第三章『約束の想起、忘失の総記』(2)
「そうは……りょうへい……」
澄んだライトブルーの瞳は見開かれて、俺の顔をその眼に焼き付けるようにじっと見上げてくる。今までいろんな宝石を仕事で見てきたが、これほどまでに美しく澄み切った青はなかったと思う。
「俺の名前なんてどうでもいいだろうが。……それでお前、家は思い出せるのか? 家族は?」
「イエ……カゾク……? うぅ……ん、全然わからない」
こりゃ重症だな……どうするんだよ俺。『先生』っつー言葉も、何のヒントにもなってねぇし。せめてそいつの名前がわかればなんとかなりそうなもんだが。
「りょう、どうしたの、りょう? 何か困ってるの?」
「お前のことで困ってんだっつの! ……って、ちょっと待て。誰が『りょう』だと?」
まだ俺に身体を支えられているチビは、俺の顔を心配そうに見上げてきやがる。なんで行き倒れのガキに心配されなきゃいけねーんだよ、お前のことで考え事してたんだろうが。
しかもなんだ、『りょう』って。
「えっと、りょうは『りょうへい』っていうお名前だから、『りょう』なんだよ。そうだよね?」
いや、『そうだよね?』って首傾げてんじゃねーよ。勝手に初対面で馴れ馴れしく呼びやがって……いつもならこんな行き倒れ、放っておくのに。
なんでコイツを無視できない? なんで俺は……。
「りょう、ごめんねりょう、僕が困らせちゃったの? そんな怖い顔しないで?」
「あ? 怖い顔なんてしてねーよ」
俺って普段から『目つき悪い』とか言われてるけどな……。しょうがねぇだろ、昔からこういう顔だったんだから。
「じゃあ、困ってないんだね? 良かった! りょうは困ってないんだね!」
こんな北風寒く暗い裏路地で、チビの笑顔はまるで太陽みてぇで。自分はもうほとんど体温が無いくせに、他人のこと心配して、その嬉しそうな顔は温かくて。純粋で穢れない、その優しげな笑みは。
あぁ……そうか。
限りなく、翼に似ているんだ。俺が殺した唯一無二の親友、白鷹翼に。
心の奥の傷が、疼きだす。ずっと胸につかえていた想いは、コレだったんだ。このチビを見ていると翼を思い出して、アイツを殺した俺の罪も蘇る。
もう心の整理はつけたつもりだったのに、まだ俺はこんなに引きずってたのか。当たり前……だよな、親友を……《家族》を殺しておいて、そんな傷痕がすぐに癒えるものか。この深い傷は一生、俺の胸の奥で血を流し続けるんだろう。
「――――う、ねぇりょう、どうしたの? どこか痛いの?」
「……なんでも、ねぇよ」
この俺が人前で悲痛な表情をしたのだと思うと自分で驚く。チビは、他人の感情に敏感らしい。
ダメだ、考えれば考えるほど、チビの顔を直視出来なくなる。コイツは別人だ、翼は俺が殺したんだ……でも……!
……俺の中で、一つの結論が出た。
「とりあえず、名前が思い出せたんだから交番なり役所なりに行ってみろ。保護してもらえるだろ」
「コウバン……? りょうは?」
「俺は……まぁ色々とわけがあって交番とかに行けねぇ身分なんだよ。表社会の大人に尋ねれば、場所くらいは教えてくれる」
こんな記憶喪失のガキを連れて行ったら、絶対に身分証明だの何だのとうるさくなる。俺は裏社会の人間だ、バレれば即刻逮捕もいいとこだろう。下手すりゃ、巻き添えでこのチビすら保護してもらえないかもしれない。
「りょうとはお別れなの? 嫌だよ、独りは嫌だよ……」
「独りにはならねぇって。むしろ、裏路地のこんな所に居たほうが危ないんだよ。早く表社会の大人に保護してもらえ、そうすれば――――」
その時、やっと気付いた。チビが俺の上着にしがみついて、今にも泣きそうになってるのを。親に見捨てられたくなくて、必死になってる子供のような……あの頃の俺のような。俺の親は、こんな風に俺を見下ろして実の子供を蹴飛ばしていきやがったんだな。
違う、違うんだチビ、俺はあんな大人達とは違う。決して、お前のことを嫌ってるわけでも憎んでるわけでもねぇんだ。
ただ俺は、お前のことを思って…………なんて、どこまで自分勝手でお粗末な言い訳だよ。
「りょうがいい、僕はりょうがいいよ……。りょうは温かくて、柔らかくて……よくわかんないけど、懐かしい……」
いや、待てよオイ。
『懐かしい』って……まぁ、俺もなんかそんな気がしてたが、それはお前が翼に似ているからで。なんでお前が俺に懐くんだよ……俺は――。
「ったく、勝手に言ってろ。悪いが、俺はもう帰るからな。好きな所に行けよ」
チビの身体を壁に寄りかからせ、俺は立ち上がる。ダメだ、これ以上俺がチビの傍にいるのは……早くしないと……。
ワイバーンのハンドルへ手をかけようとした時。
「待って、りょうっ!」
もう立つ体力も残っていなかっただろうに、膝をガクガクと震えさせながら、それでもチビは俺の上着の裾を掴んでいた。
「……なんだよ、俺は帰るって言っただろ。お前も凍死とか餓死しない内にどっか行けよ」
「また、会える? 僕、ココにいたら、またりょうに会える?」
寂しそうで、それでも期待を込めた瞳。まるで無知な小動物。
「あぁ……そうだな、生きてたら会えるかもな」
「じゃあ、それまでに僕自身のこと、もっと思い出しておくから! そうしたら、もっともっと、りょうとお話しできるよねっ」
無意識の内に、俺の手がチビの頭に伸びていた。白い髪を、ゆっくりと撫でてやる。チビの笑顔に、自然と俺の眼も優しくなってしまうのを感じた。
「そうだな……頑張れよ、チビ。お前なら記憶もすぐに戻るだろ」
「うんっ、またね、りょう!」
さっきまでの疲労はどこへいったのか、満面の笑みでチビは手を振って俺を見送っていた。気配でわかる、俺が見えなくなるまでずっと、だ。
……俺は、嘘をついた。
もう二度と、俺はアイツに会う気はない。俺と関わりをもたない方がいいんだ、あのチビは。
俺は《破壊者》だ、これ以上関わってしまったら、きっとアイツは壊れてしまう。近づきすぎれば、翼の時のように俺が壊してしまうかもしれない。
壊したくない、壊れてほしくないんだ、お前には。翼に似た、お前には。もう、あの笑顔を壊したくない――。
許してくれ、お前に何もしてやれない俺を許してくれ。お前の無事を祈ることしか出来ない俺を、許してくれ。
ふと、だいぶ裏路地を進んだところでまた視線を感じて、振り返る。だが、人影も無ければ妙な音もしなかった。
変な気配も感じないし、俺の気のせいだろう。
その日、俺の前に天使が現れた。
“天からの御使い”……天国の翼からの、使者だったのかもしれない。
だとすれば、何故俺の前に現れたのか。俺に、何を伝えたかったのか。
しかし闇の存在である俺に触れてしまった天使は、その羽を毟り取られ、空へ帰る術を失う。
俺の願いも虚しく、全てはあの瞬間から、手遅れだったんだ――――。