第三章『約束の想起、忘失の総記』(4)
「あれー? アハハハッ、このガキ全然動かなくなったなー、ンだよ死んだのかぁー?」
「おいおい、まだ殺しちゃまずいだろぉ。蒼波の目の前でトドメ刺すんだろお?」
聞こえる、聞き取れる、この裏路地の奥から。聞き覚えのある懐かしいかつての《家族》の音が……狂気に満ちた言葉達が。
「あー、でもコイツで遊ぶのも飽きたなー。なぁ、コレ、このガキで試してみねぇ?」
「それ、なんか新しい薬だろ? こんな死にかけのガキに使ってどーすんだよー」
「どんな反応するのか、実験になるんじゃねー?」
「キャハハハハハッ、それ最高! 注射器貸せ、俺が打つー!」
裏路地の行き止まりへ、奇声のような言葉が聞こえる方へ、何度も薄暗い路地を曲がって走る。嫌な汗が、止まらない。
やめろ、やめてくれ、そいつは俺とは関係無い! そのチビは――――!!
ようやく、息を乱しながらも裏路地の最奥まで辿り着いた。
倒れている小さな影の周りに、十人程度の男達。そいつらが俺に気付いて、汚い笑みを浮かべながらわざと左右に退いた。そしてもはや完全に手遅れの光景が、俺の眼に焼き付く。
うつ伏せになって力尽きたチビの身体。白かった服は泥と血で汚れ、ズタズタに切り裂かれて。
地に横たわる左腕はあの雪のような白さを失い、大きな内出血で紫に染まり、その近くに転がっている中身が空の注射器。
そして夥しい流血が顔の半分以上を支配し、涙と血の流れた跡だけ残して瞳はもう開かず、口から漏れる僅かな紅が雪を染めていた。
チビの周囲の穢れきった雪の色が、ここで一晩中行われていた暴行の惨たらしさを何より物語っている。
「てめぇら……っ! なんで俺を直接狙わない! なんで無関係のチビを襲った!? 俺を……俺を殺せばいいだろうがあぁぁっっ!!」
怒号は薄暗い路地に響く。憎い、卑劣な手でチビを傷つけたコイツらが。憎い、全ての諸悪の根源である俺自身がっ。
憎しみが、怒りが、俺の理性を侵していく。本来の俺が目覚める……そんな感覚。
「そんなに死にたいなら、俺らが殺してやるよおおおぉ!」
「最低の裏切り者があぁぁっ!!」
全員が麻薬中毒者なのか、焦点の合っていない眼で脚をふらつかせながら俺に襲い来る。
まだ微かに残っていた理性が俺の殺意を抑えながら、それでも拳を構えさせた。『まだ間に合うかもしれない、コイツらを気絶させてからチビを助ければ、まだ間に合うかもしれない』……そんな愚かな希望を言い聞かせて。
曲がった鉄パイプやサバイバルナイフ、チビを傷つけたであろうその血糊塗れの凶器で、俺に飛びかかってくる。
俺の最後の理性、どうか消えないでくれ。コイツらは俺の昔の《家族》なんだ……元はと言えば全て俺のせいなんだ……たとえどんな風になってしまっても、壊したくない、殺したくない……っ!
その時、今まで一度も感じたことのない、音を聞いた。直感で表すなら、そう……風の悲鳴。
瞬間、何が起きたのか、今まで数多の惨状を見てきた俺でさえわからなかったんだ。――――俺に飛びかかってきた男達の、“上半身が消えた”。
司令塔の脳を失った下半身は、勢いよく腰部の切り口から血を噴き出しながら転がっていく。消えた胴体はどこへいったのか……そう思った直後、粉雪ではない紅い雨が降ってきて上空を見上げる。
肉体を吹っ飛ばすくらいの強風が何故か上空だけに巻き起こり、その男達であったモノが下半身同様、血をばら撒いていた。
冷たく白い雪と、生温かく紅い血が、俺に降り注ぐ。その奇妙な感覚と光景に、一時呆然としていた。
しかしそれも数秒。やがて醜い音を立てて上半身も落ちてくる。そのあまりに無惨な死骸を俺とまだ残っていたヤツらが見下ろし、それからゆっくりと顔を上げた。行き止まりの最奥に一人だけ、立っている影。
「チ……ビ……?」
『良かった、生きていた』とすぐに思えなかった。今の惨劇を起こしたのがあのチビだと、俺は直感で何故かわかってしまったから。
立ち上がって俯いたチビは、右腕だけを横に伸ばしていた。
「チビ、お前――――」
「う、あ…………うあああああああああっっ!!」
突然、チビは自分の両腕を抱いてうずくまる。苦しみ、身悶えるようで、何かを抑えているようで。どうしたんだ、何が起きているんだっ?
「あ、あのガキをとっとと殺せ! もう用はねえっ!」
「おうっ!」
「やめろっ、そいつに手を出すな!!」
咄嗟に叫んだその言葉は、たぶんチビを心配した言葉じゃなかった。むしろ、逆。襲いかかる男達へ。本能が警告してるんだ、『あのチビは危険だ』と。
突然チビは空を仰ぎ、両手を頭上に掲げ、絶叫する。瞬間、理性は『チビを助けなければ』と思うのに、本能に『後ろに下がれ』と命令され、俺の身体はバックステップでチビからより距離を取っていた。
見えない何かが、まだ生きている男達の四肢を切り落としていく。また聞こえた、風の悲鳴。どれが誰の手足だったかわからないほど、バラバラに切り刻まれた紅い肉塊。路地に積もった雪は、もうほとんど紅色に染まっていた。
俺とチビだけになった……鉄と内臓の臭いが充満し、静寂も満ちていく。俺は動けなかった。言葉では形容しがたいこの空気のために。
チビから放たれる――――圧倒的な殺意、静かすぎる憎悪、驚異的な狂気、荒々しすぎる痛傷。
「落ち着けチビ! 俺だ、遼平だ。お前を巻き込んで本当に悪かったっ、でももう大丈夫だ、だから――」
左腕を伸ばそうとした瞬間、強烈な風が吹き荒れて俺の手は弾かれる。まるで、チビが俺を拒絶したかのように。
さっきからこの不自然な風……まさか、あのチビが?
原因はわからない。けど、このままあのチビを放置したら裏路地どころか街が危なくなることはわかる。表社会の人間にまで被害を出すわけにはいかない。俺が……ここで止めなければ。
なぁ、翼――――。
「なぁ翼、俺は……」
「あぁああああっ、くうぅあああああああああああああぁ!!」
獣の咆哮のようで、でもそれはチビが苦しんでいる悲鳴。助けたい、救いたい、護りたい……でも、俺の手は……!
「翼、俺は、やっぱり壊すことしか出来ねぇのか……? 俺の破壊者としての《定め》は、変わらないのか? 誰かを護れる方法が、俺にはわかんねぇよ……っ、俺はやっぱり天性の破壊者なのか!?」
答えてくれ……答えてくれよ翼! 俺はあのチビを壊さなきゃいけないのか!? チビを護ることは、俺には出来ないのかよっ!
アイツの放つ殺気は、この俺に冷や汗をかかせるほど強烈なもの。ただの行き倒れのチビのはずなのに……この圧倒される異様なオーラは何だ?
……でも、たとえどれほどの力を持っていようとも、あのチビはここで食い止める。全ての責任は、俺にあるから。
それに、まだチビを壊さなきゃいけないと決まったわけじゃない。この俺が敵わなかった相手は、『裏東京最強』と呼ばれたあの親友一人だけ。
俺の全力を……蒼波の能力をもってすれば、チビを止めて救えるかもしれない。
「があ……っ、があああああぁぁぁあああ!!」
「来い――――純也!」
俺の浅はかで切なる希望の光は、すぐに絶望の闇へと変貌することになる。
二人で同時に地を蹴った音が、始まりの合図――――俺の今までの生涯で最も苛烈で悲痛な、死闘のゴングだった。