表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/28

第四章『最善の選択』(3)

 メモ帳の端のような小さな紙切れ、そこに記された僅か一行の文字を、遠い目で見つめていた。


「約束の時、ねぇ……」


 呟いてから、その言葉ごと握り潰すように右手の文書を紙屑に変える。サングラスを中指で押し上げ、忌々しげに煙草を咥えた獅子彦が回転椅子の背に寄りかかりながら「まるで赤紙だな」と零した音は、誰もいない診察室によく響く。


 独りごちてから言い得て妙だったと気付き、苦笑を漏らしてその紙屑を灰皿に放ってやった。上から煙草を押しつければいとも簡単に燃え尽きる、呆気ないほど小さな紙切れ。


 そこに書かれたヒト一人の終わりと、暗黙的に告げられた“炎在獅子彦”の終わり。



「……おやすみ、バアさん。ありがとう」


 もう届かない、あの特殊な眼を持った彼女でも二度と視ることの出来ない彼の顔は、憂いは含んでいたけれど安らかだった。これから果たさなければならない役目への不安よりも、やっと彼女が逝けたことへの安堵の方が勝ったから。




「……獅子彦?」


 らしくなく感傷に浸っていたらしい、相変わらず診察室へノックもせずに入ってきた遼平にしばらく気付けなかった闇医者は若干動揺しつつ首だけ振り向いて「おう、なんだ早かったな」とニヤついた。


「なんか、あったのか?」


 他人の考えこそ読めはしないが、こいつの敏感さも厄介だよなと白衣の男は苦笑を深くする。蒼波の感受性が成せる技なのか、嬉しいだとか苦しいなんて感情はすぐにバレる。現に今、獅子彦なんかより疲労でよっぽど顔色の悪い遼平がその表情を更に曇らせていた。


「そんな顔したお前に言われたくないな、俺の方は大したことじゃないさ。……さっき手紙が届いてな、母方の祖母の元旦那の七人兄弟の母親が死んだそうだ」


「あー……誰だって?」


「まぁ要するに俺の曾祖母さんってとこだ。享年百二十二歳、ギネス並みの大往生だとよ」


「お前のしぶとさは確実にその婆さん譲りだな……にしても、お前実家とはもう縁切ったんじゃなかったのか?」


 俺も人のこと言えねーけど、と付け足す遼平はデリケートな話題だとわかっているからなのか遠回しに問う。どっちにしろ目を合わせてしまえば獅子彦には全て伝わるので、そんならしくない気遣いなど無用なのだが。



「いや、実家から直接の手紙じゃなかったんだけどな。……俺もそろそろ、観念して覚悟を決めろとさ」



「獅子彦……?」


 諦めきったような獅子彦の苦笑が、何故か酷く目に焼き付く。遼平が子供の頃からの腐れ縁なのに、闇医者のこんな表情は初めて見たからか。

 なんで、そんな、まるで別れを告げるような顔で微笑むのか。



「そんなことより遼平お前、一睡も出来なかったって感じだな。あんまり考え過ぎるなよ、お前の脳は驚異的に容量小さいんだからすぐにパンクするぞ」


「……うっせえよ」


 弱々しくそれだけ吐き捨てて、診察室の硬い寝台に座り込む。

 いつもの怒声が返ってくることを予想してからかったのに、実際は力無い一言の反応。もう冗談に噛みついてくる精神力も残っていないらしい。


「ったく、今日から仕事があるのにそんな弱りきってる心身でどうするんだ。……純也に、会いに来たんだろ? そんな青白い顔して会う気か?」


 顔色が良くない、瞳が澱んでいる――――まるで病人で、これではどっちが見舞いに来たのだかわからない。遼平のこの様子では、今日からの仕事どころか純也に会うことさえ主治医は認めかねる。



「……わかってた、わかってたんだ。忘れてたわけじゃねぇのに……」


 闇医者の問いとは食い違った男の返事。返答ではなくそれは独白であろうと、獅子彦は察することが出来る。昨晩から何も口にしていないらしき衰弱した顔を伏せる遼平は、両肩を震わせ今にも泣き出しそうで。

 この子は決して泣くことが出来ないのも、保護者として解り切っているのに。


「吐き出してみるといい、ココなら誰にも迷惑はかからない。言葉にするだけで、楽になれる」


 回転椅子の背もたれに寄りかかり、獅子彦は温かい声色でそれだけ言う。その特殊な瞳は、閉じて。



「俺が純也を壊すこと、忘れてたわけじゃねぇんだ。ただ……ただ、それまでは、純也が生きている限りは、アイツが幸せに過ごせるようにしてやりたかった。寂しい想いをさせねぇように傍に置いたし、無駄に気遣わせねぇようになるべく普通に振る舞ってた。せめてもの救い……償いのつもりだった。――――けどいつしか俺にとって、純也のいる日々が『当たり前』になってた。翼が死んで、もう二度と心の底から笑えないだろうと思ってたのに、純也と共にいることで俺はまた笑えたんだ。……本当に救われたのは純也じゃない、俺の方だ」



 相槌など打たずとも、一度言葉になって出ていった想いは止まることはない。堰を切ったように、溢れ、吐き出されていく。順序も理屈も関係なく、ただ口が勝手に感情を音として紡ぐ。



「純也は俺と違って頭が良い、自分の病気を忘れたことなんかないと思う。なのに俺は、心のどこかで忘れたがってた! 純也に救われたくせに、アイツを幸せにもしてやれず、挙げ句に嫌なことからは眼を背けようとしてたっ! だから今回みてぇな失敗をしたんだ……純也の身体の警告にも気付かず、更にはアイツの心まで傷つけて……」



 遼平が何を想いながら闇夜を独りで明かしたのか、大体の想像がつく。人間は辛い記憶ほど忘れるのが早いことを、獅子彦は以前遼平に教えたはずだ。それを覚えていないのかもしれないが――どちらにしろ、遼平はそんな心理学的慰めなど拒絶するのだろう。


 小難しい理論や道徳など知らない、考えられない。ただ己が見て聞いて感じ取ったままに、独断して直感で行動する。幾度となく人間に裏切られたのに、それでも放っておけずに古傷を抱えながら手を差し伸べる。

 獅子彦が思うに、『蒼波遼平』とはそんな男なのだ。



「支えられていたのは俺の方で、純也がいることで今まで背負ってきた暗闇も照らされる気がした。アイツは何があっても《破壊者》の俺に笑いかけてくるんだ……優しくて穢れない笑みを。俺は怖くて、言えなかった。『お前が麻薬中毒になったのは、俺の争い事に巻き込まれたからだ』と。怖くてとても言い出せねぇんだ――――最も憎むべき男に懐いていたんだと知って、アイツが深く傷付くと思ったら」



 声音の僅かな震えを聴き取り、猶も獅子彦は暗闇と沈黙を守る。遼平の様子を窺うこともなく、何か声をかけることもなく。その辛い独白を受け止めることが、獅子彦は自分の出来る最善だと思ったから。



「いつかっ、いつかは言おうと思ってたっ、言わなきゃならないと俺だって分かってたんだ! それでも初めの頃、純也の世界には《俺》しかいなくて……もう少しだけアイツがしっかりするまでは黙っておこうと思ってた。それが“逃げ”だと分かっていたのにだ! そしてアイツが《俺》以外のヒトを知り、社会を知った頃に、俺はようやく手遅れな事実に気付いて恐怖した。純也は優し過ぎて、更には俺を信用し過ぎて……アイツは、“俺を責めることも憎むことすらも出来ない”と……!」



 それは過大評価でも遼平の自惚れでもない。むしろそうであってくれたなら、まだどんなに良かっただろう。


 返事は要らない、反論など出来ない。実際にあの少年の心を読み続けてきた獅子彦もわかる、それは正真正銘周知の事実だ。純也が心の底から遼平を責めたこと、ましてや彼を憎んだことなど一度も無く、ただひたすらに向けられたのは一途な好意だ。それも子供が肉親へと向ける、無条件な信頼と愛情に近い。


 たとえ何があっても、遼平が過去どんな罪を犯していても、純也はただ彼を信じ続け傍に居た。その優しい軌跡が示す先は、《誰を責めることも出来ず独りで傷付くであろう》裏切られた純也の未来だ。



「いっそ俺を恨んでくれればいい、俺に殺意を抱けばいいのにっ。みんなそうしてきたんだから……《俺》を憎むことでお袋も、スカイも、現実から救われるならそれで良かった。なのに純也はそれが出来ない……っ」


 今まで沈黙を続けていた獅子彦の、眉が僅かに動いた。軽く眉間にシワが寄ったのは、遼平の話の中に明らかな矛盾点を見つけたからか――それとも獅子彦自身の感情のせいか。



「……お前を憎むことで救われた人間が、誰か一人でもいたか? いい加減にしろ遼平、お前はさっき、『純也が幸せに過ごせるようにしてやりたかった』と言っていただろう? なら何故そんな正反対の願いをするんだ、他人を憎むことであの子が幸せになれるとでも思うのか? お前が一番分かっているはずだ、あの子の本当の幸せは――――」



「うるせえッ、わからねえよ! 何もわからねぇっ、俺には何にも!!」



 遼平の怒号に驚き目を見開いてしまってから、獅子彦は己の大人気の無さに気付く。

 確かにほんの僅かな怒りはあった、自分の価値を「憎まれる為だけの対象」と扱う遼平への苛立ちと悲しみはあった。けれどあんな風に捲し立てて、しかも遼平が今まで心を殺し苦しみながら作り上げてきた“憎まれ役”を全否定することなど、決して言ってはいけなかったのに。



「俺は何もわからなかったっ、どうすればアイツらを護ってやれるのか俺には何一つわからなかった! 頭で考えられないのなら身体を差し出すしかねぇだろ……っ、俺はもう何を背負っても痛みなんか感じねえんだから!!」



 感情の限りに叫んでから、遼平の身体は力無く床に崩れ落ちていく。精神力を消費しきり弱った身体で、苦しそうな呼吸を必死に繰り返していた。尋常ではない汗と青白い顔、身体はなんとか左手を床について支えるのがやっとで右手は左胸のシャツを握り締める。


「お、い……おい遼平!? 俺が悪かった、今のは俺が言い過ぎた、しっかりしろどうしたっ?」


「お……っれ……おれ、はっ、ぅ、ど、うすれば……じゃあおれっ、はっ! どうすれば、よかったんだよ……っ、それいがいに、それいじょうに、アイツらをまもれるほうほう、あったの、かよっ!!」


 明らかに息がおかしい、自分では制御出来ない激しい呼吸に苦しむ遼平を見て呆然としていたが、保護者はすぐに“闇医者”へと意識を切り替える。どうして今まで気付いてやれなかったのだろう、この症状は明らかに過呼吸症候群だ。


 当人は死んでしまう程苦しい症状だろうに、それでも遼平はひたすらに「わからない、おれはわからないっ」と途切れ途切れの音で叫び続けていた。獅子彦は「喋るな呼吸に集中しろ!」と遼平の頭を肩に寄りかからせ支えた体勢で、必死にデスクの棚を漁り応急処置の出来る道具を手探りで探す。

 幸い、手芸用品を詰めたままの紙袋が残っていたので全て引っ繰り返してから遼平の口へあてがってやった。


 初めてのことで戸惑っている遼平の瞳から強い疑問が読めるから、獅子彦はなるべく平静と穏やかさを装って「大丈夫だ、死んだりしない、これを口にしてからゆっくり息を吐け、大丈夫だから」と告げつつ背中をさすってやる。



「落ち着くんだ、お前を責めるつもりはなかった、紙袋は強く押し付けるなよ……あぁそうだ、そのまま呼吸のペースを元に戻そう。今はリラックスすることだけを考えろ」



 手指を痙攣させながら紙袋を口に当てる遼平の弱々しい姿を見て、獅子彦は酷い後悔に襲われる。その悔いは先程の浅はかだった発言からくる罪悪感だけではなく、今までずっと、いつかこんな日が来ることをわかっていたのに何もしてやれなかった壮絶な無力感もだ。


 満足な教育もされず痛みと苦しみばかり背負ってきた子供が強がりだけで生き抜けるわけがないと、いつか“心”が壊れてしまうと、医者として保護者として大人として、獅子彦は解り切っていたのに。


 どうして救わなかった。

 どうして助けてやらなかった。

 どうして、手を差し伸べることすらしなかった。



 そんな情の欠片も無い無責任な自分に、《保護者》を名乗る資格などあるわけがなかった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ