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第三章『約束の想起、忘失の総記』(10)

「――遼平、おい遼平、聞こえないのか?」


 肩を叩かれて、ようやく獅子彦の声に気付けた。やっと我に返り純也の寝顔から首を上げる。


「あ、あぁ、悪い。なんだ?」


「その子の今後のことで……話がある。聞くか聞かないかはお前の自由だが」


 その言葉に驚き、そして少しの間躊躇ためらった自分が情けなかった。闇医者でありながら僅かに道徳心を残している獅子彦は、絶対に最後まで俺に責任を取らせると思っていたから。

 だから、『聞くか聞かないかはお前の自由』という言葉……つまり、『ここでこの件を投げ出してもいい』なんて言われるとは予想外で。


 それは、獅子彦の限界の優しさだったのだと思う。『もう重荷を抱え込むな』と、遠回しに言いたかったのかもしれない。そんな想いに一瞬甘え、答えに躊躇った自分が、惨めだったんだ。



「……全部、聞く。話してくれ」


 “自由”なんて無い、元より俺に選択権は無い。有るのは、苦悩と苦痛へ続く闇への道だけ。

 そうだ、俺は、この道には暗闇しか待っていないと知っている。ずっと昔から。



「……では、隣の診察室で話そう」


 俺の瞳を見て、獅子彦がそのサングラスの奥でどんな眼をしたのかはわからない。ただ、すぐに俺から顔を背け、扉をゆっくり押し開ける後姿がいつになく悩ましげだった。







「長く保って、一年だ」


 自分専用の回転イスに座り、その前の丸イスに腰掛けた俺への一言目はそれだった。

 診察室内の沈黙は、重い。あまりに単刀直入な獅子彦の言葉に唖然としてしまったのも事実だが、すぐには喉から声が出なかった、というのも理由の一つ。


「…………純也の余命、か」


「余命というか、“廃人になるまでの時間”だな。鎮静剤を投与し続けて運良く暴走を防げた場合、長く見積もってあと一年、身体が動かせる」


 それが、“運が良かった”場合なんだ。もうアイツには、人並みの寿命も、平穏な死すらも無い。



「獅子彦、純也の記憶はどうなる? そもそも、記憶喪失は治るもんなのかっ?」


「そうだな……とりあえず、簡単にあの子の場合の記憶喪失について説明するか。現在の正式名称は、『全生活史健忘』。自分に関連する記憶が思い出せない状態のことだ。……遼平、あの子は俺が自己紹介した時、『初めまして』と言ったよな?」


「あぁ、そういえば……」


「人間の脳ってのは、言語などの知識を覚えておく場所と、思い出などを覚えておく場所が分離しているんだ。知識についての記憶を『意味記憶』と呼び、思い出の記憶を『エピソード記憶』と呼ぶ。つまり、あの子が常識の言語を喋ることは出来るのに自分のことがわからないのは、『エピソード記憶』が欠如したからだ」


 獅子彦は極力簡単に説明しようとしてるんだろうが、医学の知識が全く無い俺は話に追いつくのに必死だ。とりあえず、“自分の思い出だけ覚えていない”ってことなのか?



「……で、その原因だが。頭部への外傷という可能性も考えて調べてみたが、あの子の頭にそれらしき傷痕は見当たらなかった。そもそも、全生活史健忘の多くは精神的なショックやストレスによるものだ。あの子の記憶喪失の原因は何らかの心の傷だった…………最初はな」



 急に低くなった、獅子彦の最後の言葉。“最初は”……俺と出会った、あの時は。じゃあ、今は?


「さっきのあの子の言葉を聞く限り、お前と別れた後の出来事を一切覚えていないのだろう。……いや、《遼平と出会った時の記憶しかない》ってところか。お前の名前は覚えてて、自分の名前がわからなかったんだからな」


「なんで……なんで俺なんかの記憶だけ残ってんだよ……っ! なんとか廃人になる前に、記憶を取り戻す方法は!?」


「まぁ落ち着け遼平。今の記憶喪失の原因として、推測は二つ。まず、『あんなに大勢の人間を殺してしまった』という事実を心が拒否し、無意識に精神の自己防衛機能によって自ら記憶を消したか。もう一つは、ブラッド及び俺の作った鎮静剤に含まれている麻薬の成分が、脳を侵したか。……原因は両方、という最悪の可能性もあるがな」


 「前者の原因の場合、いきなり記憶を取り戻したらどうなるか……お前だってわかるだろう?」と獅子彦は腕を組みながら低い声で言い放つ。もし、心を守るために自分から記憶を手放したのだとしたら、それを思い出させると。


 あんなに幼く、優しい心が、あの血まみれの光景を思い出してしまったら。あの壮絶な虐殺を行っている自分を、思い出したら?

 ……絶対に純也は苦しみ、嘆き、きっと……また、死を望む。



『今のうち、に…………僕を殺して』



『僕は化け物だよ……生きてちゃ、いけないんだ……もう誰も殺したくない…………りょうを傷つけたくないよ……っ』



 純也を化け物にしたのは俺なのに。本当に生きてちゃいけないのは俺なのに。アイツは何も知らずに、死を願う。

 一年なんて待たずに、自ら死を選んだりしたら……!




「この類の記憶喪失の治療法は一般的に催眠療法だが……やってみるか? 遼平」


 たとえ、今の純也が記憶の回復を望んだとしても。どんなに《無》という恐怖に怯えさせるとしても。





「……このままにしてくれ、獅子彦。治療しなくて、いい……」




 “純也に生きていてほしい”という、俺の身勝手で一方的な我が儘。治療すれば純也の出身や家族の記憶も戻るかもしれないのに、臆病で卑怯な俺の願い。

 それでも、獅子彦は「そうか」と短く返してカルテに何か書き込んでいく。俺は力無く立ち上がり、おぼつかない足取りで純也の眠る病室に戻っていった。



     ◆ ◆ ◆



 遠い、遠い、昔の記憶。

 眠りから目覚めた時、傍に誰かがいてくれると何故か心が安らいだ。とても幼かった頃の記憶だ……傍にいてくれたのは、姉貴だった気がする。

 けど、いつしか俺の傍には誰もいなくなって、それが当たり前のことになっていって、独りの目覚めに何も感じなくなった。

 ……でも、独りになった最初の頃の感情は微かに覚えてる。



 ――――寂しかった。どうしようもなく、不安になった。





 今俺が純也のベッドの脇にいるのは、そんな遠い記憶のせいだろうか。

 ほとんど毎日付きっ切りで、寝たきりの純也の傍にいる。目が覚めた時、純也が不安にならないように。少しでも安心できるようにと。

 俺の考えは珍しく的を射たのか、時折目覚める純也は眠そうな瞳で俺を確認すると、嬉しそうにうっすらと微笑む。そして優しい声で「りょう」と音にするから、俺は頷いてやる。


 ただ、後遺症はまだ尾を引いていた。


 目覚めた時、また「僕は誰?」と俺に訊いてくる。その度に、純也が目覚める度に、何度も「お前の名は『純也』だ」と説明し、記憶喪失であることを教えた。次に目覚める時も同じことを訊かれるのがわかっていても。



「純也……寂しく、ないか?」


 『寂しい』と答えられても何もしてやれないくせに、俺は訊いてしまったことがあった。けど、純也は。



「ううん、寂しくないよ。僕、何にも覚えてないから……『りょう』が全てだから。だからりょうが居てくれれば、全然寂しくない」



 柔らかい小さな指で、俺の手を握ってくる。その触れる瞬間、俺が罪悪感に怯えているのにも気付かずに。

 何も無い純也の世界で、唯一存在する《俺》。


 あぁ、そうか、だからこそ。それならば、より一層。



「俺はココにいるから……寂しくさせねぇからな」


 言葉にしてから自分で驚いたくらい、俺らしくねぇことを言ったものだと。でも、それを聞いてとても嬉しそうな笑顔になる純也を見ていると、より思うんだ。




 純也が記憶を取り戻して帰れる日まで、純也が意識を失って還れる時まで、俺は傍に居てやろうと。



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