第三章『約束の想起、忘失の総記』(3)
その夜、俺はなかなか寝付けなかった。
雪は勢力を増し、どんどん降り積もっていく。それが寝室の窓から見えて、心の妙な胸騒ぎが治まらない。
まさかあのチビ、本当にずっとあの場所に居座ってないよな? こんな雪の中で……。
考えるな、あのチビは俺とは関係ない、翼とも関係ない。そうだ、赤の他人なんだ。
瞼の裏、鼓膜の奥に焼き付いたかつての親友の笑顔と声が、蘇ってくる。やめてくれ、翼、俺に笑いかけないでくれ――――俺はお前を殺したんだぞ?
瞳を閉じ、両手で耳を塞いで、過去の幻影に怯えるように身を丸めてベッドに横たわる。現と幻の狭間で苦しみながら、いつしか俺の意識は混濁していった。
人間の喧噪で目を覚ます、それが俺の朝。
まず先に聴覚が働き、次に目を開けて朝陽を視覚で確認する。昨夜は、どこから夢だったのだろう。
窓から外を見渡してみると、灰色の街は白の世界に。僅かだが、まだ粉雪が舞っているように見える。一晩でよくこれだけ積もったもんだな。
これじゃ車道も凍ってるだろう、ワイバーンにチェーンを巻くのは面倒だ。それに何より、外は寒そうだし。
「休むか」
即決。
どうせあんな変テコ事務所、依頼なんて滅多に来ねぇんだ、毎日通う必要なんか無い。でも『休む』とか連絡入れるとあの部長が理由だの何だのってうるせーから、無断欠勤だ。後で適当にはぐらかしておく。
せっかく休みにしたんだから、有意義に過ごすべきだよな。……俺の場合、もちろん二度寝。ベッドに再び背中からダイヴ。
だが、いざ眠りにつこうとしたその瞬間、軽い痛みを覚えた。
「……腹、減った……」
胃が痛みを生んで空腹を訴えてきやがる。元々一般人の中じゃあ“大食い”の方に分類される俺だ、食欲が頭を支配しだすと抑えきれねぇ。
猫背になりながらも立ち上がり、リビングへの扉を開けてふらふらと冷蔵庫に直行。ところが、まさに拍手喝采モノで、中には残り少ない調味料くらいしかなかった。
……食料は?
俺ほとんど料理出来ねぇから滅多に食材とか買わねえし……そういや昨晩はコンビニ弁当だったっけ……。
とかなんとか考えてる間にも、空腹の悲鳴がうるさい。仕方なく、俺は渋々着替え、ロングジャケットを着込んで近所のコンビニに向かうことにした。
結構歩いただろう。俺は人気の少ない街路を、ポケットに両手を突っ込みながら進む――――コンビニとは逆の方向へ。
ふと、丁度良さげな路地裏を見つけ、そこへ入り込んでみる。表からだいぶ離れた所で。
「……こんな場所でいいかよ? ストーカーさんよ」
振り返ってみれば、どこか妙な雰囲気のする小柄な男が猫背で立っていた。下卑た笑みを顔に貼り付けて。
この俺を、しかも雪の積もった日に尾行するなんざ、『気付いてください』と主張してるようなもんだ。俺の正体を知ってるから尾行する、それなら、俺の能力も知ってるはず。ただの追い剥ぎや通り魔じゃなければ……俺の聴覚の力を知っているはずだ。
「クックククク……久しぶりになるなあ、蒼波……。いいコトを教えてやりに来たんだよお、お前の顔も見たくてなあぁ……」
その声は、聞き覚えがある。俺は人間を区別するのに“顔”ではなく“声”で覚えるから、知り合いなんだろうが……誰だったか思い出せない。にしても、コイツの口調、なんかムカつく。
「悪ぃけどよ、お前が誰だか覚えてないんだよなー。誰だかわからねぇヤツに“いいコト”とか教えられてもな」
「俺が誰かなんて、どうせお前にはどうでもいいことなんだろお? なぁ、昔の《家族》なんかよお……ハハッ」
「お前、スカイの……!?」
ようやく思い出せた、かつて数百人近くいたメンバーの一人。けど、コイツはこんな気味の悪い声を出すヤツじゃなかったはずだ。
だらしなく開いた口からは唾液が垂れて、瞳孔は濁って。この表情はまさか……。
「てめぇ……薬に手ぇ出しやがったな? スカイでそんなモン広めんじゃねーぞっ!」
「はぁ? 裏切り者が何言ってんだあ? それになぁ、俺はもうスカイじゃねえんだよ……翼さんのいないスカイなんて、もう終わりなんだよぉ……終わりだ、もう裏社会に秩序なんて二度と望めない……もう……何もかもどうでもよくなったんだよおおぉぉ!」
安堵と呵責は、同時に俺の心に訪れる。
コイツはもうスカイじゃない、それなら麻薬がスカイに広まることもない。けど、コイツをこんな状態にさせた原因は、翼が死んだこと……全て俺のせいだ。
浅はかだった。
仇である俺を憎むことで生き抜いてくれると思っていたのに、自暴自棄に走るヤツがいることを、予測していなかった俺はどこまでバカなんだ。
翼が死んでから、スカイはほぼ半壊したと聞いている。中枢幹部の翼が死に、同じく戦力であった俺が消え、ガラの悪いヤツらや翼を崇拝していた輩がスカイを抜けたらしい。
それでも、俺は時雨を、リーダーを……どこにも行く宛の無いメンバー達《家族》を護らなくてはいけない。どんなカタチであれ、翼の願いを叶えるために。
「っと、俺が蒼波に伝えにきたコトはそんなことじゃない。ずっとお前を捜してたんだよぉ、卑怯な手で翼さんを殺したお前に、最高の復讐をするためになあぁ。やっとお前を見つけ、そして俺達は最高に愉快な仕返しを思いついたんだ。クククッ、何だと思うぅ?」
嫌な予感、それは直感に近かった。
俺に『仕返しをする』と言っておきながら、コイツには戦意が全く感じられない。俺を襲う気はない。なら、『最高の復讐』は何だ……?
「昨日のあのガキ、覚えてるかぁ? 随分と楽しそうだったよなあ、“邪鬼”ともあろう無情の裏切り者が、あんなガキ一人に。なあ蒼波……いや、鬼さんよぉ……あのガキが滅茶苦茶に壊れたら、お前はどう思うのかなあ?」
「な……っ、あのチビに何かしやがったのか!? 言えっ、アイツに何をしたっ、アイツは何処にいるっ!?」
一気に氷水をかけられたように心臓が冷え、自分でも気が付いた時にはその男の胸倉を掴み上げていた。その時は、もう頭に血が上った状態で。
「あのガキが心配かあ? まだ殺してねえよぉ? ボロボロに壊して、最期はお前の目の前で見世物にしながら殺すって決めたからなあぁぁ。クハハハハッ、あのガキ、『蒼波遼平に会わせてやる』って言ったら笑顔でついてきやがった。蹴り倒しても殴っても、何されたって血を吐いて泣きながら何度も『りょう、りょう』ってバカの一つ覚えみたいにお前の名を呼んでたっけなあぁ。最高だ、最高にウケたよぉぉっ」
コイツ……ッ!!
どす黒く暗い殺意が湧き上がってくるのを、必死に抑える。コイツがこうなったのは、俺に仕返しをしようと思ったのは、全て俺のせいだ。だから、俺がコイツを殺すのは理不尽なんだ。
けど、なんであのチビが巻き込まれなきゃならない!?
俺が触れてしまったからなのか……? 俺が、たった一時でも関わってしまったからなのか? 昨日のその光景を見て、コイツらはチビを袋叩きにしやがったのかっ?
他人を疑う心も、大人に抵抗する力も持たない、あんなチビを……!
「そうだ、その顔だよ蒼波あぁ……! お前の苦しむ顔が見たかったんだぁ……焦り、怒り、本気で苦痛に歪むお前の顔が見たかったんだよおぉ! ハハハハハッ、もっとも、あのガキを見たらもっと苦しむんだろうなぁ? あんなボロ雑巾みたいにされたガキを見たらさあ!」
「てめぇ……っ! チビは何処だ!!」
なぁ翼、俺は――――。
「いいぜぇ、もちろん教えてやるよ。お前とガキが昨日居た、あの裏路地の奥、行き止まりのトコだ。……でも、俺の仲間達はあんまり気が長くないからなあ……あのガキ、まだ生きてるといいけどなあぁ?」
「畜生がッッ!!」
右拳でそいつの頬を殴り飛ばし、俺は駆け出していた。地面に倒れ込んだ男の、狂った笑い声がいつまでも脳内に響く。
視界を妨げる粉雪が邪魔で、俺の吐く白い息すらも目障りで。
昨日あのガキが倒れていた場所目指して、ひたすら全力疾走をする。雪で滑って転びそうになる体勢を、何度も繰り返して。無様だろうが滑稽だろうが、関係無い。
ただ、ただ俺は。
『また、会える? 僕、ココにいたら、またりょうに会える?』
何故か俺に懐いて、ずっとその場所で俺を待ってたチビ。
『それまでに僕自身のこと、もっと思い出しておくから! そうしたら、もっともっと、りょうとお話しできるよねっ』
俺と再び会って話すことを、生きる支えにして。その顔はどこまでも嬉しそうで。
『またね、りょう!』
初対面の俺を信じきって、穢れない笑顔で見送っていた。本当なら俺ももう一度会いたかった、翼の面影を持つ優しく温かい笑顔。
なぁ翼、俺は壊したくなかっただけなんだ。それなのに――――。
「畜生、畜生っ、畜生っ!!」
息を切らしながら叫んだその言葉は、誰に向けられたものだったのか。俺の嘘に騙されたチビか、俺に敵わないことを知ってわざと弱者を狙ったヤツらか、それとも……俺自身にか。
なぁ翼、答えてくれ、俺はドコで間違ったんだ?
……本当は、わかってる。ずっと、わかってた。
あの組織とお前が契約を成立させた、あの時点なんだ。お前に今更訊くまでもない。
俺があの時、せめて自分で死んでいれば、そこで全ては解決したんだ。誰も傷つかず、死なずに済んだんだ。
優しいお前は、泣いただろう。甘いお前は、俺の死体に涙を零してくれただろう。けど、それが最善の結末だったはずなんだ。
なのに。
俺が今、ココに居る。お前はもう、ココに居ない。俺がお前を、殺したから。
そして、俺が生き延びたことで、今まさに死にかけているチビがいる。全ては俺のせいで。全て、俺のせいで。
なぁ翼、俺はまた、失うのか? 壊してしまうのか?
それが俺の、破壊者の《定め》だとでも言うのか。