第三章『約束の想起、忘失の総記』(5)
確かに、俺達が動き出したのは同時で、チビは正面から向かってきた。わかっている、そこまでは見えたんだ。
っ、消えたっ!?
そう思った時には、下腹部に激痛が走っていた。殴られたらしい、と悟れたのはその衝撃で吹っ飛ばされている時。前屈みになったチビが右拳を突き出した体勢だったのが、見えたからだ。
反射的に受け身をとって地に片膝をつけて着地したが、またチビの姿を見失う……いや、目が追えないんだ、そのあまりの速度に。
「ど――」
『どこだ?』という無意識の言葉を、自分で遮った。右耳が、空気の唸る音を聞き取ったから。首をそちらに向けた時には、俺の二の腕に当たる寸前の横蹴りの脚。防御の構えを取る瞬間さえ無く、蹴り飛ばされて今度はビル壁に叩きつけられる。
左肩がコンクリ壁に埋もれる……折れてはいないようだが、確実に骨にヒビは入っただろう。横向きの体勢で壁に強打された為、こめかみ辺りから血が流れてくる。
全くチビのスピードについていけない。これが本当に子供……いや、人間業か? 化け物だらけの裏社会でだって、こんなレベルの敵には滅多に遭遇しねぇのに。
なら、相手が人間業を越えるのなら、俺も越えればいいだけのこと。言うのは簡単、だけどな。
身体能力のリミッターを解除させるあの唄を歌うには本来、全神経を集中させる必要がある。そんな時間は稼げそうにない。
宋兵衛を呼んで蝙蝠達に援護してもらえれば……?
いや、たとえ時間稼ぎに成功しても、確実にあいつの群れが犠牲になる。一匹なりとも死なせられねぇ……落とし前は自分でつけるしか、ない。
チビが苦しそうに叫ぶのを聞いて、すぐさま壁際から離れ、跳躍。直後、あのか細い脚からは考えられない重量の轟音で、俺が埋もれていた壁をチビは飛び蹴りで粉砕していた。
「くそっ、イチかバチか……!」
チビの攻撃をかわしながら歌う……それしかねえ。『覚醒の調べ』は蒼波継承歌の中でも難易度の高い旋律だ、音を間違えれば逆に脳を狂わせて自滅することだって有り得る……それでも。
このままじゃチビを救うどころか、俺が殺される。俺にはまだ、やらなきゃならねえことがあるのに。
『……我が名、は蒼波……音を統べし、者……っ』
チビが腕を振るう度に、強烈な突風が弾丸のように向かってくる。見えない風は回避し難く、俺を何度も地面に叩きつけた。
それでも必死に旋律に集中し、歌いながら避けるしかない。
『陽よ、汝が力を我に……貸し与えよっ。闇よ、汝が力、を、我が身に宿……せ……。眠りし力……今っ、解放を望むっ!』
脳に作用を及ぼす超音波の唄と、チビの攻撃をギリギリで急所から外すための動きで、汗が滴り息が上がって歌詞が途切れそうになる。
俺はまだ死ぬわけにはいかない、チビの命だって救いたい――――そのために、覚醒の力がどうしても必要なんだ……!
俺は最低の破壊者でいい、俺の運命は破滅でいい、だから一度……この一度だけでいいんだ、お前の護る力を貸してくれ――――翼あぁっ!!
『わ、れ……っ、覚醒……を、望む者なり――――!!』
俺にしか聞こえない、ソレはもう唄というより天への咆哮。けれど、その途端に攻撃が止まった……チビがこちらを見たまま動かなくなった。
暴れ狂うチビすら何かに気圧されている……それは俺の眼?
全ての神経、指先まで押し寄せていく熱と静かな興奮。人間が無意識に行う身体能力の制御、それが解かれたこの感覚。
成功した、らしい。『覚醒の調べ』が。
「うぅぅぅ……っ、ぐああああああぁあっ!」
しばらく睨み合ってから、チビが絶叫しながら突っ込んできた。たぶん、視界に映る全てのモノが破壊対象になってやがんだ……薬で混乱してんのか。
ヤツのステップが見える、その身体と同時に向かってくる疾風の音が聞こえる。……今度こそ、いける。
チビの拳が届く前に、鎖骨を狙って左ストレートをかます。腕のリーチが長い分俺が有利だと思っていたが、チビは吹っ飛ばされながら、渾身の突風を俺の鳩尾に喰らわせやがった。
着地と同時にチビが跳躍するのを確認、上空から降ってくる狂風と脚。その足目掛け、俺は右アッパーの要領で迎え撃つ。チビは宙へ弾き返され、俺は靴底を雪に滑らせながら後退。
俺から距離をとり、チビは両手を前へ突き出し、急に静かになる。開かれたその小さな両手に、降っていた粉雪が引き寄せられていく……風が集まり、渦巻いていく?
やがて、チビは両手で力強く“何か”を掴んだ。そして、両腕を振り上げてから俺に向かって遠距離から思いっきりその“何か”を打ち下ろす!
――――さっきの刃!?
間一髪で、その衝撃波らしき攻撃はかわせた。真が阿修羅で繰り出す技に似ている、見えない衝撃波……けど、威力が桁違いだしドコか違う。さっきの、男達を肉塊の山に変えたあの見えない刃。
粉雪のおかげで、チビが何を掴んでいるのかわかった。それは、その小さな身体と同じほどの巨刃――――言わば《風の大剣》。その柄にあたる部分を、小さな両手でしっかりと握っているように見えた。
本来なら『風』なんてモンは見えねぇんだろうが、今ならその刃の周囲を渦巻く雪で輪郭がわかる。
超音波を操れる俺が言うのもおかしな話だが、本当に、こんな事は“人間業じゃ有り得ない”。どんな麻薬だろうが、こんな効果は出ない。
……じゃあ、このチビは何モンだ? 戦い慣れてる、なんてレベルじゃねえぞ。一挙一動の全てが裏社会のプロ以上だなんて。
本気で『天使』――なんて冗談はやめろよ? 俺は神を信じてねぇ。
ちっ、ややこしいのは抜きだ。とにかく、わかったことは。
「それがお前の実力ってか……なら、俺の本気も見せてやる。それで俺とお前はイーブンらしい」
今、命の限界を越えなければ、俺はまた大切なモノを失うということだけ。