Act2.「影の操縦者」
「……はっ!?」
──あれ、俺寝てたのか?
「今日の授業はここまで。
次の授業までにしっかり課題をやっておくように」
教科担任は、そう言い残して教室を出ていった。最後の言葉が、授業に対して不真面目だった生徒に向けられて発せられた言葉だということは言うまでもない。
机に突っ伏した状態で、直斗は思考を巡らせる。
──課題……だと?
──ダメだ、何にも思い出せねぇ。
時計へ目をやると、現在時刻は三時四〇分ということを示している。単純な計算なら一時間目から六時間目までぐっすりと寝てたことになる。
最早、「居眠り」のレベルを大幅に超えているが、この疑問についてはとりあえず後回しにするとしよう。
一番の問題は、現在自分がどういう状況であるのかという事実のみ。
人間は、睡眠から醒めた直後に周りの状況確認をしたがるらしいが、ようやくその理由がわかった気がした。
故に、状況把握&「何故こんなことになったのかを確認」しようと直斗は記憶の中の引き出しを漁った。
今朝は、HRの時にセシアという名の転校生が来た。
その後、島崎とくだらないやり取りをかわした。
ここまでは直斗も覚えている。
だが、
──俺はその後、一体どこで何をしていた……?
そればかりが彼の脳内を埋め尽くしていた。
一時間目の前までの記憶はある。
しかし、それは裏を返せば“一時間目の前までの記憶しかない”という風にも考えられるだろう。
普段は物事を多面的に捉えることが苦手な直斗ですらそんなことを考えてしまうような状況に立たされているということだ。
寝起き(?)の脳をフル稼働させ、あらゆる可能性を模索する。
……こういう時だけよく働く脳だ。
などと一六年間一緒に過ごしてきた自分の脳を蔑みつつ、さらなる加速命令を出した。
思考回路が焼き切れんばかりの速度で、直斗の脳はこの状況で起こり得る可能性を二つ提示することに成功した。
まず一つ目の可能性は、単純に寝てたということ。
これなら、彼の脳が学校にいるにも関わらず平気で六時間寝てしまうほど疲労していたということで一応説明がつく。
「高校生が夜ふかしをして、次の日の授業中に寝る」というテクニックはよく聞く(毎日のように見ているが)話だ。
だが、この推論を通すには理由が不足し過ぎている。
そもそも直斗は普段から夜ふかしはしないし、しっかり睡眠時間を取っている故、授業中に寝たという経験は皆無といって差し支えない。
そう考えると、この可能性は極めて低い。
そして二つ目の可能性は──あまり考えたくはないが──彼の体に何かがあった。
寝ているわけでもなく、けど何故か記憶だけは飛んでいる……みたいな? いわゆる幽体離脱的なあれだ。
そこまで考えてしまってから、心の中で否定の意を込めてかぶりを振る。
──いや、そんなオカルト的な話、あるはずがない。あったら困る。
せめて、今の二つの可能性どちらかの裏付けでも取れればいいのにと直斗は切実に願った。
そう思って机に視線を向けるが、もちろんあるのは筆記用具、ノート、教科書くらいのものだった。
物的証拠はない、となると──証言か。
確かに可能性の裏付けを取るには一番手っ取り早い方法ではある。
しかし、ここで一つの問題が生じた。
──何て質問すればいいんだろう……。
「約七時間も記憶が飛んでいる」という事実をそのまま伝えようものなら、救急病院へ搬送されるのは時間の問題だ。
とはいえ、誰かから情報を得なければ事は進展しないし、何も解決しない。
どうにかオブラートに包んで伝える方法。
それを考えながら、同時に誰から情報を得るべきか、脳内の「友達リスト」を「あ行」から順番に検索していた。
約一分かからずして、「や行」まで到達。(ここで精神崩壊を起こさなかった直斗の精神力は評価に値するだろう)
ひとまず、一番話しやすい優奈から試してみようと思った直斗は、右へと振り向きながら問いかけた。
「なあ、優奈。今日一日の俺、どうだった?」
──よし、オブラートに包めてる。これなら救急車を呼ばれずに情報を得られるはずだ。
「ふぇっ!?」
まぁ、いきなりだしそうなるわな……。
直斗が直前の発言についての解説を試みようとしたが、それより先に優奈が思わぬ言葉を発した。
「あー、そうだ。今日の直斗君はね……なんだか凄かった!」
凄かった(?)……のか。
これだけだと、さっきの二つの可能性の裏付けにはならない。
あと声がでかい。半径三席くらいの人からの冷たい視線が痛いんだが。
そんな三つの心の声をため息と共に放出しながら、直斗は答えた。
「そ、そうか……何かありがとな」
「うんっ!」
──よし、一人目失敗。
次は誰に聞くべきか……。
前の席でノートを取り続けている由人は、いつも授業だけは真面目に受けている。後ろにいる直斗を振り返ることはおそらく無いと思っていいだろう。
かと言って左隣の席のセシアには何だか聞きづらい。
思考を巡らせながらキョロキョロしていた彼を、突発的かつ瞬間的な強い痛みが襲った。
バシッ
痛い。
「HR中にどこを見ていたんですか、結城君?」
頭を上げた直斗を上から見下ろす形で立っていたのは、HR日誌を片手に目以外笑顔の担任──戸田だった。
……先生、目が怖いです。
という心の声をどうにか喉元で押さえつけ、
「すみませんでした」
これで大体の教師には通じる。
「次からは気をつけるように」
そう言い残して、戸田は教卓に戻っていった。
──言行不一致なんて昔の人もいい言葉を考えたもんだよな。
などと心の中でドヤ顔の顔文字を描いていると、ようやく六時間目のノートを取り終わったのであろう由人がこちらを振り返り、
「よし、終わった。
さて、放課後だな。結城は何時くらいに来れるんだ?」
多分、今朝話した勉強会のことを言っているんだろう。
学校から直斗の自宅までさほど距離はないが、一度帰ってからまた出かけるというのは、相当の勇気を必要とする行動であることを彼は知っている。
「うーん……、学校からそのまま行っても大丈夫か?」
「ああ、別に構わないぞ。 今日の授業の内容を復習したいからむしろその方が好都合だしな」
えっ……。
今日の授業……聞いてない。
さっきの脳天日誌攻撃で忘れかけていた大事なことを思い出した。
──一応こいつにも聞いといてみるか。
数少ない友人を一応呼ばわりしつつ、口を開こうとした瞬間、優奈に引き続き由人がまたも驚くべき発言をした。
「そういえば、今日のお前は珍しく授業に集中していたな」
……はい?
と思わずにはいられない発言だった。
隠しきれない動揺を晒しつつ、返答に応じる。
「えっ? 俺は寝てたはずじゃ……」
まだ裏付けが取れたわけではないが、とりあえず一つ目の可能性を使って、由人の言わんとするところに探りを入れる。
だが、由人の発言は直斗の予想の斜め上を行くものだった。
「そんなことはない。珍しく毎時間ノートをしっかり取っていたし、珍しく発言もしていたじゃないか。それに昼食も珍しく一緒に取ったしな」
やけに「珍しく」を連呼する由人は、いつも皮肉を言われている仕返しのつもりだろうか。
しかし、嬉しそうな彼には悪いが今はそんなことに構っていられる暇はない。
「あ、ああ。確かにそうだったな」
ここで変に食い下がると、直斗はクラス内で危ない人物だという噂が流れかねないので、とりあえず引く。
皮肉を華麗にスルーされた由人は、一瞬不機嫌になったが、すぐに意地の悪い笑顔に戻った。
「今日はいろいろ教えてもらうからな。覚悟しとけよ?」
「お、おう。まかせとけ?」
──なんで俺まで疑問形なんだ。
と、自分の発言について心の中でツッコミをいれつつ、詮索をやめて、ひとまずはHRに集中することにした。
また日誌が降ってきても困るからだ。
「はい。これでHRを終わります」
やっと終わった……。
今日は、数日後に控えた期末考査の範囲発表などでHRがやけに長引いていたせいで、直斗はいつも以上の疲労を感じずにはいられなかった。
「はぁー……」
深いため息と共に、直斗はとりあえず机上の授業道具を鞄にしまおうと、ノートを閉じかけた。
その時……、彼の脳に閃光のような電流が走った。
──先程の二つの可能性、優奈と島崎の意味深発言、そして今日の俺がすごかったということ。いや、最後のはいらないか。
島崎は確かに言った。俺はちゃんと授業を受けていた。さらにノートまで取っていた、と。
それなら最初から自分のノートを見ればよかったんだ。
なんでこんな簡単なことに気づかなかったんだろう。
何故か襲ってくる一抹の不安を、深呼吸と共に押し退けながら、
「……よし」
意を決してノートを開く。
「!?」
直斗が見たもの。それは完璧に毎時間の内容を──おまけに教師のちょっとした発言すらも──写し取ったノートだった。 しかも優奈の字と見紛うほどの綺麗な字で。
「ほんとにこれ、俺が書いたノートなのか……?」
疑うのも無理はない。普段の彼なら、「ノートを取る」という行動すらもせず、机の上での数少ない遊びに没頭する時だってあるというのに、ここまで完璧なノートを取ったという事実は信じ難いものがある。
「おまけに色ペンまで使ってやがる……」
直斗はそのまま数秒沈考してしまった。
推論と外部的情報、そして現実がいろいろと矛盾している。
寝てたという前者の推論を通すとなると、先程の島崎の発言は全て嘘になる。
だが、あいつはそんなくだらない嘘をつくようなやつじゃないことは、入学して数ヶ月の生活の中で既に承知済みだ。
もし万が一後者だとすると、直斗の記憶を一時的に無くし──あるいは乗っ取り──、学校生活を彼の代わりに満喫していた何者かがいる事になる。しかも彼自身の中に、だ。
怪談やオカルトをあまり信じない人でも、ここまで物的証拠が揃ってしまうと、信じずにはいられないというのもまた事実だ。
──俺は神奈川県横浜市で四月一〇日に生まれたごく普通の人間であって、多重人格者だなんて聞かされた覚えは全くない。
直斗が展開する、そんな長い長い葛藤を知るはずもない由人は、
「おーい結城、早く行くぞ」
今それどころじゃ……などと言ってる場合ではなさそうだったので、ひとまずこの件は保留にして、帰る準備を手早く開始した。
「今行くよ」
と、適当に返答しながら、教科書、ノート、筆記用具の順に鞄に詰めていく。
よし。忘れ物なし、準備OK。
そして直斗は由人と廊下で合流し、教室を後にした。
夕暮れの空の下、下校途中の他学生を横目に見ながら、直斗と由人は並んで歩を進めていた。
「毎回思うんだけど、島崎の家って結構遠いよな」
ふと思いついたかのように直斗が呟いた。
学園から由人の家まで、少なくとも六キロメートルくらいはある。これがバス通学とかならまだしも、彼はこの長距離をいつも徒歩で通っているのだ。
対して直斗は、せいぜい一キロメートルくらいの距離を自転車通学している身だ。恥ずかしくならない方がどうかしてる。
「そうか? 俺はもう全然気にならない距離だけどな」
疲れる素振り一つ見せず、由人が答えた。
今の直斗にとっては期末テストよりも、その数日後に行われるマラソン大会の方が正直言って楽しみだ。
そんな彼の心を見透かしたのか、由人は小首をかしげながら言葉を続けた。
「お前の考えていることは何となくわかるが、今はテストの心配をした方がいいと思うぞ?」
「現実逃避くらいさせてくれよ……」
由人もその言葉に呆れたのか、それ以上のツッコミが介入することはなかった。
しかし、代わりに咳払いと共に、別の話題が直斗へと向けられることとなった。
「……話は変わるが、結城は今朝のニュース見たか?」
「ニュース?」
うーん……ニュースって色々あるよなぁ。
だが、そこは心の通じあった友人だけあって、直斗が「何のニュース?」などと聞く必要性は皆無だった。
「強盗事件だよ強盗事件。かなり噂になってるじゃないか」
「ああ、それなら知ってるよ」
というか、言われてみればそれしか記憶に無いということに気がつく。
由人は、ようやく長続きしそうな話の種を見つけたのがよほど嬉しかったのか、もう見慣れたいたずらな笑顔を浮かべて話を続けた。
「おお、そうか。ちなみに結城が強盗ならどうやって防犯カメラをくぐり抜ける?」
「…………」
──本日二度目……だな。
まさか登校中だけでなく、下校中にまで同じ強盗事件の考察をすることになろうとは。
もはや興味とめんどくささが二対七くらいの比率に変わっていたので、今朝妹の晴香と話をした時に言ったことと同じことを言おうと思い、口を開きかけた──
「あ、速く走ったとかはなしだからな」
「…………」
──が、即座に閉じざるを得なくなった。
今日はつくづく不幸な日だという実感が否応なしに湧いてくる。
実際、今日だけで直斗の身の回りにはたくさんの事件があったのだ。疲労しきった今の彼に、他の意見など考えつくはずもない。
──ど、どうしよう。
直斗が早くも話題を失速させかけていることに気がついていない様子の由人の口からは、
「どうした?
まさかとは思うが、本当に速く走ったとか考えていたのか?」
という言葉が発せられた。
直斗の如何にも「心を読まれました」感に満ち溢れた顔を見れば、誰だってそう思うだろう。
「いやぁ、強盗が防犯カメラにも映らないような速さで走ったとか思ってるやついるのか? いたら馬鹿だな。アハハハ」
つ、辛い……。空気が重い……。
心身共に力尽きそうだった直斗に、止めの一言が放たれた。
「なんか今日の結城は、いつにも増してミステリーさ満載だな」
屈託の無い笑顔だった。
が、言われた当人である直斗は、心臓を音の無い銃弾に撃ち抜かれたかのような気分だった。
無理もない。ミステリーが服着て歩いてるようなやつに、ミステリー呼ばわりされたのだから。
そんな状態の直斗に対しての精神攻撃がいつまで続いただろうか。
気がつくと目的地まで残り五〇〇メートルを切り、既に日は落ち始めていた。
「うーん、せいぜい勉強会は一時間程度が限界か」
残念そうに由人が呟く。
「そうだな。時間が時間だし」
直斗もそう答え、思考を嫌々勉強へと切り替える。
その切り替え作業に戸惑ったせいか、彼は幾度となく道端の石ころにつまづきかけた。
「はぁー、やっとついた」
直斗と、
「まぁ、上がってくれ」
由人がほとんど同じタイミングで口を開く。
急な階段を上り、先に由人が部屋に入る。
二階の廊下で暫し待たされ、数分後に直斗が部屋へと招き入れられる。おそらく部屋の片付けでもしていたのだろう。
由人の家はこの時代では珍しい木造二階建て住宅で、どことなく古風な感じがする家だった。
階段は急で手すりもないし、玄関も現代の一般の家と比べると狭い類に入るほどだ。
それだけに、初めて由人の家に行って見た、如何にも危なげな魔法陣や石の数々は異様なほどの違和感を放っていた。
部屋に入るなり、互いに鞄を無造作に置き、六キロメートルも歩いてくれた自分の足をいたわりながら、しばらく無言で惚けていた。
そのまま数分経過し──いや、数十分くらいたったかもしれない──、先にだるそうに口を開いたのは由人だった。
「さて、そろそろ始めるか」
「ん、そうだな」
直斗も心底だるかったが、このままじゃ何をするために遠距離を歩いて来たのかわからない。
座ったまま鞄を手元まで引き寄せ、由人が取り出してきた即席の机の上に、無数のノートやら教科書やらを広げる。
その中から何となく選んだ数学を勉強することになり、鞄の中から新たに筆記用具や問題プリントを取り出す。
その後は特に話すこともなく、たまに問題を教え合う時以外は、黙々と問題だけに取り組んでいた。
由人がすらすら問題を解き、五問くらい解き終わったあたりで、直斗がようやく一問の問いを解決する。
頭脳の差は一目瞭然だった……。
一時間後、テスト勉強も終わりに近づいていた時だった。
「なんか飲み物持ってくるけど何がいい?」
由人がワークブックを閉じながらそう聞いてきた。
「うーん……、お茶とかでいいかな」
最初の「うーん」は別に飲み物の選択に困ったわけではなく、数学の難問という名の壁に苛まれたが故の心の声が具現したものだった。
「了解、少し待っとけ」
最後にそう言って、由人は急な階段を慣れた動作で一階へと降りていった。
「そういえばこの部屋、ちょっと寒いかな」
直斗以外誰もいなくなった部屋でひとりごちる。
さっきまでは全く感じなかった、まるで体の中に神経を逆撫でする何者かがいるような感覚。
小さく身じろぎしつつ、彼は呟いた。
「風邪でも引いたかな……」
と、期末考査を一週間前に控えた学生とは思えないほどの悪い方向への考えが浮かんでくる。
だが、そんな安易な仮定が許されたのは、ほんの数秒だけだった。
部屋に一人で取り残され、悪寒と共に急に心細くなる。
また記憶が飛んで、直斗ではない別の誰かが彼の体を操り、由人と一緒に勉強を続ける。
いや、もしかしたらそのまま元に戻れないのかもしれないという可能性も……。
昔聞いたことがある、「ポルターガイスト」という単語が何故か脳裏をよぎる。
どんどん悪い方向へと考えが加速していることに直斗は気づかなかった。確かに学校ではあんなことがあったが、今の悪寒があの超常現象へと直結しているとは限らない。
──大丈夫だ。もう“あいつ”は来ない。
自分が一種の興奮状態に陥っている事に気づき、宥めるためにそう言い聞かせる。
しかし、逆効果だったのかもしれない。
自分では落ち着いているつもりでも、宥めようとする事によって、むしろ“あいつ”を意識してしまっていたのだ。
壁に背中を預けたり、体勢を変えたりして、今できることを色々試したが、何かが変わるということはなかった。
そして、時は訪れた──。
突然心臓が機能を停止し、血液が身体に回らなくなったかのように息苦しくなる。視界がぼやけ、平衡感覚が再び少しずつ失われていく。
今朝に起こったものと酷似した突然の違和感。
「あっ、ああ……」
だんだん遠くなる意識の中で、声にならない悲鳴を上げながら直斗はどうにか手を伸ばし、来るはずのない助けを呼ぼうとした。
だが、その手を掴む者はいなかった。