第二章『交錯する死』(3)
時間の流れが、とても遅くなったような錯覚に陥る。
旧式の蛍光灯が照らす病室は明るくて、一人分だけの影を作って。ベッドから上半身だけ起こして壁にもたれかかる純也が、憂鬱そうに自分の腕に刺さった点滴の先を見上げていた。
獅子彦の病院は廃ビルの地下にあるから、もちろん窓なんて無い。だから、時間を確認する術は壁に掛かった丸時計だけ。何度も時計で時間を確認していると、一分一分がとても長く感じるから不思議だ。
もう外は完全に陽が暮れたであろう、午後七時。することなんて無いが、鎮静剤の効果で散々昼に眠ってしまった為、なかなか寝付くことが出来ない。
獅子彦だろうか、病室のドアを優しくノックする音が不意に響いた。少し退屈だった純也は、この暇な時間を潰してくれることに喜んで「どうぞ」と返事を。
「あ……」
入室してきたのは、思いも寄らなかった人物。
室内の様子を窺うようにこっそりと入ってきて、苦笑の表情で純也に小さく手を振る真だった。
そのまま純也のベッド前まで歩いてきて、何か声をかけようとしているようなのだが、言葉が見つからないらしい。二人の間に、気まずい沈黙。
「…………」
「…………」
意識はハッキリとしていなかったが、純也は今日、遼平がここで叫んでいた言葉を覚えている。全て、隠していたことがバレたこと。
真も、押し黙っているのは先刻の遼平の叫びがまだ耳に強く残っているから。切り出す言葉が、喉から出てこない。
「ごめん」
「ごめん」
しかしその言葉は、丁度二人同時で。それに双方驚き、相手の眼を見て今度は。
「なんで真君が謝るの?」
「どうして純也が謝ってるん?」
やっぱり、同時だった。しばらくお互いで間の抜けた顔をし合って、それから、小さく噴き出して笑う。
「真君、変なの。怒ってるかと思ったのに」
「そりゃこっちの台詞や。純也に許してもらえんかったらどないしようと思ってたんに」
笑いながら、真は隣のベッドに腰掛け、茶色い紙袋を取り出す。それを手渡された純也が中を覗くと、様々な駄菓子がたくさん詰められていた。
「炎在先生に、甘い物は構わないって聞いたんでな、見舞いに持ってきた。こんなモンで悪いけど……純也、好きやろ?」
「うんっ、本当にもらっていいのっ? ありがとう真君!」
菓子で顔を綻ばせ喜ぶ純也が、とても幼くあどけない子供に見える。その穢れない笑顔に、いつもこちらも嬉しい気持ちになっていたのに。
今は、違う。
純也の笑顔を見て、少年が幸せなのだと思って、真自身も嬉しい気分だったのに、それはただの独り善がりにすぎなくて。
この少年が背負う影を知ってしまった今、男は素直に嬉しくなれない。純也が心の中で独り、泣いているのではないかと思うと。
「わざわざ来てくれて、ありがとう。でもなんで……」
「……なんで、ワイが謝りに来たのか、って?」
不思議そうな顔で頷く純也に、真は優しく苦笑する。太腿に肘を置き、両手の指を組んでそれを見つめるように俯いた。
「知らなかったとはいえ、純也を危ない場所に連れて行った挙げ句、自分勝手な我が儘言ってしもうたから。ごめんな……」
「僕が悪かったんだよっ、麻薬中毒者だってこと、隠してたから……。それに、真君はワガママなんて言ってないしっ」
詫びるように深く頭を下げる真の手に触れる、純也の小さな指達。真に非は無いのだと、それを伝えようとして少年は何度も必死に首を横に振り続ける。
「でもワイ、思わず遼平に叫んどった。『なんで今までそれを黙ってた』って。そんなこと言う権利、あらへんのに。……ワイだって、純也に隠し事してたよな。純也が人殺しを憎むのを知ってて、ワイはあんたにだけ自分の過去を言わなかった。……言えなかったんや、純也に嫌われると思ったら。なのに、こんな時だけ…………ワイは卑怯な人間や。純也を傷つけたんやないかと……」
組んだ指が震えるほど力を込めて、真は顔を上げようとはしない。けれど純也が気にかけていたのは、そんなことではなかったのだ。
彼の心が傷ついたのだとしたら、それは。
「真君は……僕のこと嫌いになってないの?」
その言葉に、男は焦ってやっと顔を上げた。少年の声が、泣きそうに震えていたから。純也と眼が合うと、やはりその青い瞳は必死に涙を堪えていた。
「まさか! なんで、純也のこと嫌いになるん?」
「だって……僕、麻薬中毒者だよ? いつ暴れ出すかわからないんだよっ? もう……みんな、僕のこと……嫌いになったと思って……っ」
膝の上の毛布をぎゅっと握って、少年のその手に雫が落ちていく。小さな肩を震わせて嗚咽の声を堪えるその姿は、あまりに痛々しくて。愛おしくて。
「大丈夫、誰も純也のこと嫌いになんかなってない。第一、中毒になってしまったのだって不可抗力やんか。それにあんたは、ワイの過去を知っても、それでも助けてくれた。嫌わなかった。そんな純也を、どうして嫌いになれる?」
「……ありがとう……」
小さく、本当に弱々しく微かだったが、それでも純也は穏やかな表情になってくれた。
殺人鬼だと知っても、この少年は男を助けてくれたのだ。あの時の恩を決して忘れまいと、真は誓っていた。必ず純也を護っていこうと決めた……けれど。
「……なァ純也、一つだけエエか? あの《約束》のこと……教えてくれへんか?」
「遼との、だね? ……僕が暴れた後、頼んだんだ。僕の暴走で、もう二度と被害者を出さないために、『僕を殺して』って」
「なんで……っ、もっと他にも方法はあるやろ!?」
身を乗り出して、男は膝を叩く。その怒りが優しさだとわかっているから、純也は真へ、温かな苦笑を向ける。
「そうだね……暴走する前に僕が廃人になって死ぬ、とかかな」
「……っ!!」
純也がとても才知ある少年だと知っているから、自分よりも聡悟であるとわかっているから。真に、純也が出した結論以上の答えが出せるわけがない。……《死》しか、答えがない。
その寂しい微笑に、男は、純也の口から改めて酷な答えを言わせてしまったことを後悔する。けれど、どんなに気が引けてもまだ訊かなければいけないことが彼にはあった。
「じゃあ……どうして遼平なん? 初めて会うた人やから?」
「そうだね……初めて出会った、温かくて優しい人。僕を殺せる人だから。遼なら僕を殺してくれる……僕を、救ってくれる」
「そんなん、“救い”なんかやない……っ! もし本当に遼平が純也を殺したら、ワイは二度とあいつを許すことが出来んっ」
『俺が純也を殺す』と言った遼平の瞳は、本気の《鬼》の眼だった。暴走した純也がどれほど強くなるのかはわからないが、あの遼平ならきっとその上をいく。……そして『裏切り者』の異名を持つ彼なら、仲間をも殺せるのだろう。
そこにどんな理由があったとしても、仲間を殺されたら、真は。
「真君、お願い……どうか、遼を責めないで……。これは僕が無理矢理頼んだことなんだ。遼は嫌々引き受けてくれただけなんだよっ、本当はすごく優しい人なのに……優しい人だから、僕を救う為にあんな酷い約束にも頷いてくれたの……。だから遼を責めないで、遼は何にも悪くないんだっ」
命を大切にする純也が、それでも頼んだ殺人の願い。その対象は自分自身で、頼んだ相手は最も慕っている男。
そんな懇願する瞳で見つめられては、真は頷くしかない。少年は己の死よりも、その後の男を心配していて。自分の悲運な結末よりも、大切な人の幸運な未来を願う純也の想いに背くことなんか、出来ない。
「……じゃあ純也、ワイとも約束せんか。ワイは遼平を責めへんから……今回、純也は大人しくしとること」
「えっ、僕、非番!?」
いきなり出された条件に、純也は納得出来ない。あんなに大きな依頼が来たのに、ただでさえ中野区支部は人数が少ないのに、自分が非番だなんて想定外だったのだ。
「社員の依頼内容への適性を見て派遣の判断するんも、部長の役目なんよ。今回、純也は明らかに不適だとワイが判断したから、あんたは休みや」
「でっ、でもルインとか来るんじゃないの!? 今の僕だって少しは戦力に……っ」
「ダーメー。今回の依頼の期間は、純也はココに入院して安静にしとること。ちゃんと大人しくしとるように、炎在先生に監視しててもらうからな。……子供は、大人の言うこと聞くもんや」
「僕はもう子供じゃないよっ」
「はいはい、じゃあ大人しくできるな〜」
丸め込まれるように言われ、頭を撫でられ、それが自分への気遣いだとわかるから、純也は思う。
真は、いつもこうだ。
純也に対して怒鳴り散らすことはなくて、拒む時も諭すように丁寧に笑顔でいて、時に誰より自分に優しくしてくれるのがわかるから、逆に不安になってしまう。
――――自分はみんなと違うのか、と。
みんなと同じでありたいから。『仲間』だと認めてほしいから。自分だけ特別扱いされるのは、なんだか心が暗くなって哀しくて。
「ねぇ真君……遼と僕は、何が違うの?」
「へ?」
いきなりの純也の暗い声。その問いは今朝、遼平が事務所で叫んでいたことだ。そして、その答えは同僚全員同じだった。
「そんなん、全部やろ」
「全部……? だから、真君は僕を特別扱いするの? だから、僕は認めてもらえないの……?」
縋るような表情で、純也は問いを繰り返す。いきなり上半身を乗り出して迫ってきた少年に、真は少し狼狽えた。
「え、なんかワイ、純也を特別扱いしたか? 何を認めるって?」
「真君は、遼にはちゃんと怒るし、厳しいことも言うよね? それは遼を『仲間』だって認めてるからだよね? 僕は弱いから、まだみんなの仲間にはなれないの……っ?」
そこまで言われて、真はようやく気付く。純也に大きな誤解をされていたことに。
「……純也、それは『特別扱い』とは言わないんよ。ワイなりの遼平への態度があって、純也への姿勢がある。それは澪斗や希紗へも、みんなバラバラや。みんな性格が違うから、誰一人として同じ扱いなんてない。みんな個性があって凸凹やから、人は一緒でいられる……組み合わさって『仲間』であれる。遼平も、純也も、確実に大切なワイの仲間なんよ」
忘れていた。純也が誰よりも利発でありながら、年相応に繊細であることを。
どんなに賢くても、教えられなければわからないことがあって、それを学んで子供は成長する。そんな当たり前のことを、真は改めて気付かされた。
「まァ簡単に説明するとやな、遼平は言葉で言っても理解出来ひんやろ? せやから身体に覚え込ませるしかない。純也は、一度言えばちゃんとわかるやん。……もしかして純也、ワイのハリセンとか澪斗の銃弾とか喰らいたいんか?」
「あ、はははは……それはちょっと嫌かも。痛そうだし」
「遼平は野獣やから、アメとムチで調教せな」と冗談を言う真に、「真君、アメをあげたこと無いじゃん」と笑う純也。きっと遼平本人に聞かれたら怒られるに違いない。
「……本当にありがとう、真君。僕、みんなの仲間でいられて嬉しかったよ」
「何言っとんのや、今までもこれからも、ずっと純也は仲間やろ。これからもずっと、な」
それから、他愛もないことを二人で笑いながら喋っていた。純也が時計を気にすることも忘れるくらい、楽しく。真は笑顔で話し続けた。
少年が、幸せそうな微笑みで眠りにつけるまで。