Act1.「始まりの出会い」
「おにーいちゃん!」
──俺は長い夢の最後にそんな声を聞いた気がした。
体に違和感がある。風邪でも引いたのだろうか……。
というのはもちろん彼の恣意による冗談で、実情はただ単純に学校がめんどくさいという理由で、現実逃避をしているだけである。
その後、彼は再び布団に潜り、夢の内容の再生を試みる。
先程まで見ていた夢は心なしかいつもより長かったように思ったが故の行動だ。
「どんな夢だったかなぁ……」
布団の中でそう嘆いていると、階下から再び妹の声。
「早く起きないと遅刻するよぉ〜!」
妹を持たない全世界の男たちからしてみれば、これは願ってもいないシチュエーションなのだろう。
しかし、眠気が勝っている今の状況の彼からしてみれば、苛立ちを加速させるトリガーになり得る凶器でもある──。
「へーい……」
──とは言え、最近上下関係が無下になりつつあるのもまた事実だ。当然逆らえるはずもない。
彼はゆっくりベットから抜け出すという唯一の反抗を見せたあと、駆け足でリビングに向かった。
……これ以上反抗すると後が怖いからな。
ここで軽く自己紹介。
彼の名前は結城直斗。神奈川県のごく普通の高校に通う高校一年生である。中学の頃から剣道をやっているせいか、スポーツには少しばかり自信がある。成績については……中の下とでも言うべきだろう。
父親は直斗がまだ中学に上がりたての頃に行方不明になり、母親については共に過ごした記憶すらもあまりない。
そして先程、直斗を夢の世界から引きずり出した張本人である妹の晴香がいる。
両親を失った──晴香に関しては知らず知らずの間に──兄妹は、若くして二人だけの暮らしを強いられ、兄がアルバイトで生計を立て、二歳下の妹が家事を受け持っているという、非常に酷な青春を送らされているのだ。
近くに身寄りでも住んでいれば、俗に言う「養子」にしてもらうことも可能だったのかもしれないが、父親が原因でそれは叶わぬものとなった。
というのも、昔──正確には一六年前──母親と共に結婚の挨拶をする時に、母方の親戚一族と父さんとの間でちょっとした意見の対立があったらしい。
兄妹は詳しい内容を知らない。だが、その対立の結果父親は、母親とまだ生まれて間もない直斗を連れて、この神奈川の地に半ば逃げるようにして移り住んだのである。
つまり、「直斗たち家族と、母方の親戚は仲が悪い。だから頼りたくても頼ることは許されない」という解釈がいつの間にか成り立っていた。
思考のみ過去にタイムスリップしていた直斗は、二階と一階を繋ぐ階段の最後の一段で、ようやく現実へと帰還した。
リビングへと続く扉を開けると、晴香はどうやらすでに食事を済ませているらしく、長い黒髪をツインテールに結びながら満面の笑みで出迎えてくれた。
何故か包丁片手に……。(料理の途中で出迎えたせいで、包丁を置いてくるのを忘れたのだと信じたい)
「五分遅刻!」
糾弾しながら、包丁を振り回す。
直斗は文句の一つや二つを即座に考えついたが、ここで言葉の選択を間違えると朝早くからdead endになりかねないので、
「……次から気をつけるであります!」
直斗は寝起きでまだ半覚醒の思考の中で、唯一出てきた言葉を敬礼とともに晴香に向けて言い放った。
「うん。ならよろしい」
答礼と共にそう言って、晴香は包丁をペンのようにくるくる回しながら台所へ消えていった。
……あ、危なかった。
まさか朝から死の危機に直面するとは、直斗も皆目見当もつかなかっただろう。
落ち着いたところでテレビでも見ようと思った彼は適当にチャンネルを選び、晴香が準備してくれた朝食を片手にニュースを見始める。
『今日の天気予報は晴れのち雨です』
「あっ、それなら傘必要だねぇ」
いつの間にか戻ってきた晴香がそう呟いた。
「おう、そうだな」
本当に身もふたもない会話だと直斗は思った。どこの兄妹もこんなもんなのだろう……。と信じながら。
二つ目のトーストに手を伸ばしつつ、再びニュースに集中すべく思考をテレビへと切り替えた。
内容は天気予報から県内のニュースへと変わっていた。
『続いてのニュースです。昨晩、神奈川県横浜市のコンビニエンスストアに黒い服を着た男が店員に刃物を……』
「最近は物騒だねぇ」
晴香が他人事のように呟く。
「そうだ……ん?」
“目には目を”的な感じで、他人事の台詞には他人事の台詞で返そうとした直斗は、ニュースの内容を話し続けるキャスターの声が心なしか震えていることに気づき、言葉を止めた。
「どうしたの、お兄ちゃ……」
何かを言いかけて固まってしまった兄を不審に思った晴香が問い終わらないうちに、キャスターは驚くべき内容を口にした。
『男は現金を盗んだあと、一瞬にしてその場から消失したということです』
「っ!?」
『この事件について専門家は……』
「消失」と聞いて、直斗は小学生の時に観たとあるSF映画を思い出した。
「お兄ちゃん?」
──消えたってことは何かトリックがあるはずだ。例えば光の屈折を利用した……とか?
「もしもーし」
──それとも錯覚を利用したのだろうか……いや、でもそれじゃ防犯カメラにはしっかり映ってしまうはず……。
「しょうがないなぁ」
──全然わからないなぁ……ん?
直斗がそこまで考えたところで、彼の視界に銀色の刃が映ったのに気づき、思考を止める。
それは、数分前に見たはずの刃物。
「って、なんでまた包丁出してきてんだよ!」
「あ、やっと気づいた」
朝早くから二度も殺されかけたというのは、世界中探しても直斗くらいしかいないだろう。
「ったく……。昔から何かあるとすぐ包丁持とうとするんだから」
昔、ままごと的な遊びに付き合わされた時に、包丁型のプラスチック製品に刺される役を演じた過去を振り返りながら呟いた。
「そ、そんなことないよー」
ようやく兄妹らしいまとも(?)な会話ができたことに多少の安堵を覚える。
「ねぇねぇ、ところでお兄ちゃん」
「何だ?」
「今何時かわかってる?」
言われてふと時計を見る。
「八時……二〇分……?」
「遅刻確定だね☆」
「そうだね☆ ……じゃねぇぇよ!!」
ああ……。学校がめんどくさいとは言いつつ、無遅刻無欠席が俺の唯一のとりえだったのに……。
心の中で崩れさっていく唯一のとりえに別れを告げている間にも、現実は進んでいく。
「じゃあ、先に行ってるね☆」
「おいこら待てぇぇぇ!! そして包丁置いてけぇぇぇ!!」
ナチュラルに包丁片手に家を飛び出そうとする晴香を静止し、通学鞄を取りに二階へと戻る。
「えーと今日の授業は……まぁいいか」
昨日と同じ持ち物が入った通学鞄を背負い、何だかんだ言って直斗を待ってくれている晴香と、玄関先で合流する。
「「いってきまーす!」」
家には他に誰もいないのに、この挨拶は不自然極まりないものだったが、もはや兄妹の恒例行事となっていた。
時期としては十一月の初めだが、外はかなり冷え込んでいた。
「ねぇねぇお兄ちゃん」
「…………」
「ねぇねぇお兄ちゃん」
「…………」
「ねぇねぇお兄ちゃん」
……えっと、今ので二十七回目。数えるのも疲れてきた。
無視しつつも回数だけはしっかりとカウントしていた直斗は、これ以上無視を続けると晴香の右手がとある彗星のように三倍の速さで飛んでくるのは間違いないと予想し、
「返事しなきゃダメか……?」
とそれだけ聞き返す。
つい先ほど、二枚のトーストが逆流しそうな勢いで朝の支度を済ませたせいで既にかなりグロッキー状態な直斗に対し、晴香の返答は簡潔かつ非情なものだった。
「うん☆」
……鬼ですね、はい。
「それで、何の用だよ」
実の妹に取る態度にしてはちょっと冷たすぎる気もするが、数十分前の刃物を思い返して、納得した上で答えを待つ。
しかし当の本人は全く気にする様子もなく口を開く。
「あ、そうそう。お兄ちゃんが寝坊するなんて珍しいから、何かあったのかなぁって思って」
確かに、保護者のいない我が家で妹に全てを任せるのは兄としての威厳が疑われるので、いつもは晴香よりも先に起床するようにしている。
だが、今日は何故だか夢から抜け出せなかったのだ。
とはいえ、今の直斗にとってはその話よりも、妹が自分の心配をしてくれているということに深い感慨を覚えた。
謎の達成感と共に心中でガッツポーズをしつつ、直斗は答えを口に出した。
「いや、何か変な夢見たんだけどさぁ」
「どんな夢?」
すかさず晴香が聞き返してくる。その目は好奇心に満ち溢れていた。しかし──
「それが全然思い出せないんだよ」
直斗があっさりと答えると、一瞬で興味を失った(ような)声で、
「なーんだ、つまんない」
ため息と共にそう呟いた。
その態度に何となく挑発の意を汲み取った直斗は、あえてそこで会話を切らず、皮肉を重ねた。
「誰かさんに朝から刃物を向けられたせいで忘れちゃったなぁ」
「誰だろーねー」
──がしかし、兄のボキャブラリーは妹に迎撃される程に貧相なものだということを自覚してしまう結果に終わった。
「……あ、そうだ。今朝のニュースのことどう思う?」
──こいつ、話題を変えやがった……。
そう思ったが、口に出さないのも兄の優しさってやつだろう。
「ニュース? ……あぁ、あの強盗のやつか」
思えば、直斗の推測はまだ未完だったことに気づく。
「うん……。強盗が消失したって言ってたよね」
「あぁ、言ってたな」
直斗も晴香もあまりニュースや政治には興味を持たない方だった。
それでもあえてこの話を振ってきたのは単に話題が無かっただけなのだろうか。当然直斗だって、無言で気まずい空気の中で登校するのは御免だ。
「あれについてどう思う?」
先ほど、いくつかの推論を重ねたはずだが、焦りすぎて全部頭から抜けてしまっていた直斗は、とりあえず適当に流した。
「どうって、速く走って逃げたとか?」
だが、そんな兄の小学生レベルとも言える考察はすぐに妹に一蹴された。
「何のための防犯カメラよ……」
「お、おう……それもそうだな」
割と真面目に考えたんだがなぁ。
「じゃあお前はどう思うんだよ?」
質問を切り返す。兄の反撃だ。
妹は数秒沈考し、ようやく答えた。
「やっぱり、消えたんじゃないかなぁ」
「SFじゃあるまいし……」
とはいえSF好きな直斗からしてみれば、そういう展開に期待を抱いてしまわなくもない。
というような兄VS妹の強盗事件考察は思いのほか長く続き、気がつくと学校へ続く最後の曲がり角に差し掛かろうとしていた。
直斗の通う「私立星ヶ丘学園」は全校生徒(中高合わせて)一二〇〇人とそれなりにデカい学園で、彼はそこの高等部に所属している。そして、グラウンドを挟んで隣には中等部の校舎があり、そこに晴香が通っているというわけだ。
ちなみにこの学園、特に有名な部活動とかがあるわけではないが、何よりも生徒たちの自主性が試されるため、とにかくどこよりも自由度が高い。
しかも、持ち物に制約がないため、休み時間は体育館で体を動かす人もいれば、教室で携帯ゲームに没頭する人もいる。
もちろん、部活だって人数とやる気があれば誰でも創設することができる。(その自由度が人気の理由でもあるという説があったりなかったり……)
強盗の話と一緒にそんなことを考えつつ、通学路の最後の曲がり角に差し掛かったところで直斗はふとあることを思い出した。
「そういえば……さ」
「どうしたの? お兄ちゃん」
激しくデジャブを覚える光景だ。
フラグとは理解しつつ、あえて数十分前と同じ言動を取る。(役割は逆になっているが)
「今……何時だ?」
「八時……三〇分だね」
「…………」
「…………」
「「遅刻だぁぁぁぁぁ!!」」
何という事だろう……俺としたことが強盗の話に夢中になるあまり現在時刻を忘れていたとは……。
校門前で「お兄ちゃんのせいで遅刻しちゃったじゃん!」とお怒りの晴香と別れ、遅刻&妹の口撃でテンションが二段階くらい下がった直斗は校舎に向かいながら、
「そういやほんとに遅刻は初めてだったんだな……俺」
ふと呟き、慣れない手つきでインターホンを押し、担当の先生に玄関を開けてもらおうとした。
……その時だった。
「っ!?」
背後に気配を感じた直斗は、すぐさま体ごと振り向いた。
そこには帽子を目深に被り、サングラスとマスクをつけて、黒いパーカーを羽織ったいかにも「不審者」という出で立ちの中年男性が立っていた。もちろん面識はない。
「ちょっと兄ちゃん、金貸してくれねぇか」
見た目に似合う低く太い声で黒服の男はそう言った。
どことなく今朝のニュースで見た強盗に似ている気がする。
しかし、それよりもさっきまで背後には誰もいなかったはずだし、そもそもここは学校敷地内であって、常人ならこんなところで恐喝なんかしないはず……。
目だけを動かし助けを求めようとするが、不運なことに周りに通行人はいなかった。
「えーと、今ちょっとお金無いんで……」
諦めと共に発した語気は、不審者を挑発させるには事足りるものだった。
四、五メートルの距離を一気に詰め、右手をものすごい速度で突き出してくる。
それが右頬に直撃した直斗はそのまま数メートルほど吹き飛ばされた。
「がはっ……!」
肺から空気が押し出される。
「さっさと金を渡さねぇからこうなるんだよ。もう一発喰らう前に出した方が身のためだぜ?」
──どうする。所持金は本当に持っていないが、それを言ったところで通用しないのは先ほど身を呈して実証した。
となると残りの選択肢は二つ。
一つは逃げる。だがこれはかなり成功率が低い。なぜなら、彼の背中には校舎の玄関──ちなみにまだ開けられていない──、左右は壁に囲まれているため逃走には正面にいる黒服を一時的に怯ませる必要がある。
そしてもう一つの方法──これは考えたくもなかったが──は戦うこと。
剣道経験者である直斗からしてみれば、長い棒が手元にあれば素手を相手に勝てる自信くらいはある。しかし、彼が今持っているのは通学カバンくらいだ。
──こうなったら、カバンを投げつけてその隙に逃げるくらいしか……。
苦し紛れにそう考えつつ、思いっきりカバンを振りかぶった。
しかし、またも驚くべき現象が直斗を襲った。
手に持っていたカバンが突然、強い光に包まれたのだ。
「うわぁっ!!」
視界を奪われた直斗と黒服は手をかざして光を遮断する。
この一瞬で逃げることもできたのかなぁ、などと考えなかったわけではなかったが、彼自身も視界を奪われている以上、真っ直ぐ走れる自信がない。もし黒服にぶつかりでもしたら今度は何をされるかわかったもんじゃない。
そんなことを考えていた直斗は手の中のカバンが姿を変えていっていることに気づき、思考を止めた。
まずカバンの材質が布地から堅い木製へと変わり、次に形状が変わっていく。
光は僅か数十秒で収まり、直斗のカバンは光の中で使い慣れた竹刀に変化していた。
「え……!?」
見間違いじゃない。
突然の光、カバンの変形、そして竹刀の出現。
一体何が起こったんだろう?
しかし、これで形勢逆転だという事は確かだ。
直斗は握り慣れたグリップ部分を自分の方へ向け、刀身を黒服の男へと向ける。
先ほど起こったことを未だにを理解できていない黒服は目を丸くして立ち尽くしたままだ。好都合だが。
直斗は短く息を吐き、それとほぼ同時に右足を踏み出す。
姿勢を低くし、一瞬で黒服の懐に飛び込み、腰から右肩に切り上げるイメージを思い描き、実行する。
「……セイッ!」
「くそっ!」
流石に自分の置かれた状況を理解した黒服は回避しようとするが、もう間に合わない。
竹刀を振り上げる刹那、直斗は黒服のサングラスに覆われた目を見ることができた。
その目は……、閉じられていた。
諦めたのだろうか。確かにこの攻撃が通れば気絶するほどの致命傷を負い、彼が警察に通報でもすればこの男はもう終わりだ。
しかも、万が一この黒服が今朝の強盗犯だとすれば、直斗は奇妙な事件の犯人を捕まえた有名人になれるかもしれない。
そんな事後欲望まで考えつつ、刀身に全体重を乗せた。
だが直斗は、この黒服の目がまだ何かを企んでいるという可能性を捨てきれずにいた。
実際、その可能性はコンマ数秒後に現実となった。
そう……黒服の男がまるで粒子にでもなったかのように消えたのだ。
当然、直斗が振り上げた竹刀は空気のみを虚しく切り裂き、ブンッという短い音だけを残した。
「き……消えた」
竹刀を振り上げた姿勢のまま、直斗はそう呟いた。
ここまでくると、もう頭の処理が追いつかない。
人間が消えた。
一瞬のうちに。
一体どうやって?
そんなことが頭の中をぐるぐる回転しているうちにひとつの事件を思い出した。
「あっ……! 今朝のコンビニ強盗」
多分そうだろう。人間が消えるなんてことそうそう起こるもんでもない。そんなしょっちゅう起こられたら警察が気の毒だろう。
「ってことは、コンビニの強盗もあいつがやったのかな……」
そんな思考が頭をよぎる。
ま、まぁとりあえずカバンを竹刀に変える(?)ことによって窮地を救ってくれた命の恩人に礼をしたいと思い、辺りを見回した。
……しかし誰もいない。だが、心なしか視線だけは感じる気がする。
「あ、ありがとうございました」
直斗は誰もいない空間にとりあえず一礼し、静寂に包まれた校舎に入った。
真っ先に直斗が感じたのは、校内が随分と静かだということ。
「まぁ普通ならHRでもやってる時間だしな、急がないと」
靴を履き替えて勢いよく立ち上がり、カバンを背負……えなかった。
「…………」
竹刀のままだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!
「はい。結城君は遅刻ね」
教室に入るなり担任の戸田先生にそう告げられ、さらにテンションが一段階下がった。
もう一段下がるとメンタルに影響が出ると、とあるゲームで聞いたことがある。
「わかってますよ……はぁ……」
ため息混じりに一番後ろの席に着く。
ちなみに先ほどの竹刀。いくらこの学園に持ち物の制約がないとはいえ、危険物は厳重注意だ。
竹刀くらいなら部活で使うしいいんじゃないか? と思わなかったわけではないが、普通カバーか何かに入れて持ち運ぶだろう。
竹刀をそのまま持ち、しかも通学カバンを持っていないなんて、昭和の不良扱いされても文句は言えない。
よって、授業を半ば放棄するという形で(カバンが竹刀になっている以上、教科書類を取り出せないので)竹刀を職員室に預けた上で、こうして教室への入室を許されたわけだ。
──内申点とか下がってないといいけど。
そんな罰当たりなことを考えていると、さっき助けてくれた人に失礼だな、うん。
「朝からどうした? 結城よ」
前の席から発せられる、気さくな問い掛け。
「あぁ、島崎か」
彼の名前は島崎由人。高校に入ってから出会った数少ない友達だ。
成績はそこそこ、帰宅部のくせに運動も割とできる。
ここだけを聞くと、「素晴らしい生徒なんじゃないか?」とでも思うだろう。
しかし──
「朝からドラゴンにでも会ったか?」
──今の発言からもわかるように、とにかく言動、行動がいつもミステリーなやつなのだ。
と心の中で補完説明まで入れつつ、
「朝からそんな物騒なもんに会ってたまるかよ!
まぁ……今日はいろいろあったんだ」
「そうか、『朝から』ではなく、『朝まで』だったのか……」
すかさず皮肉をつけ加えてくる由人に対し、あえて冷静に宥める。
「それ以上言うな。俺たちはまだ高校生だ」
「私語は慎んでねー」
──ほーら、先生からの注意が……、
「結城君ー?」
──って俺かよ!!
「もう……夜に何をしていたのかは知らないけど☆」
教室からさざ波のようなざわめきが起こる。
そして、直斗は誓った。
この人だけは教師だと認めない、と。
直斗の小さな決意を知るよしもない戸田は、普段の調子に戻って話を再開した。
「それでは気を取り直してHRを始めます、……っと、その前に今日はこのクラスに 転校生が来ています」
──なんだって?
教室中が再びざわつく。
さっきのざわつきとはまるで違う。表すならば、数分前が嘲笑によるざわつきだったのに対し、今のは期待に満ち溢れたざわつきだった。
「それではセシアさん、入ってきて」
そう言われ、教室に入ってきたのは日本人離れした金髪翠眼の少女だった。
「それじゃ自己紹介をお願い」
担任がそう促すと、転校生はこくりと頷いて話し始めた。
「セシアと申します。よろしくお願いします」
セシアと名乗る少女は、その可愛らしい容姿とは裏腹にどこか機械的な響きを持つ高い声で自己紹介をした。
「じゃあ、席は……結城君の左隣が空いてるわね。そこ座ってねー」
「はい。わかりました」
担任の軽いノリにも真顔で対応し、クラスメイトに向かって一礼した後、直斗の方に向かって歩を進めてきた。……何故か無表情で。
転校生が正面から向かってくる。そのせいか、直斗は表情をうまく作れずにいた。
そんな緊迫したシーンであっても、由人は再び声をかけてくる。
「おっ、隣りだとさ。よかったな」
他人事だと思って……という反論はもちろん口にはしない。
「あぁ……そうだな」
代わりに適当な語選で受け流す。
だがそれは、由人をヒートアップさせる結果になってしまった。
「フラグか? フラグなのか?」
「黙れ」
相変わらず余計な一言が多いやつだ。
そんなことをやっているうちに、転校生が直斗の横を通り過ぎようとしていた。やっぱり無表情だ。
直斗の隣りで、静かに椅子を引いて座る音がした。
そして、一息つこうとした直斗の左肩をぽんぽんと叩いてきた時は、心臓が止まりそうになった。
「どうした? せ、セシアさん……だっけ?」
「うん。よろしくね」
と、ご丁寧に挨拶してきた。
もちろん、初対面の相手を無下に受け流すこともできまい。
「お、おう。こちらこそよろしくな」
転校生改めセシアさんがもっと無愛想だと思ってた直斗は突然のご挨拶に一瞬返すのが遅れてしまった。
そして、これが直斗とこのセシアという少女の出会いだった。
「それではHRの続きを始めます。今日の連絡事項は……」
先生が話し始めてからもクラス中の視線は金髪のお隣さんに集まっていた。
「スタイルいいよねー」だとか、「金髪だねー」だとか男女隔てなく小さな声で話しているのが嫌でも聞こえてくる。
そして直斗の前に座る由人も例外ではなく、
「転校生か。俺の右手が共鳴しているように見えないか……?」
視線を自分の右手に固定したまま、由人は直斗に問いを投げる。
「いや。してないから安心しろ」
と、きっぱり返事を返す。
由人は一瞬寂しそうな顔をしたが、すぐに表情を一変。神妙な面持ちになって話を続けた。
「それはそうと、あの転校生……きっと何か大きな秘密があるに違いないぞ」
……悔しいことだが、こいつの情報力、洞察力を活かした推察が外れたのを、直斗は一度たりとも見たことがない。
「な、何を隠してるっていうんだよ?」
半信半疑でそう聞き返すと、
「今はまだわからん。ただ、今日は少し風が騒がしかっただけだ」
「へ、へぇ〜……」
風が騒がしい……ねぇ……。
どうやら今回は由人の推理が外れる珍しい瞬間を拝めるかもしれない。
そこまで考えて、再び由人の顔を見ると、いつもの怪しげな(?)笑顔に戻っていた。
「さて話は変わるが、今日の放課後に俺の家で勉強会でもしないか?」
だいぶ話が変わったみたいだが、いちいち突っ込むのも面倒なので今回も放置。
「勉強会?」
突っ込む代わりにそう問い返す。
「ああ、期末考査も近いことだし、互いの学力向上のためにもな」
すっかり忘れてた、なんて事は言うまでもあるまい。
こいつは確かに普段はどうしようもないアホだが、勉強となると割とよくできる方だ。直斗自身、よく勉強を教えてもらっている。
直斗は、自分に特に被害がないということを判断し、由人へと答えを返した。
「わかった。じゃあ放課後すぐお前ん家行くからな。ちゃんと部屋片付けとけよ」
そう早口でまくし立てると、
「あ、ああ。了解した」
と、一瞬戸惑ったかのように答えた。
直斗は、由人の家に何度か行ったことがあるが、いつも意味不明な魔法陣やら包帯やらで部屋が散らかっているのだ。
この前行った時は、魔法陣の上に変なローブを着たぬいぐるみを乗せて、謎の術式らしきものを呟いていたものだ。本人曰く守護霊を召喚? したいんだそうだ。
「まぁ、せっかくだしほかのやつも呼ぼうぜ」
直斗はそう言いつつ右隣を振り向き、
「優奈、お前も一緒に放課後に勉強会やらないか?」
彼女の名前は星宮優奈。いつも黄色の髪留めを付けている、直斗の幼稚園からの幼馴染みだ。
弓道部に所属していて運動も得意だし、成績も直斗や由人なんかより全然高い。
そして、直斗の悲惨な過去を知る数少ない人物でもある。
もちろんそんな彼の脳内解説を知るよしもない優奈はいつものように明るく答えた。
「ごめんっ! 今日は部活あるんだぁ」
優奈は両手を合わせて頭を下げながらそう答えた。
確か弓道部は大会を目前に控えていたはずだ。優奈にとっては高校に入って初めての大会でもあるため、少なからず気合いが入っているのだろう。
「そっか、今度また一緒にやろうな」
「うんっ!」
数秒前の沈んだ表情からは打って変わって、満面の笑みでそう答える。
直斗はいつもこの表情を見て思う。
──相変わらず元気だなぁ、と。
彼の前にいる闇の根源──本人に言ったらなんか喜びそうな気もするが──とは大違いだ。
そんな光と闇の対比をしているうちにHRも終わり、一時間目が始まろうとしていた。
HR終了の挨拶と共に担任が教室を出ると、クラス内ではいろいろな反応がある。
大きく分けて二種類の反応があり、一つ目は「これから一時間目かぁ……」と悲痛な叫びを上げるもの、終いには教室を出て屋上へと足を運ぶ生徒も最近では増えつつある。
二つ目は、真面目に授業を受ける準備を始めるもの。
とはいえ、授業の準備をする人の中でも、「真面目」と「真面目(?)」がいる。
前者は置いておくとして、後者のいい例がちょうど直斗の目の前に存在している。
「なぁ……結城……、俺たち友達だよな?」
大体どこの世界でも、授業前に突然「俺たちは友達」発言をするやつは、総じて同じ目的を抱いている。
由人の意図を先回りして理解した直斗は、あえて皮肉を含めた口調で答えた。
「あぁ、だが残念ながら教科書は貸せないぞ。
そもそも俺たち同じクラスだし、借りるなら他クラスから借りてこい」
「そんなぁぁぁぁぁ!」
大げさに叫ぶ由人を哀れみながら、直斗は立ち上がり軽く伸びをする。
ふと、どこかうろついてみようかな。という気分になる。
別に授業をサボるつもりはない。ちゃんとチャイムが鳴ったら教室に戻るつもりだ。
ふらっと席から離れた直斗を、優奈がポニーテールを揺らしながら呼び止める。
「どこか行くの? 直斗君」
何て答えようか一瞬迷ったが、一番無難な答えを返すべきだと考えた直斗は、軽い笑みを作りながら振り向きざまに返答した。
「あ、あぁ。ちょっと廊下うろついてくる」
「いってらっしゃーい」
特に訝しむこともなく直斗を送り出した優奈に対し、直斗本人は僅かな悪戯心を覚えた。
「おう。あいつのこと頼むな」
優奈の左斜め前で、泣きじゃくる彼の友人を指さしながらそう言った。
「う、うん……」
微妙な表情(作り笑いの一種?)と共に頷いた優奈を後目に、直斗はゆっくりと教室を後にした。
「今日は朝からいろいろ疲れたなぁ……」
賑やかな廊下に出るなり、直斗は今朝起こった事件の数々を思い返す。
変な感じの夢、妹に殺されかけたこと、そしてニュースで見た強盗との対峙……。
高校生になって早くも七ヶ月近くが経過したわけだが、こんなに忙しいと思える日は初めてだ。
──まぁ、暇なよりはいいんだけどさ。
ぼーっと罰当たりなことを考えながら歩き続け、気がつくと長い廊下の端まで来てしまっていたらしい。
目の前にはもう白い壁と「清掃用具室」と記された部屋に通ずる扉しか存在していなかった。
「あれ? もうこんなところまで来たのか。
急いで戻らないと授業始まるな」
ひとりごちながら踵を返し、歩いてきた道を引き返そうとした時だった。
「……ん?」
何となく自分の体に不穏な違和感を感じた。
何だろうか。この今までに感じたことのないような違和感。しかも今になって突然起こった違和感じゃない。いつから……そうだ、今日の朝、晴香に夢から引きずり出された時から……。
今まで特に気にしていなかったせいか、不安が急に俺の心へと襲いかかる。
こういうのは所詮心の持ちようというものだが、昔から直斗はメンタル面が人一倍弱いと周りの人たちから言われて育ってきた男だ。
「まぁ、教室に戻って授業を受けてれば忘れるよな、うん」
廊下の一番端という何とも格好のつかない場所でそう呟きながら、直斗は教室に戻る足を早めた。
途中に何度か他クラスの生徒や教師と衝突しそうになったりもしたが、今の彼にそんな些細なことを気にしている余裕などあるはずもなかった。
だんだん気が遠くなるような感覚と葛藤しながら、長い廊下を三十秒ほどで走破──正確には走っていないが──する。
教室に入ると、いつもと変わらない日常の光景が直斗の目に映る。
──優奈がいて、島崎がいて、そして他のクラスメイト、教科担任も既に来ている。
そう思って心を落ち着かせようとしたのだが、未だに違和感は消えず、むしろ先ほどよりも強いものになっていた。
自分の体が、自分のもので無くなったような感覚。
最後に彼が感じたのは、そんな感覚だった。
「直斗君、どうしたの?」
「結城、お前……」
二人の声が聞こえた気がした。
しかし、直斗はその声に返答することができず、身体の平衡感覚を失うのとほぼ同時に倒れた。
そして、彼にはその後数時間の記憶が無くなっていた。
まるで、誰かに操られているような感覚と共に……。