第三章『約束の想起、忘失の総記』(7)
無音の白い世界で立ち尽くしていた俺は、ふと一歩踏み出す。
瞬間、左腹部から紅が噴き出し、身体がバランスを崩して前倒れになっていた。もう両腕が上がらず、膝が落ちてそのまま頭が雪に埋もれていく。
視界が紅くて、霞んでよく見えねぇ……頬に触れる雪は容赦なく冷てぇのに、チビに貫かれた腹は熱くてしょうがねえ。
激突した瞬間、アイツは風の大剣を俺に突き刺して……俺はアイツの肋骨をぶん殴って。どっちも、致命傷を与える一撃だった。……っつーことは、つまり。
「俺……死ぬのか……」
ぼんやりと呟いてみた声は、白い息になり、すぐに消えていく。なんか切られた腹から内臓がはみ出てる気もするし……この出血量じゃ、いくら俺でも死ぬよなぁ……。
どこか他人事。死ぬ時ってのは、こんなに気分が静かなモンなのか? ……違うな、もう頭が回らねぇんだ……全部がどうでもいい…………眠い。
「……ぅ、りょ……う……」
な……っ!?
今の音……チビの声……? まさか、だってもうアイツは俺が殺し――。
身体に電気ショックが走ったように、腕に力が入って上半身を起こしていた。小さくて、弱々しかったけど、確かに聞いたんだ、チビの声。俺を、呼ぶ声を。
霞む眼をこすり、膝を震えさせながら立ち上がって、流血も無視してチビのもとへ…………もう体力なんか無い、けど、何かが俺を駆り立てる……あの温かなチビへ。
チビは、行き止まりの壁へ上半身を預け、座り込むように脚を投げ出していた。もう血まみれで、手足は骨が折れているせいであらぬ方向へ力無く曲がり、胸の呼吸が荒い。
けど、アイツは顔を上げて、目の前に立っている俺を見ると。
「よ、かった……りょう……生きて……た、ごめん…………ね」
「俺が……わかるのかっ? 正気に戻っ――」
「……うん。りょう、僕……もう動けない、よ……だからね…………」
チビは、ゆっくりと、痛みに耐えながら右腕を俺の前に掲げる。その手を取ろうと、俺も左手を伸ばして――――。
「今のうち、に…………僕を殺して」
「は……?」
チビの手を握ろうとしていた指が、止まる。光が戻ったライトブルーの瞳に透明な雫を浮かばせて、チビは哀しく微笑みながらその言葉を残酷に続ける。
「僕は化け物だったんだ……生きてちゃ、いけないんだ……もう誰も殺したくない…………りょうを傷つけたくないよ……っ」
その白い頬を伝う雫は、あまりに美しすぎた。どんな宝石よりも心惹かれる、光の化け物の涙。……その時、俺は静かな、けど確かな激情に支配されたんだ。
――――心の底から、チビに……純也に、『生きてほしい』と。
力が尽きていくのか、チビの右腕はゆっくりと落ちていく。同時に、その瞼も。
俺は、腕を強く差し伸べてその小さな手を掴む。もう二度と失わないように、この手から大切なモノが離れていかないように、しっかりと。
「りょ――――」
「生きろ、純也。お前だけは、死なせない。死なせるものか……!」
軽かったはずの純也の身体を抱き上げるのも、今の俺には困難な状況だった。けど、しっかりとその小さな身体を抱えて、元来た道へ歩いていく。ふらついて、何度も両膝を落として、それでも立ち上がってまた歩き出す。点々と、俺と純也の血が混じってどこまでも積もる白に跡をつけた。
腕の中の純也は、もう意識が無い。俺も気を抜くとそのまま力尽きて倒れるだろう。でも、ひたすら歯を食いしばって、感覚の無くなりそうな指に力を込めて、とにかく裏路地を進んだ。
全ては、純也をこのまま失わないために。
もう、『翼に似てるから』だとか、『俺が傷つけたから』とか、そんな理由じゃねえんだ。
ただ……ただ、言葉にならねぇ想いが、溢れてて。俺自身でも、よくわからねえんだよ。
「死ぬな……生きてくれ、純也。もう少しだけ、耐えてくれ。お前の命、必ず護る――――」
白く冷たい世界は、俺のその言葉と雪を踏みしめる足音だけが全てで。朦朧とする意識の中、ただ『純也を護りたい』、その一心が、俺を突き動かしていた。
◆ ◆ ◆
「獅子彦っ、獅子彦ぉっ!!」
両手がふさがっていたから体当たりするようにボロい扉を開け、その勢いがあまって室内で横倒れになる。また傷口が開いたのか、腹から血が噴き出し、床と純也を汚して。
「おい遼平、ドアが壊れたら――――って、なんだその怪我は! しっかりしろっ、何があった!?」
呆れて振り返った獅子彦が、俺の惨状を見て驚くのが声だけでわかる。チビに俺の体重がかからないように必死に肘で身体を支えている様子を見て、すぐに上半身を起こしてくれた。
言葉で説明なんかしなくたって、一度獅子彦の眼を見つめれば全てが伝わる。俺の罪、死闘、チビの致命傷。
それを全て読心術で“読んで”、獅子彦はひどく驚いていた。
「そんな、まさか……っ! お前ほどの力がありながら……いや、今はその話はいい。とにかく、すぐにお前らの手術をする」
俺達の容態を診るためにしゃがんでいた獅子彦が、急いで立ち上がる。そんなアイツを見て、俺は「待ってくれ」と喉から声を振り絞った。
「遼平……?」
「待ってくれ、獅子彦。俺はいいから、このチビを先に治療してやってくれ。危ない状況なんだ」
「馬鹿を言うなっ、この子よりもお前の方が重傷なんだぞ! 俺なら二人同時に手術するくらい出来る、お前を放置しておくわけにはいかないっ!」
両膝にもう力が入らねぇ……純也の身体を支えるのも、もう限界だ。俺は震える両腕を上げ、獅子彦に純也の身体を預ける。
「いくらお前でも、二人同時じゃ治療の速度が遅れるだろ? 頼む獅子彦っ、俺はどうしてもこのチビに生きてほしいんだ……だか、らっ、頼、む……ッ」
純也の身体を獅子彦が受け取ってくれたのを確認すると、俺は床にうつ伏せに倒れていく。獅子彦が何度も俺の名を呼ぶのを聞いたが、その声も遠のいていく気がした。
最後に顔だけなんとか上げて、純也を抱きかかえてまだ躊躇している獅子彦のサングラス越しの眼へ全ての激情を送る。
――――救ってほしい、たとえ俺がここで死んだとしても、そのチビだけは救ってほしい。
「……ちっ、わかったからあんまり強い思念を読ませるな。俺の精神力まで削るだろうが」
「悪ぃ、獅子彦……」
にやけながら、首は落ちて全身の力が抜けた。安心した瞬間、指先の感覚や傷の痛みさえも消えていく。
獅子彦とはスカイ時代からの古い仲だ、アイツの確かな腕はよく知ってる。大丈夫だ、純也はこれで助かる……これで……。
「獅子彦、純也をどうか……」
「もちろんだ、俺に任せろ。……だから、そんなトコで死ぬなよ、遼平」
獅子彦が手術室へ駆けていく足音を床に伏しながら聞いて、静かに瞳を閉じる。
ただ最後に、謝るように、願うように、託すように、「純也」と呟いてから、俺は闇に堕ちていった。