患者”なのか? “我が子”として感情移入した相手だったのでは? それとも所詮は“赤の他人”か?
何故こんなにも胸が苦しい。どうして医者として冷静に対処出来ない。
もはや遼平と目を合わせることすら出来なくて、獅子彦は継ぎはぎだらけの右手で横たわる彼の両目をそっと覆って。
「もういい……もう充分なんだ、遼平。お前は本当によく頑張った、だからもう、全て背負い込む必要なんか無いんだ……これ以上自分を責めないでくれ……っ」
弱々しく自分の名を呼ぶ声が紙袋の内側から聞こえた気もしたが、自らの瞳も強く閉じてしまった獅子彦ではもう応えられない。今はただ、自身の感情を押し殺すのに精一杯だった。
せめてお前が、泣いてくれればいい。
「辛い」と、「苦しい」と、「悲しい」と、「もうダメだ」と、「助けてくれ」と。
そう泣き叫んでくれたら、よかったのに。
それは決して“弱音”ではない、独りでは耐えきれない重荷を抱えて助けを求めることは決して弱いことじゃない。子供にはその権利がある、そして親にはそれを受け止める義務があった。
――こんなに苦しみ続けたお前が泣けないのに、俺が泣いていい道理がどこにあると言うんだ。
獅子彦のその言葉が遼平に届かなかった、理由は二つ。
一つはもう遼平の意識が無かったからで、慣れない過呼吸のせいで気を失ったのか、徹夜明けで疲れ果てていた身体を横にされて眠り込んだのか。どちらにしろ獅子彦の手の温もりで張り詰めていた糸が一気に緩んだからなのだが、当の保護者がそれを知ることはなく、ただ今だけは遼平がゆっくり休めたらと願いながら手を離した。
もう一つの理由は、結局、獅子彦がその想いを音には出来なかったからで――――喉まで出かかっていたその言葉は、彼の感情と共に噛み殺された。それを口にしてしまったら、もう医者としての理性を保てない気がして。
闇医者に感情や執着は要らない、そしてここから消え去る日には“心”すら必要無くなる。
床で眠りについてしまった遼平を病室のベッドまで運んでやりたいのは山々なのだが、まさか純也と同室に眠らせるわけにもいくまい。こんな状態の遼平を純也には見せられない、少年は酷く心配するだろうし、そんな少年を見て男もまた後悔に陥ってしまう。互いを強く思いやるが故に酷い悪循環にはまるのだ、この子供達は。
結果、簡素で硬い診察用の寝台に横にさせてやり、適当に何か掛けてやれる物を探すことにする。若干弱いが脈もちゃんとある、呼吸も平常に戻りつつあるし、まだ早朝なので依頼先の時間には余裕があるはずだ。少し休ませてやったら、純也の前にこの不良息子を叩き起こしてやろう。
その時にはもう、きっといつもの遼平だ。
忘れられないくせに、苦しみを引きずり続けるくせに、馬鹿な意地と強がりと不器用過ぎる優しさで自分の中だけに暗闇を溜め込もうとするダメ息子だから。
次に目が覚めた時、おそらくこの子は笑うだろう。何事も無かったかのように、幼少期に闇医者から移った口元を引き上げるニヤけた笑みで、苦悩など何一つ察されない不敵な表情を浮かべるのだ。
何が、出来るだろう。
遼平に、この愛想なんか欠片も無いダメ息子に、出来損ないの父親が。
結局親子にはなりきれなかった、なろうとすらしなかったのかもしれないが、それでもどうせなら最後まで無責任な保護者面をしてやりたいではないか。
何が、してやれるだろう。闇医者だった年月も、幾度となく人の身体を治しはしたが一度も心は救えなかった。まして獅子彦にはもう僅かな時間しか残されていないというのに。
「最後くらい、俺がお前に出来ることが何かあればいいのにな。――――“炎在獅子彦”の忘れ形見くらいは遺させてくれ、それが俺がヒトとして生きた最初で最後の存在意義なら」
静かな寝息を漏らす子供に毛布を掛けてやりながら呟いた保護者の大きな背は、その言葉同様、今にも部屋の白へ消え入りそうだった。