誰も知らないその時間
「だれもしらないその時間」
悲しいとは言わない。
そんな感情に気付かれたくない。
苦しいとは言わない。
プライドが許さない。
公園には冷たい風が吹いていた。
夏が近いとはいえ、もう日が暮れてしまったのだから、当然と言えば当然だ。
半袖のTシャツから伸びている桐枝の細い腕には、鳥肌がたっていた。
それでもまだここを離れるつもりはない。
見慣れぬ公園は、緑と露のにおいでいっぱいだった。今日は昼まで雨が降っていた。この広い公園も、一面濡れてしまったんだろう。桐枝がここに着いた時にはもう雨は上がっていたが、公園内を埋めるようにに茂っている、とうに花の終わった桜も、色づくには早すぎる銀杏も、深緑の葉に水たまりを乗せていた。
ベンチに腰かけると、まだ濡れていたらしく、真っ黒なズボンの色がまた少し暗くなった。
隣のベンチには中年の男性が座っていた。たぶん帰る家はないのだろう。悲しげな空気をまとっている彼は、相席中の汚い野良猫を優しく撫でていた。
バイブが鳴った。
『もしもし桐枝? 明日どこで待ち合わせにするー?』
うーん、この前とおんなじトコがいいなー
『あーあの3番出口のとこ?』
うんそうそう。
『おっけー。じゃぁ十一時でいい?』
十一時ね。りょーかいっ! じゃ、明日ねー。
『うん、また明日ー』
ケータイを閉じて数秒すると、サブディスプレイから明かりが消えた。
隣のベンチに座っている彼は相変わらず猫をなぶっていて、桐枝の声がなくなった公園には再び静けさが戻ってきていた。
見上げた夜空には深い色の雲が漂い、その隙間からは星のない藍色が覗いていた。
多分明日には、桐枝は鮮やかな色の服を纏い、乾いたアスファルトの上を友人と共に踏みつけていくだろう。
何百、もしかしたら何千という人とすれ違い、横隔膜を揺らして高い笑い声をあげるのだろう。
それでも彼女は思っている。
誰か
私の爪が黒く染まっていることに気がついて
いつもより大きな音で音楽を聞いていることに気がついて
桐枝はベンチから立ち上がり、あかるくかがやく駅へと向かって歩き出した。