二
――――――――――――――
―――――――――――
―――――――
お風呂から上がって、彼女が体を拭いて服を着る間、僕はやっぱり洗面器におさまって。
「お待たせ」
そう言って、彼女が僕の顔と髪をタオルで拭いてくれた。そして、仕上げというように妙なスプレーを僕に噴射した。
これなに? と僕が目で問うと彼女は短く「消毒」と答えた。
消毒……自分が汚物扱いされているような気がして彼女にムッとした目線を送ると、彼女は少し慌てたように「念のためよ。虫とか沸かないように」と弁解した。
まあ、それもそうか。確かに生首である自分から変な虫が沸かないとも限らない。それは我ながら気持ち悪い。僕は納得して消毒液を全体に浴びた。
消毒も済んで綺麗になったからか、彼女は抵抗なく僕を小脇に抱え、テーブルにタオルを敷きその上へ僕をおいた。お風呂に入る前まで包まっていた新聞紙をくしゃっと丸めてゴミ箱へ。
「よし、完璧」
彼女が一仕事終えたようなスッキリした笑顔で手をはたく。僕に手が合ったら彼女とハイタッチしたいくらい同感。完璧だ。
ありがとう、と伝えると彼女は嬉しそうに微笑んだ。
ようやく一息ついたところで僕は彼女がいない間に見た夢の話を彼女にしてみた。深い深い森の奥で自分が切断される話だ。
自分で話していてもあまり気持ちのいい話ではないのだから彼女はもっとそうだったのだろう。話の途中で彼女は何度か眉を寄せた。そうして、僕の話を最後まで聞き終えると彼女は思案気に視線を宙に泳がせた。
「……その、夢で見た場所にあなたの体があるのかしら?」
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
僕の返答に「はっきりしないのね」と彼女が落胆したような溜息をついた。
夢の話だし仕方がないだろ。僕は口を尖らせる。彼女が肩を竦め、まるで子供をあやすように僕の髪をクシャクシャと撫でた。
「もう少し具体的なヒントでもあればいいんだけど……森の奥だけじゃ、探しようがないわよ」
ごもっともな意見だった。
僕はそうだね、と返事をして押し黙った。変な沈黙が訪れる。気まずいとも違う、なんとも言いがたい空気だ。
僕の髪を撫でている彼女の手が緩やかに動き、僕の頬に、耳に、触れる。
僕は彼女を見つめた。蝋人形のように白い肌。強い意志をもった瞳。僕は世界が彼女と僕の二人きりで構成されているような錯覚に陥る。
その時、けたたましい音が室内に鳴り響きしじまが破られた。
彼女が慌てて僕から手を離す。おかげで僕は横にゴロリと倒れた。そのことにも気づかずに彼女は音の発信源をバッグから取り出す。携帯だ。
彼女はディスプレイを確認すると、一つ深呼吸をしてから通話ボタンを押した。それから僕の目を気にするように部屋を出て行く。
でも、薄いドアのせいでその行動はあまり意味をなさなかった。ちょっと意識すると、ドアの向こうから彼女の声が漏れ聞こえてくる。いけないことだとは思いつつ、ついつい聞き耳を立ててしまった。
電話は彼女の友達からだった。知っているような気もする声だった。もしかしたら、会ったことがあるのかもしれない。「大丈夫?」としきりに彼女に聞いている。
その言葉に込められた意味を考えているかのようにやや逡巡して彼女は「うん、大丈夫」と潜めた声で頷いていた。
なんだろう? なにかあったのだろうか? 少し心配になる。僕の心配を他所に彼女たちの会話は続いている。
僕はふと疑問を抱いた。あまりにも彼女たちの声が聞こえすぎる。彼女の声はいいとして通話口の向こうの声までしっかりと聞こえるのはどういうことだろう?
どこかが不自由になるとそれを補う為に他の感覚が研ぎ澄まされるという話は聞いたことがあるけど――これはもう異常ともいってもいいくらいだ。
とはいえ、首だけでこれほど意識がはっきりしていることに比べたら、大したことのないように感じられるのも事実だけれど。
『……ねぇ、一つだけ聞きたいことがあるんだけど』
「なに?」
『……もしかして、知ってた?』
「……」
『ミキちゃんが居なくなっちゃったこと』
ミキちゃん!? その名前に僕は頭をガンと殴られたかのような衝撃を受けた。彼女もそうだったのだろうか。少し押し黙ったあと彼女は「うん、その、電話が繋がらなかったから……」電話の向こうの相手になるたけ心配させないようにという配慮をしているのだろう、いつもどおりの声を作って答えた。
『そっか……そうだよね。ミキちゃんとは仲良かったもんね』
その言葉にはなにか別の意味が含まれているように感じた。
ミキちゃん。頭の中で反芻する。白い幻が脳裏を過ぎる。それがなんなのか分からない。ただとても大事なことのように思えた。
「別に、ミキとはそんなんじゃ……」
彼女が動揺を隠すように精一杯繕った声を出す。それでもどこか不自然な返事。
その明らかに上擦った声を聞いた電話の向こうの相手は『ごめん……』激しく沈んだ声で謝罪した。
「ううん……電話、ありがと」
『元気出してね。まだ、どうかなったって決まったわけじゃないから』
「うん」
頷いて彼女が通話を終える気配がした。
僕はなにも聞いていないというような顔で彼女が部屋に戻ってくるのを待つ。
数秒もしないうちにドアが開かれて、携帯を握り締めた彼女が入ってくる。
表情に陰りが見える。なにか真剣に考えているようでもある。声をかけるのが躊躇われた。
先ほどの会話の内容からして彼女の身の回りでなにかが起こっているのは明白だ。それだけでも大変だろうに、その上、僕のような厄介者まで引き受けて――
「あ」
彼女が思い出しように僕を見やった。そして微苦笑を浮かべる。
「ごめんね。辛くなかった?」
言いながら、彼女は横に転がったままの僕を立たせてくれた。自分でも忘れていた。平気だよ、僕はそう答え彼女の様子を窺う。
「……さっきの電話、友達からだったんだけど」
聞きもしないのに彼女が口を開いた。まるで僕が盗み聞きを知っているかのようだ。なんとなく気まずくて、彼女の目を真っ直ぐに見れない。
「当たり前だけど、心配してた」
そこで溜息を一つ。
話の流れがよく見えない。僕が眉を寄せたのが分かったのか彼女は疲れたような顔で「あなたのことよ」と言った。
あなたのこと? なにが? どういう意味だ? 話が全く見えなくて、僕は目を白黒させる。そんな僕に止めを刺すかのように厳かに彼女が僕の名前を呼んだ
ミキ、と。
窓の外で大きく雷鳴が響いた。
カーテンの向こうの世界が白く光った。
瞼の奥で、僕は僕が切断される光景を見た。僕の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。
――――――――――――――
―――――――――――
―――――――
「大丈夫?」
どうやら僕は放心していたようだ。彼女が心配そうに顔を覗き込んでいる。
大丈夫、と言おうとしたけれど、全く大丈夫ではないので言えなかった。
自分の体が切断されていく光景が頭から離れない。怖くて仕方がない。もし、僕に体があったら彼女にしがみつきたい気分だった。
「ごめんね。ずっと言おうと思ってたんだけど、なんだか言いそびれちゃって」
恐怖に震える僕をそっと彼女がかき抱く。彼女からはもう僕に対して気持ち悪いとかそういった感情は感じられない。
彼女の温もりのおかげで僕は少しずつ冷静さを取り戻す。
僕は彼女の腕の中から彼女を見上げる。彼女が「ん?」と小首をかしげた。
僕はミキなの? と問いかけると彼女は言葉では表現しがたい複雑な表情で頷いた。
「いきなり僕っ子になっててビックリした」
そうか。僕は……いや、私は……やっぱり僕でいいや。その方がしっくりくる。
「気づいてないみたいだったし、どう言ったらいいのか分からなくて……それに、言葉遣いよりももっと驚くことがあったから」
すこし揶揄するような調子で彼女が言葉を続ける。僕は少しだけ微笑んだ。
確かに、この姿は言葉遣いの違和感を吹き飛ばしてしまうだけのインパクトはあっただろうから。
そっか、と僕は頷いて彼女の知っている僕のことを聞いてみた。
「んー、ミキはすごくいい子だったよ。あ、別に今あなたがそういう状態だから言ってるわけじゃないからね。本当にいい子だった。なんていうか優しくて……学校でも苛められてる子とかにも声かけたりしてさぁ。普通、そういうことすると標的が自分になったりするじゃない? でもそんなこともないくらい、みんなから好かれてたの」
聞いていて、今はないはずの体がむずがゆくなった。ちょっと過大評価って言うか褒めすぎ、だと思う。それが自分のことだとは到底思えなかった。
これ以上聞いてたらこっ恥ずかしくて死ねる、生首だけど。そう思って、 つまり、僕と君って同級生だったんだね、僕は放っておいたらまだまだ持ち上げてきそうな彼女の言葉を遮った。
「……え、ええ、そう。高校の同級生。大学は別だったけど、その時はバイトが一緒だったから、まあ長い付き合いよね」
ふぅん、と相槌を打ったけれどなにかが腑に落ちない。
さっき一緒にお風呂に入った時に感じた気持ち。僕は彼女を愛していると思った。
それは自分を男だと思っていた僕のただの勘違いとしても、あの電話での会話。僕と彼女の間には絶対になにかがあるはずなんだ。
それだけ? と僕は追求の言葉を口にした。彼女の眉根が微かに寄せられる。
「……どういう意味?」
いや、なんとなく……もっと深い付き合いかと思ったから。鋭くなった彼女の目線に少し口ごもってしまう。
「深い付き合い、ね」
彼女が自嘲的な笑みを浮かべて首を振る。
「そんなことないわよ、少なくともミキはね」
僕はと限定したってことは彼女は違うってことだろうか?
僕の疑問が分かっているはずなのに彼女は言葉を紡がない。ただ押し黙ったまま僕の髪を掻き混ぜる。
その手は優しく、その手は恐ろしい。なぜだか分からないけど酷く吐き気がした。
「今日は疲れたわね。あなたの体の件はまた明日話しましょう」
どこか無感情に言うと、昨日と同じように僕をテーブルに置いて彼女はベッドに潜った。
「おやすみ」
囁くような声とともにまた雷がとどろいた。