Act6.「決意」
──さて、と。決心はついた、もう迷わない。
──俺はここで記憶を取り戻す。
どこに行けばいいのかはさっぱりわからない。本当にこの世界に直斗の記憶が眠っているのかすらも定かではない。
だが、どんな道を進んで遠回りしたとしても、必ず最後には彼の記憶の欠片たちが収束する……。
もちろん根拠はない。しかし、ちょっと前まで無慈悲に思えたこの世界が、彼に対してそう告げているかのようだった。
たとえ、直斗の中学時代の戦争の記憶がどんなに酷いものだろうと、今なら受け入れられる自信がある。何でもかかってこい、といった心境だろうか。
ここに来てからもう二時間くらい経つ。
それだけの長い時間をかけて、ようやく自分の答えを見つけた直斗は、この世界での、物理的な第一歩を踏み出した。
右足と左足を交互に宙に浮かせ、前へ、前へと歩み出す。
所々で灰色がかったコンクリートが無機質なガラッという音を立てていることに、今では心地よささえ感じている。
明確な目的地がない現状では、落ちていた木の棒に命運を託しながら方向を決めているわけだが、右も左もわからない直斗にとって、この方法は、ある意味で最善とも思えた。
時折躓く空弾倉に心を傷めながら、両足を順に前後させる連続行動を続けた。
◇◆◇◆◇◆
そして、もう何万歩。いや、何十万歩かもしれない。
とにかく数え切れないほどの歩数を消費し、先ほどまで留まっていた街を、あと一歩で抜け出しそうだったころ、急に周りの景色の激変が起こった。
小さい頃、何かの写真で見た砂漠を彷彿とされる光景が、目の前にあったのだ。
未だに陽光は水平線の遥か上空に居座っており、この見渡す限りの砂道を今日中に抜ける自信は、彼には無かった。
千キロメートルは下らない……いや、もっと長いのかもしれない。とにかく、霧がかかったかのように、先が全く見えないのだ。
「まじかよ……」
直斗が一体どんな過ちを犯してこんな世界に放り出されたのだろうと改めて考えさせられる。
振り返れば、もはや蜃気楼だったのかと疑うほど、幻想的な街並み。
戻るなら今だ。とは思いつつも、それでは何の変化も訪れない。という残留思念に苛まれていた。
結局、砂漠へと歩先を向け、一歩、また一歩と身体を前進させていった。
◇◆◇◆◇◆
眼下に広がる小世界が、コンクリートから細かな微粒子に変わってどれくらい経っただろうか。
街とは異なり、全く景色が変わらないというのは、長距離を歩く上でかなりの精神的ダメージになる。
例えるならば、体育館を十キロメートル走るのと、町内を自由に十キロメートル走るのでは、圧倒的に後者の方が精神的余裕が生まれるというものだ。
閑話休題。
全体の十分の一くらい──あくまで直斗の独断と偏見による主観だが──を歩き終えたであろうと感じた時だった。
今まで霧に包まれていたはずの眼前が、すっかり晴れ渡っていたのだ。しばらく足下ばかり見ていたから気づかなかったのだろうか。
それだけではない。
水平線がくっきりと見えるようになったせいか、遥か遠くの景色まで見渡せる。
──あれ……?
「あんなもん、さっきまであったか……?」
直斗は、水平線に浮かぶようにして屹立している、巨大なタワーのような建造物を視界に捉えた。
イタリアの某斜塔を、そのままこの地に運び込んだと思えるほどの高位建築物だ。(「斜塔」と言ったが、別に傾いているわけではない)
一瞬、蜃気楼であるという可能性も脳内をよぎった。
だが、砂漠の旅人というものは大概、目の前のオアシスを幻想だと思いたくないものだ。
すっかり一旅人になり果ててしまった直斗も例に漏れず、あれが蜃気楼などという考えは一瞬にして捨て去った。
ましてや、あの建造物が自分を呼んでいるかのような錯覚すら覚えた。
「仕方ない、行ってみるかな」
どうせ当てのない旅だ。
せいぜい一興になればよしとしよう。
──その時だった。
遥か遠くにある斜塔改め真っ直ぐな塔が、陽炎の如くぼわっと揺らめき、少しずつ巨大化し始めたのだ。
いや、巨大化しているのではない。
「塔が……動いてる!?」
しかも、直斗の存在を認識しているかのように、こちらへ、ゆったりと移動してきている。
惚けたようにその様を見つめていると、今度は直斗の身体の方に異変が生じた。
今朝。いや、もう何度も経験した、例えるなら……そう、謎の立ちくらみのような現象。
しかし、今回は少しばかり勝手が違った。
以前のが、「落ちていく」という感覚だったのに対して、現在、彼に起こっている現象は「浮遊感」とも形容できる、全く別種のものだった。
次に強烈な光と共に視界がホワイトアウトし、直視を避けるために右手をかざして遮断する。
漫画やアニメならこんな展開で現実世界に戻れるんだけどなぁと心の中で淡い期待を抱いている間にも、周りの事象改変は進行していた。
先ほどまで両足に感じていた、いつ沈んでもおかしくはない不規則な粒状とは打って変わって、しっかりとした足場。
日中の陽光が直に与えてくる強烈な体感温度は、クーラーか何かの冷房機器から発せられる、機械的な涼しさへと移り変わった。
最後に光がだんだんと弱まり、かざしていた手を降ろした直斗が次に見たもの──。
それは、急な色彩変化による影響でまだよく見えない彼の目でもわかるほどの、たくさんの機械に囲まれた部屋だった。
一度目を閉じて、少し待つ。
数秒経ち、回復した視界で再び辺りを見回す。
やはり、どこもかしこも機械で埋め尽くされていた。
──それにしても、少し狭いな。家賃にすれば月三万くらいで住めるだろうな。
両親を失ってからというもの、趣味のSF映画にお金を使うよりも、家計を第一に考えてきた直斗が最初に抱いた感想がこれだった。
とはいえ、この部屋の家賃よりも、たくさん置かれた機械の総額の方が気になる。想像するだけでも十分恐ろしいが。
そこまで考えたところで、直斗は重要なことに気づく。
“この部屋には彼以外誰もいない”ということだ。この部屋の主は留守なのだろうか。
「どんな人が住んでいるんだろう……」
おそらく百人にアンケートを取ったら五十人くらいは直斗と同じ疑問を抱くだろう。
ここに住んでるやつが同じ人間なのだとしたら、どんな人なのか非常に気になる。
あくまで、人間である。ということが前提だが。
……宇宙人とかと出会《でくわ》すのだけはごめんだ。
さらに部屋をくまなく探索しているうちに、住人の疑問とほぼ同価値の疑問が見つかった。
──この部屋には出口が見当たらない。
どこかに隠し扉が!? などと遊び心に誘われそうになるのを堪えつつ、とりあえず状況変化を待つことにした。
「ふぅ……」
十分、二十分。どんどん時間は過ぎていく。
今更ながら、直斗は何かを待つことも待たせることも大嫌いな人間だ。
慣れない「待つ」という行動自体が絶え間なくストレスを与え続けてくる。
そしてストレスは、だんだん苛立ちへと変化し始める。
しかし、この部屋の住人からしてみたら直斗という存在はいい迷惑だろう。
何せ勝手に部屋に迷い込んで来て、住人がいないと腹を立てている。
などと心中では理解しつつも口より先に手が出る性分の直斗は、この苦痛に耐えきれなかった。
──よし、思い立ったら即行動。
これが彼の第一のモットーだ。
そう思い、とりあえず手近にある精密機械に触れてみることにした。
ポチッ
という聞きなれない音と共に、手元にホロキーボードがせり出してくる。
「うわっ!?」
使ったことも、見たことすらもない新型の機械に対しての驚きと興味を五割ずつくらい含んだ声を出した直斗は、新しいおもちゃを与えられた子供のように、使い慣れないホロキーボードを適当に操作し始めた。
使ったことはないと言っても、流石にこの年齢にもなればローマ字入力で文字を打つことくらいはできる。
「ふーん……一応日本語なんだな」
異世界らしい難しい言語が出てくることを少なからず期待していた直斗のテンションはガタ落ちした。
──しかし、あまりに熱中し過ぎていたせいか、直斗は今まさに背後に迫ろうとする小さな影に気づくことができなかった。