Act5.「欠けた日常」
──時刻は八時七分。
優奈は、入学してまだ七ヶ月しか経っていないのに、もうすっかり通いなれてしまった学校へと続く道を歩いていた。
「はぁー」
両手に息を吹きかける。
今日は一段と冷え込むという天気予報を聞いていながら、何の対策もしてこなかった自分が憎い。
手袋をしてくるべきだったと考えても、もう遅いことはわかっているので、そんな考えは既に払拭し終えているわけだが。
刹那の思考から意識を現実へと戻し、決して短いとはいえない距離をどうにか歩き続け、二〇分くらい経った頃、ようやく学校に到着した。
「おはよー、花音ちゃん」
「おはよう」
教室に入るなり、優奈は親友の一人に声をかける。
優奈が来るまで自席で本を読むことに熱中していた彼女の名前は園田花音。一言で表すと「静かな天才」という感じだ。
いつもクラス内では目立たない方だが、優奈に対してだけは小学校からの幼馴染みということもあり、心を開いてくれている。
おまけに彼女は頭脳明晰。
それだけならまだしも、自主学習にも積極的に取り組んでいる姿を教室でもよく見かける。
まさに鬼に金棒、花音ちゃんに勉強、という感じである。
優奈はいつも学校に来たら、まずは花音と話すようにしている。
それが少しでも他のクラスメイトと話すきっかけになれれば優奈にとっても喜ばしいことである。
だが、今日の目的はいつものそれとは違った。少しでも誰かと言葉を交わして、優奈自身の気持ちを盛り上げなければ、あの出来事のせいで心がどうにかなってしまいそうだったからである。
だけど、このクラスは無慈悲だった。聞きたくなくても自然に男子たちの会話が入ってくる。
「直斗のやつ欠席かよ」
「でも初めてじゃない?」
「風邪とかじゃね?」
などとクラスメイトが口々に勝手なことを話している。
──もう、やめてよ……。こんなところで泣いちゃうかもしれないじゃん……。
目に涙が浮かびそうになったのをどうにか堪える。その時の彼女は、花音が心配そうな眼差しで覗き込んできていることに気づかなかった。
「大丈夫?」
「え……? あ、うん。大丈夫だよ」
どうにか花音からの問いかけに返答するが、我ながら演技が下手だと実感してしまった。
普段から察しのいい花音が相手ならもう気づかれてしまっているかもしれない。
──私の涙に……。
そこへ、HRをするべく戸田先生が教室に入ってくる。
すぐさま男子たちは「もう来たのかよ」とか「まだ早いよ」とか言いながらもそれぞれの席に戻っていく。
それを見た優奈も、まだ心配そうな面持ちの花音に暫しの別れを告げ、自分の席に戻る。
先生は日誌を教卓に起き、少し生徒たちの顔を見回したあと、話を始めた。
「これからHRを始めます」
いつも聞きなれた真面目そうな戸田先生のこの声。
でも、今日だけは何故か耳まで届いてくることはなかった。
数秒後に伝えられた言葉を除いては。
「えー、今日は結城君は風邪でお休みのようですね」
先生はそう言った。
他のクラスメイトも特に気に留めている様子もなかった。戸田先生は「風邪」としか言ってないのだから当然かもしれないが。
けど、真実を知っている優奈と由人だけはとても複雑な心境だった。
直斗がどうして倒れたのかは未だにわかっていない。
聞いた話だが、この出来事の原因解明のために病院の医師たちが総動員し、臨時会議を開いたりもしてくれたらしい。
それでも原因はわからず、状況を察してくれた戸田先生は「風邪で休んだ」とみんなに伝えてくれたのだろう。
似たような事を考えていたのであろう由人と目が合い、互いに苦笑してしまった。
由人はいつもと同じように気丈(?)に振る舞っていたが、おそらく彼が今回のことについて一番に責任を感じているのではないかと優奈は思っている。
何せ、事件は由人の家で起こったのだ。それも、彼がちょうど目を離した時に何かが起こった。優奈がもし逆の立場だったら平常心でいられる自信がない。
だからこそ、このクラス内で今回の事件については唯一の理解者である優奈が、少しでも手助けをできればと思っていた。
──気がつくと、既にHRは終わりに近づいていた。やばい、連絡事項とかほとんど聞いてないよ……。
「……今日は期末考査一週間前ということで放課後は早めに帰宅してくださいね。それではこれでHRを終わります」
──あ、終わっちゃった。
チャイムが鳴って、先生が日誌と共に職員室に戻っていく。
どうせ大した連絡は無かったのだろう。という無理矢理過ぎる解釈で問題を終結させた彼女は、傾きかけた心の天秤を無理やり平常心の方向まで持っていこうとした。
だが、どうしても左隣の空席が気になって仕方がない。
──その時だった。
「な、なぁ星宮」
聞きなれた声。けど、優奈と二人きりで話すのは多分これが初めて。いわゆる、「友達の友達」的な位置関係のクラスメイト。
「島崎君?」
「あぁ、ちょっと話があるんだ。今大丈夫か?」
「う、うん……」
何で私が緊張してるんだろ……。さっき島崎君の唯一の理解者になるって決めたばっかりなのに。
そんな優奈の葛藤を他所に、由人はどんどん自分のペースで話を進めていく。
「ここじゃちょっと話しづらいから廊下にでよう」
半ば手をひかれるようにして、優奈と由人は廊下へと移動した。
「それで、話って?」
「あぁ、あいつのことなんだけど」
どうやら直斗の話らしい。予想はしていたが、改めて思い出すとまた涙が出てきそうになってしまった。
「星宮、お前あんまり一人で抱え込むなよ」
──!?
この慰めは想定外だった。いや、むしろ優奈が由人にかけてあげるべき言葉だったはず。
彼は続ける。
「あいつだって星宮がそんなに落ち込んでるところを見たくないだろうしな」
──わかってる。昔、直斗君からもよく言われてた。「優奈は元気だけがとりえだな」って。
「うん……。ありがと。優しいんだね島崎君って」
「そ、そうか? あんまり言われたことないからなんか新鮮だよ」
少しの間が空いた。次に口を開いて言葉を紡いだのは優奈の方だった。
「……ほんとはね、私より島崎君の方が今回のことについて責任を感じてるんじゃないかって思ってたの」
浮かんでくる涙を堪えきれずに、話を続ける。
「だからっ……、だから私が……島崎君を助けたかったのに……逆に私が助けられちゃったね……ごめんっ……!」
本心からの言葉だった。絶対に自分よりも由人の方が責任を感じてる。そう思ったからこそ、唐突に見せた彼の優しさに一瞬でも縋ろうとしている自分が許せなかった。
「星宮……。よし! じゃあこうしよう」
あえて明るく振舞っているのが目に見えていた。どうやら由人も優奈と同じくらい演技が下手らしい。
「確かに俺は今回のことについて全く責任を感じていないと言ったら嘘になる。けど、もし逆の立場だったら星宮も俺と同じくらいの責任を感じていたことになる。だからさ、こういう時は互いに助け合った方がいいと思うんだ」
「助け……合う?」
「あぁ、どっちが責任を感じてるとかそういうの無しにして、お前も辛くなったら俺に助けを求めていいし、逆もあるってことだ」
普段の彼からは想像もつかないような解決法だが、何となく由人らしいとも思える。
「多分、あいつだって同じ事言うと思うぜ」
「そう……だね! そうしよう!」
キーンコーン
一時間目の予令のチャイムだ。意外に長く話し込んでしまっていたらしい。
「んじゃ、教室戻るか」
「うん!」
──こうして、事情はともかく気がつけばすっかり打ち解けてしまった二人の欠けた日常生活は始まった。