第三章『約束の想起、忘失の総記』(9)
独房のような冷たいコンクリの地下室。
鎮静剤の効果が切れる度に身悶えて暴れる純也、俺に純也の身体を押さえ込ませてその隙に注射針を刺す獅子彦、そして静寂が訪れるといつしか疲労で床に倒れ込む俺。
何度、それが繰り返されただろう。窓も時計も無い地下室は、俺から時間の感覚を奪っていった。
純也を押さえる度に激しく体力を消耗し、純也の苦しむ姿を見る度に精神が狂いそうになって。声が嗄れ、喉から血が吐かれても、俺は音にならない叫びで慟哭するしかなかった。
涙を流すことのできない俺は、その変わり果てた声色で自分を呪い、嘆くことしかできなかったんだ。
長い、永い、悪夢の刻は連なって…………疲労が絶頂に達した時、最後に純也の柔らかな髪を撫でて、俺は深い闇に還っていった。
◆ ◆ ◆
心地良い、温かな感覚が指先まで満たされている。
状況が把握出来ない、頭がぼんやりとしていて何も考えられない、ココは……どこだ?
「っ、じゅんや!? 純也ぁぁっ!」
勢いよく起きあがってみると、乗せられていた布団の上半身部分だけが落ちる。明るい病室……獅子彦の……純也は!?
病室に四つ並ぶベッドの、一番出口側が俺で、その左隣に純也が寝かされていた。もう寝顔に疲労の影は薄く、安らかに眠っているようだ。
俺は立ち上がり、純也のベッドの横の丸イスに腰掛けてみる。散々痛めつけられて内出血の紫に変わっていた肌は白さを取り戻し、傷口も塞がりかけていた。今更気付いたが純也の髪は銀糸の混じった綺麗な白銀で、まだ点滴管は抜けないものの腕や手は餓死寸前の細さから回復している。
「助かった……のか……?」
あの鉄鎖に拘束され、苦痛に身悶えていた日々が夢だとは思っていない。けど、今こうして普通の病室で眠っているということは……。
無意識の内に、惹き付けられるように俺の指が純也の白い手にそっと触れる。温かくて、柔らかくて、どこか――――優しくて。
無邪気な寝顔が微笑みに見えて、あの悪夢だった刻が嘘のように感じられた。
「お、遼平、起きたか」
病室の扉へ顔を上げたら、茶色い紙袋を抱きながら入室してきた獅子彦と目が合った。俺は不安そうな顔をしていたのか、獅子彦は穏やかに微笑んで心配を和らげてくれる。
「その子の生命力が異様に強くてな、順調な回復に向かってきたんだよ。毎回少しずつ鎮静剤に含む麻薬の量を減らしていったせいか、もう暴れることもない。一安心していいぞ」
「そっ、か……そうなのか……」
嬉しさで思わず眼を細めて純也を見る。全て解決したわけじゃないとわかっていても、今、純也が苦しんでいないことが嬉しかったんだ。
「お前をあの部屋に放置した俺にも責任があるが、体力の限界が来るまで居座るなよ……。ったく遼平、音の民が喉潰しかけてどうするんだ」
獅子彦に「コレ飲んでおけ、喉の傷口に効く」とゴム栓のされた試験管を渡されて、中に入ってる黄緑色の液体を胡散臭そうに睨む。
右手で掴んで親指だけでゴム栓を押し出すと、むわっとした異臭がして、思わず試験管を遠ざけた。
「臭っ、なんだよこの薬……また獅子彦のオリジナルか?」
「当然。この名医、炎在獅子彦の特効薬だ。副作用で身長が低くなったり卵アレルギーになったりするかもしれないが、きっと良く効くぞー。さぁっ、ググッと飲め!」
「どんな副作用だよ! お前っ、コレに何入れた!? また“トカゲの尾”とか“その辺に生えてたキノコ”とか入れたんじゃ――――ぐッッ」
強く言葉を続けようとしたら、喉に激痛が走った。口に上がってきた血が、数滴床に落ちる。喉が苦しすぎて、声が……出ない。
「無理して大声出すな、本当に喉が使い物にならなくなるぞ。心を苦しめて、喉まで傷つけて……それでも自分の闇に納得出来ないくせに。ほらっ、一気に飲み干せ」
俺の手から試験管を奪い取り、もう片手で俺の顎を上げさせて無理矢理薬を流し込んでくる。喉の奥の傷口に薬が触れた瞬間、あまりの熱い痛みに悲鳴を上げそうになったのを堪えた。
「っ、痛……っ、コレめっちゃ苦ぇえー!!」
「我慢しろ、『良薬口に苦し』って言うだろうが。もし吐いたりしたら、もう一本飲ますからな?」
俺の反応を見て、獅子彦は楽しそうに紙袋からもう一本の試験管を取り出す。やっぱり気味悪い黄緑色の……いや、さっきのより確実に色が濃い気がする。
喉が焼かれるような痛みに耐え、なんとか吐かないように我慢。ふと気付いたが、さっき声が出てたな……とりあえず効果はあるのか。
「さて、術後の怪我の経過を診たいから、遼平お前、そこのベッドに横になれ」
人にいきなり劇薬を飲ませておいて、何事も無かったかのように獅子彦は俺が寝かされていたベッドを指差す。俺は元々傷の治りが早いから、上半身に巻かれてるこの包帯もほとんどもう必要ないだろう。だから、『術後の経過』と言っても最後の確認だ。
俺は右手の人差し指で頬を掻きながら、困る。横になりたいのは山々なんだが……。
「あー……、獅子彦、それ後でもいいか?」
「どうした?」
「……コレ」
困ってため息を吐きながら、俺の左手に獅子彦の視線を向けさせる。その状況を見て獅子彦はすぐに納得し、「何やってんだ」と苦笑しやがった。
俺の左手が、純也の白く小さな指にぎゅっと握られてる。つい指に触れてしまった時、掴まれてしまって……コイツ離さねぇんだよ。
「本能、だな」
「あ?」
「動物の本能だよ。赤ん坊と同じさ、手に触れたモノは何でも握ってしまう。記憶喪失になったことで精神的にも幼くなるのか、俺でもわかりかねるが」
まだこんなに小さいのに、記憶喪失で行き倒れて……コイツに何があったのか。純也にも生き別れになった家族がいるんじゃないのか。『生きろ』と言った“先生”がいるんじゃないのか?
「でも、純也は少しずつ確実に記憶を取り戻してたんだ。完全に思い出せるのも――」
その時、獅子彦を見上げながら言いかけていた言葉を不意に止めた。俺の左手を握っていた指が、ゆっくり動いたから。
「うぅ……ん、あぅ……?」
微かに声を出しながら、開いていく瞼。寝ぼけたままのとろんとした青い瞳で、純也は最初に俺を見た。俺の手の感触を確かめるように、小さな指を動かす。
「どこか痛い所はないかっ? 獅子彦っ、コイツは……」
「今は大丈夫だ遼平。弱い鎮静剤で、禁断症状は抑えてある。後は怪我の方だが」
俺と獅子彦の両者をきょとんとした表情で見て、純也は上半身を起こす。その時に腹部が痛んだのか、少し苦しい表情を浮かべた。
「無理して起きるなっ、身体の怪我がまだ……」
「だいじょう、ぶ……だよ、りょう。それより、ココは?」
きょろきょろと病室を見回し、自分の腕に刺さった点滴に首を捻り、純也は不安そうに俺の手を引く。ずっと繋いだままの手は、僅かに震えていた。
「ココは俺の病院だ、安心していい」
純也のベッドの前に立った獅子彦が、腰を曲げて微笑みかける。けど、純也はひどく怯えて俺の腕にしがみつき、獅子彦から隠れようとした。
「獅子彦、お前やっぱりそのサングラスが怖ぇんじゃねーの?」
「うーん、俺、結構このサングラスは気に入ってるんだけどなぁ……。怖がらせてすまなかった、改めて自己紹介しよう」
苦笑しながら獅子彦はサングラスを外し、その特殊な瞳を晒す。一見すると普通の日本人の黒い眼だが、じっと直視してみると違和感に気付く、透明で空洞のようなその瞳孔に。
「俺は闇医者、炎在獅子彦。遼平の主治医で、君の手術をしたのも俺だ。よろしく」
俺には絶対向けないような清々しい笑顔しやがって、純也に握手の意味の手を伸ばした。純也は一度戸惑ったように俺を見上げたが、俺が頷くと、おどおどと獅子彦と握手を交わす。
しかも礼儀正しく、純也は挨拶を返そうとして。
「初めまして……炎在さん。僕は――――」
うっすらと笑みを浮かべていた純也の表情が、急に凍り付く。瞳を限界まで見開いて、中途半端に開きかけた唇は震えていた。
そして、今までで一番強い力で俺の左手を握り締めて、呆然と俺に言ったんだ。
「りょ、う…………僕は――――誰?」
その言葉は、俺の頭を真っ白にさせ、全神経の感覚を奪うのに充分だった。
「は……? な、に言ってんだよ純也、まだ寝ぼけてんの、か?」
引きつった笑みを浮かべた俺の声は、無意識に震えてた。両手も小刻みに震えるが、それでも純也の小さな両肩を掴んで揺する。
「違うよ、りょう……。僕は……僕が誰だかわからない……」
「嘘だろ……っ? なぁ、嘘だよな純也!? 俺の名前がわかって、なんで自分の名前がわからねえんだよっ、純也!」
本当に戸惑ってライトブルーの瞳を動揺させる純也に、嫌な予感が過ぎる。思わず両手に力を込めてしまったみたいで、純也は俺の爪が食い込む肩の痛みに耐えながらも、首を横に振った。
「じゅんや……? 僕の名前は、『じゅんや』っていうの? ごめん、思い出せなくて……」
「なんで……何も覚えてないのかっ? 何にも!?」
「え、と……『りょう』はわかるんだ。僕を助けてくれて、だから僕はあそこでりょうを待ってて……それで…………あれ?」
深く考え込む仕草をして、純也は言葉を続けない。続けられ、ない……?
「りょう…………僕は、誰なの? 僕は何なの? 何にも思い出せないよ……っ、僕はどうしたの!?」
ガクガクと震えながら俺に縋り付いてくる純也は、今にも泣き出しそうで。喪失という“無”に怯え、唯一覚えている『りょう』という俺を、離さない。
そんな……どうして、こんな……。
「獅子彦、純也はなんで……」
腕にしがみついたままの純也から顔を上げ、俺は獅子彦に問う。俺の顔も最悪の結論を予期して怯えていたのか、獅子彦は険しい表情で。
「……事件の後遺症、かもしれないな。あの事件の精神的ショックが大きすぎて心の自己防衛機能が働いたか、《ブラッド》が脳を侵して記憶を奪ったか……」
「どっちにしろ、俺の争いに巻き込まれたせい、なのか……?」
「…………断定は出来ないが、おそらく」
目線を逸らして低い声で頷いた獅子彦に、俺は極寒の暗闇に突き落とされた気がした。呼吸の仕方さえ忘れてしまったように、瞬きも出来なくなったように、ただ愕然と。
“無”に恐怖し、か細い腕でしがみついてくる純也は、ただひたすらに「りょう、りょう」と繰り返し俺を呼んでいた。たった一つ覚えていた言葉、俺の名を何度も口にすることで、“自分の存在”を世界に保とうと必死だった。
そんな姿が痛ましすぎて、心苦しくて、もう見ていられなくて、俺は。
「純也、純也。もう何も怖くないからな、何も不安になることないからな、俺がここにいるから……。ごめんな、純也……」
卑怯な俺は、誤魔化しの言葉を吐いて、直視できない現実から目を瞑って、震えるその小さな身体を両腕で包み込むしかなかった。
頬に擦れる純也の髪が冷たい。俺の胸に触れる涙の雫が温かい。抱き締めた身体、その肌が柔らかい。
腕の中で泣きじゃくる純也の背をさすりながら、唇を噛み締めながら、ずっと心の中で謝り続けた。
――――ごめんな純也、お前の過去も、未来さえも奪って……何一つ護れなくて、ごめんな……。
誰に対しても不幸しかばら撒かない、疫病神。この力のせいで、他人に害を成さずには存在できない。
何が『護りたい』だよ……結局俺は純也を傷つけて、全てを奪って、何もしてやれねぇじゃねえか……翼の時と同じで。
俺の宿命を、存在を呪う度に、心はより深い闇色に染まっていく。淡い期待や想いはことごとく潰され、その度に絶望して暗闇に呑み込まれて。
……いつしか、俺の存在そのものが《闇》になっていた。
ふと泣き声が止んだことに気付いて目を開くと、まだ抱きつきながらも純也は眠りについていた。いや、精神的なショックで気を失ったのかもしれない。
抱きかかえていた上半身をそっとベッドに戻してやり、毛布をかけ直す。その白い頬を伝っていたまだ乾かない雫に、心が締め付けられる。
「俺が触れてしまって、ごめんな……」
透明な光の心を穢した、俺の闇の手。
『俺さえ触れなければ、純也は――』……そう思うと、どこか悲しげな純也の寝顔から目を逸らすことが出来なかった。