第三章『約束の想起、忘失の総記』(6)
飛びかかってきたチビが俺の左肩を切りつけるのと同時に、俺はチビの左脚を拳一発で折る。交差してそれぞれ受け身をとり、また跳躍。
今度はチビの右脚を狙い、ヤツが振るった《風の大剣》をかわして細い右脚にしがみつき、そのまま一緒にアスファルトへ落ちる。
「がっ、がああぁっ!」
「っ、これで……!」
『離せ』と言わんばかりの小さな身体の抵抗を押さえ込み、俺は左手で思いっきりチビの右脚をへし折った。その激痛に、喉が裂けるほどの絶叫をあげるチビ。
俺だって、こんな卑怯なマネしたくねぇよ……けど、両脚を折られればもうほとんど動けなくなるだろう。それでもまだ暴れるなら、両腕も折る……急所は外すから、死にはしない。
「うぁ……あああああぁぁっ!!」
そんな一瞬の安堵が隙を生んだ。俺の身体を突き飛ばし、チビは両脚で地を蹴って飛びかかってきやがったんだ。子供独特の甲高い声、けど獣のような叫びと共に。
咄嗟のことで、俺は向かってきたチビと体当たりのような体勢になる。遅れて届いた音は、風の悲鳴と皮膚が引きちぎられた音。
お互いの反動で弾き飛ばされ、俺達は距離をとる。さっきの皮膚が切れた音は、俺の右腕がチビの大剣によって深く切られた音だった。傷が骨まで届いてやがる。
嘘だろ……俺は確かにアイツの両脚を折ったのに、なんで立てる? ましてや、あの勢いの跳躍なんて考えられねえ。
積もった雪をどんどん紅が汚染していくこの瞬間も、俺達は互いを睨み合っていた。チビのライトブルーだった瞳は、濁って虚ろな色になっているように見える。
これ以上、チビの身体に無理をさせたら本当に死んじまう! 早く、早く止めないと……っ。
心の中で焦りが生じ、俺は一気に正面からチビに掴みかかっていった。細い両腕をそれぞれ握り、壁へ身体を押さえつける。
「目ぇ……、覚ませ……っ!!」
頼む、正気を取り戻してくれ……お前の身体が保たないんだっ!
「あぁああっ、がああああああああ!!!」
俺の心からの叫びなど届くはずもなく、チビは突風を巻き起こして逆に俺を反対側の壁へ吹っ飛ばす。
「がはっ」
内臓が潰された激痛と同時に声が漏れ、そして這い上がってきた血が足下へ落ちていく。もう身体は半分壁に埋め込まれ、右肩に力が入らない……関節が折られたのか、右腕が上がらねぇ……。
殺すしか、ないのか……。
翼、ごめんな……やっぱ、俺じゃ何にも護れねぇみてえだ……壊すことしか、出来ねぇみてえだ。
あのチビはもう人間じゃない…………怪物だ。止めるには、命を絶つしかねえよ。
悔しい……もう俺の体力もほとんど残ってない、迷ってる余裕はねぇんだ。
憎い……チビをあんな怪物にさせちまった、俺の宿命が、《定め》が、俺自身が憎くてしょうがねえ。
殺すしか、ない。
「許してくれ、なんて……言えねぇよな……。すまねぇ、楽に逝かせてやることすら、俺には出来なさそうだ……」
許しを請うことも、開き直ることも、俺はしない。お前の憎悪、俺の罪、全ての闇を背負って、俺は生涯苦しみ続け生きていく。翼の時と同じように――――。
壁に埋もれた身体を起こし、口の中に溜まっていた血を全て吐き落として、再び構える。それを見たチビも構え、俺はありったけの力で上空へ跳躍。
当たり所によっては一撃必殺になる、俺の渾身の踵落とし。チビは両腕をクロスさせて受け流そうとしたが、この重量を全て流すことは出来ないだろう。やはり、すぐに痛々しい音をあげ、上でクロスさせていた左腕の骨が砕けていくのがわかる。
「あああぁぁっ」
膝を落としかけていたチビのその声が痛みの悲鳴だったのか怒りの絶叫だったのか、俺にはわからなかった。……いや、もう、わかりたくなかったのかもしれない。『殺す』と決めた以上、相手の心情など理解してはいけない。
『何も想うな、殺すことだけに専念しろ』と必死に頭に言い聞かせ、チビの鳩尾に左ストレートをねじ込むっ!
もう手加減無しの一撃で、軽すぎるチビの身体はコンクリの壁に勢いよく吹っ飛んでいく。全身を強打し、そして反動で地面にもうつ伏せで強く叩きつけられるチビ。開かれた小さな口から、噴出するように血反吐が溢れていく。
俺も息切れが止まらない……身体の覚醒状態に、筋肉や神経が悲鳴を上げ始めてる。
目の前のチビは、虚ろな瞳で、苦しそうに顔を歪めながら、何度も激痛の叫びを繰り返していた。その度に、叫びと同時に血が噴き出され、その紅は雪に染みて、やがてその白髪も染めていく。
このまま放っておいても、この出血量ならチビは死ぬ。けど……。
脚の骨を軋ませながらチビへ駆け寄り、俺はその小さな身体をそっと抱き上げ、仰向けに寝かせてやっていた。そして、その白く滑らかな首へ、両手をかける。
……一秒でも早く、チビを苦しみから解放してやりたかった。すぐに、楽にさせてやりたかったんだ。
呼吸と共に血を吐き出しながら、喘いでチビは俺を見上げていた。虚ろな瞳は何の感情も宿さず、ただ、悲愴な俺の顔を映して。俺の両手の握力なら、こんなか細い首は一瞬で折れる。……それで、終わりだ。
「動くなよ……すぐ、楽にさせてやる……」
自然と指が震え、それを抑えようと歯を噛み締める。俺の指がその白い肌に食い込んでいく……その時だった。
今まで苦しそうで無感情だったチビの表情が、緩んだんだ。そして小さく、小さく微笑んで、唇が微かに動いて、チビは――――。
「りょう……、ありがとう」
――――翼と同じことを言ったんだ。自分を殺す相手に向かって、笑顔で「ありがとう」と――――。
「っ!」
その瞬間に蘇る、翼の最期。あの優しい笑顔と柔らかい声、そして温度を失っていく手……あまりにもリアルに、鮮明に、俺のあらゆる神経にその感覚が蘇って。
俺が一瞬だけ呆然としてしまったその時、チビは再び苦しみだしていた。もうさっきの優しい声じゃなく、身悶えながら唸る。
「ぐああぁあぁっ、うぅぅぅうぅ……っっ!」
自分の中の薬の暴走衝動と、チビは最後の理性で戦っていた。もう、肉体も神経も限界をとうに超えているだろうに……それでも、残る全ての力で薬に抵抗していた。
だが、やがてその理性は、苦しみの涙が枯れ果てると同時に力尽きてしまった。
腕や脚のあらゆる骨が折れているとは到底思えない動きでチビは身軽に飛び跳ね、俺から距離をとる。
そして、ふと静かに立ち尽くす……瞳にはもう、光が無い。
何故かチビは曇り空を見上げ、心ここにあらず、といった風に粉雪を浴びる。
次に、自分の身体を見下ろして、紅に染まりきった両手も見る。まるで楽しそうに引き上がるその口元に、俺は今までにない恐怖を覚えた。
やがて地に伏した人間達、その肉塊と紅、最後に俺を見つめてきた。俺は、先ほど切られた右腕を止血しながら、その光無い瞳を睨む。
「冗談じゃねぇぞ……チビ……!」
本当は、チビを睨んでいるわけでも、憎んでいるわけでもないのに。俺の憎悪は、“俺”が生まれ今日まで生き続けてしまった罪、ただそれだけに向けられている。
もう、右腕の止血などしない。残り僅かな体力で……今の命の限界を超える。
左腕から拳にかけて、あらゆる力を集め溜めていく。精神を研ぎ澄まし、眼を閉じて、全ての音を聴き取る。
チビも直感でわかったのだろうか、次の一撃で決着がつくことが。途端に激しい風が、尽きない粉雪を吹き飛ばしていく微音。
「うらあああああああああああぁぁっっ!!」
壊すことしか出来ない、俺の闇の力で――――
「ぐあああああああああああああぁっっ!!」
光の力を持つお前を、救いたいっ!!
――――その『救い』が、お前の『死』だとしても……俺が、お前の全てを背負うから。
宙で激突する俺達、紅く染まる視界、俺の拳によって吹っ飛ばされていくチビの傷だらけの身体。
チビは紅をばら捲き、雪の上を転がって、最後は勢いよく壁に叩きつけられた。もう……動くことは、ない。
風が止んだ、音が死んだ――――静かに舞う粉雪が、憎しみと悲しみだけの俺達を包んでいた。