くらやみの影子さん
「影子さんはね、学校の物陰のどこかにいて、通りかかった子を引きずりこんじゃうんだって」
放課後になって、夕日が差してきた教室の中で――
クラスに残っていた女の子は、薄く笑ってそんなことを言ってきた。
「……ただの学校の怪談だろ。なんでそんなに楽しそうなんだよ」
というか、それってトイレの花子さんのパクりじゃねえか。
そんなことを考えながら、俺はそのその女の子に向かって、仏頂面で応えていた。
「えー、だってこういうの、おもしろくない?」
「おもしろくねえよ。ひとっつも」
まったく、女子というのはなんでこう、変な噂話が好きな生き物なんだろうか。
ランドセルにひょいひょいと荷物を詰め込んで、もう家に帰りたいなと俺は思った。もうひとりのクラスの女の子と一緒に日直だったのだが、その子が職員室からここに帰ってくるまでは、俺も帰れないのだ。
「学校に物陰なんて、腐るほどあるだろ。そんなののどこかとか、すごい適当じゃねーか」
まったく、影子さんだかアゲ子さんだか知らないが、妙なことを考える物好きもいたものだと思う。
そんなの、こんな風に待ち時間を潰すだけの、学校の怪談のひとつに過ぎないだろうに。そう言うと、女の子はケラケラ笑って言ってきた。
「そうだよねー。学校なんて物陰だらけだよ。影子さんもいたい放題だよね」
例えば、そこ――とか、と。
そう言って、彼女は、ランドセルを入れる棚を指差した。
「ああいうところから、にゅ――っと手が出てきたりしたら、どうかしらね。怖いよね」
「……脅かすなよ」
不覚にもちょっとゾッとしてしまって、俺は棚からゆっくりと視線を外した。幽霊の正体見たり、枯れ尾花――ではないけれど、棚に残っていた荷物が差し込む夕日のせいで影を作り出していて、その薄い暗闇から何秒か、目が話せなくなってしまっていた。
そこから細くて白い手が出てきたら、どうしよう――なんて。
そんなことを考えてしまうから、怪談は苦手だ。
いや、別に怖いわけじゃないけれど、うん、なんだ。やっぱり苦手だ。そういうことだ。
「なーんだ。やっぱり怖いんじゃん」
「怖くなんてないさ」
お化けなんて嘘だ。カラカラと笑ってくる女の子に対してそう言って、俺はぷいとそっぽを向いた。
……そっぽを向いた先で、またしても教卓の影が目に入ってしまって、こっそりとさらに顔を別の方に向けたなんてことは、ない。断じてない。
さっき自分で言ったじゃないか。学校なんて物陰だらけだ。
だからそんなのは、不安が生んだ幻だ。いないものを『いる』ように感じてしまって、ひとりで勝手に怖がっているだけなのだ。
そんなのは、いないのと一緒じゃないか。そう言うと、女の子は首を傾げて、楽しそうに言ってきた。
長い黒髪が揺れる。
「そーかなあ。ものすごく怖がってるように見えるけど。そんなんじゃ、影子さんに連れて行かれちゃうよ? えいっ」
「ば、ばか、やめろっ!」
彼女の白い手がこちらの腕をつかんできて、慌ててそれを振り払った。もちろん彼女の腕は幻なんてことはない。しっかりとこちらの腕に感触を伝えてくる。
……伝えてくる、はずだ。
「あはははは。なーに今の声ー。やっぱり怖いんじゃーん」
「うるさい! おまえこそ、影子さんに引きずりこまれてしまえ!」
心の底から楽しそうに笑う女の子へ、俺はさらに心の底から、力の限り叫ぶことにした。なんだこいつは。悪趣味にもほどがあるではないか。
影子さんがどうして通りすがりの子を引きずり込むのかは知らないが、それはきっと、こういうおしゃべりな女子とかと一緒に話したいからなのではないかと思う。
適当にそんなことを考えていると、彼女はごめんごめん――と、目じりに涙さえためて、まったく謝ってないであろう態度で続けてくる。
「あんまりにも、リアクションが大きかったもんでさ――おもしろくて、ついつい手を出したくなっちゃって。
でも、そこまで怖がってくれると話した甲斐あったなあ。私もすごく、いい時間つぶしになったよ」
「……人をからかって時間をつぶすな」
こちらとしてはいい迷惑だ。単純に日直の片割れを待っているだけなのに、寿命が何年か縮んだ気分だ。
……そういえば、彼女はどうしてこんな時間まで、教室に残っているんだろうか。
「あーあー。暗くなってきちゃったね。影子さんの時間かなあ」
「……そういう言い方をするな」
日が傾いてきて、教室に入ってくる光が少なくなってくる。
それに伴って、少しずつ影の面積が増えてきた。
もう、ランドセルの棚だけではない。
教卓も。
机も、イスも。
金魚の水槽でさえも。
段々と、影が濃くなってきてきたように思う。
でも、教室のそこらじゅうから、白い手がにゅ――っと出てくるところなんて。
正直想像したくもない。
……いや、今自分で言っていてちょっと考えてしまったが、すぐに記憶から消そう。夜中にトイレに行けなくなる。
でもなぜか、影を見るたびに何がいるような気がしてしまうのだ。
そう、それこそ。
教室の前にある、テレビの裏とか。
カーテンの陰とか。
植木鉢の後ろとか。
チョーク入れの中。
小さな黒板消しの向こう。
ひょっとしたら、自分が作る真下の影から――
「――ねえ」
と、そこでふいに、女の子が声をあげてきた。
だんだんと暗くなってくる教室の中で、楽しそうに、とても楽しそうに――女の子は、口を開く。
「影子さんは、どこにいるのかな」
「……どこにって」
彼女の長い黒髪が揺れる。
暗闇はいつも、どこにでもある。
「物陰なんていっぱいあるよね。影子さんは、学校にいたい放題だよね」
薄暗くなってくる教室の中で、彼女の白い腕だけが、やけにはっきりと見えて。
ランドセルの棚から伸びる白い手は、きっとあんな感じなのかもしれないと――なんとなく、思った。
「どこにでもいるんだよ、影子さんは。どこにでもある影から、あなたを見ているの」
暗くなってきた教室の。
教卓の影。
テレビの裏。
チョーク入れの中。
そして、金魚がいたはずの水槽の暗がりから――
「通りかかった人を」
にゅるり、と。
「引きずり込むために」
白い腕が伸びてきて。
さわさわと、女子が秘密のおしゃべりでさざめくように――楽しそうに、揺らめいた。
「楽しいよね。怖がってくれると、楽しいな――
だって私は、とっても楽しかったよ」
不安が生んだ幻、が。
いないものを『いる』ように感じてしまって。
目が離せなくなってしまう暗闇の中、から。
「だからもっと――一緒にいたいな」
一緒にいようと。
手を、伸ばす――
と、そのときだ。
「ごめんごめん、遅くなちゃったねー」
能天気なその声と共にパチン、と音がして。
ふいに教室が明るくなった。
そこにいたのは今日の日直で一緒だった、クラスメイトの女の子だ。
はっとして、もう一度教室の中を見渡してみるのだが。
そこには、白い手も、真っ暗な物陰も。
そして今まで一緒だったはずの、女の子の姿も。
どこにも、なかった。
「……あのさ、さっきまでここに、長い黒髪の女の子がいなかったか?」
「……そんな子、教室に残ってたっけ?」
私が職員室行くときに、そんな子いなかったと思うけど、と。
そう言って、日直の相方は首を傾げた。
……じゃあ、あれは誰だったんだろう。
そう思ったとき、ふと、ランドセルの棚が目に入る。
学校の物陰。
暗がりの不安が作り出した、どこにでもいるその幻が――
「どうしたの? 真っ白い顔しちゃって」
「あ、いや……」
そう、幻だ。
そんなものは、気にしなければいないものと一緒だ。
だから俺はランドセルを背負って、相方と一緒に教室から去ることにした。
気のせいだ、気のせい。
そう思って明るいその空間から出るところで、ふっ――と、振り返る。
「どうかした?」
天井の蛍光灯でできた、俺の足元の黒い影。
「……なんでもない」
その中からあの真っ白な手が、楽しげに振られているようにも思えたけど――
それもまた、俺の見た幻だったのだろう。