三
「あ」
唐突に彼女の鋭い悲鳴が聞こえた。視界が激しく揺れる。
なにかに気づいて彼女が走り出したのだ。
揺られながら僕は彼女がなにを見つけたのかと視線をめぐらす。人だ。大勢の人が森の中に。こんな雨の日にどうして?
「警察よ」
彼女が声を潜めて言う。警察? 警察がどうしてここに?
「さあね」
走りながら彼女が苛立った声を返す。
彼女は彼らに見つからないように走っているみたいだ。どうしてここまで必死に――やっぱりそうなのか。僕をこんな形にしたのは、彼女、なのか?
信じられないことだけれど、どうしてかすごくしっくりきた。たびたび感じた彼女に対する奇妙な感覚はこの真実を僕が受け入れられずにいたからだ。
彼女の足が少しずつ緩やかになる。警察から大分距離を取ったからだ。
彼女が足を止めるのを待ってから僕は口を開いた。
君、なんだね。僕をこんな風にしたのは。
僕の問いかけに彼女が目を丸くした。
「なにを言ってるの?」
だって、君はさっき言っただろ。もう少し奥だったかなって。それって僕の身体を置いた場所のことじゃないの?
僕の言葉に彼女がハッと息を飲む。
どうして、どうしてなんだ? 聞きたくないけれど聞かなければいけないことだ。彼女がどうしてこんなことをしたのか。
彼女が唇をかむ。僕の方を見ようともしない。
僕は黙って彼女の言葉を待った。心の中で否定してくれと思いながら、僕の馬鹿げた考えを笑い飛ばしてくれと思いながら。
「ふふ」
彼女が低く笑った。それは本当に暗い声だった。笑い飛ばすなんて類のものじゃない。奥底に潜ませた闇を音として発したかのような笑い声だった。僕はゴクリと息を飲む。
「それを知ってどうなるの?」
彼女が僕を見ている。まるで別人のような顔で。
「あなたが知るべきことじゃないのに」
嘲るように彼女が言う。
僕は当事者だ。知らなくちゃいけない。僕は彼女を強く睨む。
「確かに、その通りかもしれない。でも、知らなくてもいいことはこの世界には一杯あるでしょ?」
彼女の言い分にだんだんとイライラしてきた。
どうして彼女はいつもいつも僕をイラつかせるんだ。
「いいから教えろよっ!!」
怒声が森中に木霊した。彼女が警察を気にするように視線を動かす。
その時、携帯が鳴った。ずいぶん、奥地だけれど圏外ではないらしい。
彼女が携帯に意識を移す。ディスプレイに表示されているのは中江さんだ。相変わらず、空気の読めない女。
「もしもし」
『……』
かけてきたくせに中江さんは何も答えない。
「もしもし?」
『ミキのことなんだけど……』
挨拶もなしに中江さんが切り出してくる。唐突に名前を呼ばれて僕は身を固くした。彼女もそうだ。
『卓と会って話す』
「え?」
『最後に電話で話した時、ミキ、そう言ってた』
「……誰と、会って話すって?」
声が震えている。頭の中で警告音が鳴り響く。
聞く必要のないことだと知らなくていいことだと、分かっていた。けれど、聞かなくてはいけないということもまた分かりきっていた。
『失踪する前の日、ミキはあなたに会いに行ったのよ』
「……ミキが僕に」
『……あなたじゃないよね?』
どこか怯えを含んだ声で中江さんが言う。
受話器越しに聞こえてしまうんじゃないかと心配になるほど、心臓が激しく鼓動する。
『変なこと聞いてごめんなさい』
黙っている間に中江さんが謝罪の言葉を口にする。
何に対しての謝罪なのか。僕の喉はからからで言葉はそこに張り付いて外に出てこない。
『もう、切るね』
まるで逃げるようにプチッと電話が切れた。
なにがなんだか分からなかった。
彼女は黙ったままだ。当たり前だ、だって、彼女は――
足が動き始める。視界が激しく揺れる。走っている。
砂漠の中でオアシスを見つけたかのように、なにも見えない闇の中で一筋の光を見つけたかのように、足がただ1つの場所を目指して、動く。動く。動く。
ゴロゴロと不機嫌そうに空がなり、雨足が強くなってきた。