一
瞼の裏に感じる淡いひかり。烏のけたたましいがなり声がすぐ近くで耳に届いた。
ハッとして目を覚ます。カーテン越しに僕を起こした烏の影が揺れ動いて見えた。
僕は隣のベッドに目をやる。彼女はまだ怠惰な眠りの世界にいるようだ。
その枕元にある時計に目を凝らす。短針は6時の前を指している。
彼女の仕事が何時からかは分からないけれど、さすがにまだ目を覚ますには早いということだろう。
徐々に頭が覚醒していく。そして、僕は嫌なことを思い出す。
朝だ。朝なのに――悪夢は覚めなかった。やっぱり僕は生首で。つまり、この状態は夢じゃあないってことらしい。心の中で激しい舌打ち。
一体、僕の首から下はどこにあるんだろう? 彼女が起きたら、僕の体の捜索を頼んでみようか。
そう思いついたのと同時に、目覚ましのベルが部屋に鳴り響いた。
ベッドの中の彼女が小さく唸って身動ぎをする。のそのそと手が動いた。僕にはない手を少し羨ましく思う。
彼女の手が枕もとの目覚まし時計に伸びる。カチッと音がして、部屋はまた静かになる。
彼女が起きたのはそれから数十分後。目覚ましの意味はあったんだろうか?
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―――
「……おはよう」
目を覚ました彼女は僕と同じように今の状況が夢じゃないことを知り、少しだけ残念そうな顔をした。昨夜みたいに顔色が悪くなるようなことはなかったのが救いかな。
「あなたのこと、どうしたらいいのかしら」
溜息混じりのぼやき。僕はそれに対して、先ほどの思い付きを伝えようと努力する。
彼女はそんな僕を見やり「あなたの体を捜せって?」と、信じられないことを言われたとばかりに目を見開いた。やっぱり彼女には僕の思っていることが伝わるようだ。
「そんな無理難題押し付けられても……」
眩暈がしてきたのか、彼女は額を押さえる。
そう言わないで協力してほしい。僕は必死で訴える。
もしかしたら、体が見つかった途端、どうしてこうなったのか分かるかもしれないじゃないか。僕のそんな思考に彼女は首を振りながら立ち上がった。
「ちょっと待ってて。頭を冷やしてくるわ」
そう言って、洗面所の方へ。
顔を洗いに行ったのかと思ったら、シャワーの音が聞こえてきた。
彼女のシャワー時間がどれほどのものか分からない。ただシャワーのすっきり効果で、僕の体の捜索について、前向きに検討してくれるようになれば幸いなんだけどな。
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数十分ほどしてさっぱりした顔で彼女が戻ってくる。仕事に出る準備も既に終えているようだ。ビシッとしたスーツを着ている。
彼女はメイクをしながら、鏡越しに僕を見て、小さく溜息。
もしかしたら、捨てられるかもしれないな。そんな風に思ってしまうほど彼女の眼差しは僕という存在を持て余していた。
彼女はしばらく無言でメイクを続ける。
「どこにあるのか心当たりはあるの?」
ややあって、彼女が不意に僕に問いかけてきた。
心当たり? それが身体の事について聞かれているのだと気づくのに少し時間がかかった。それくらい彼女の問いは唐突だったのだ。
僕は心当たりについて考える。結論は『ない』だ。そんなものがあればとっくに伝えている。
「それじゃあ、探しようがないじゃない」
僕の答えに彼女は深々と嘆息した。そう言われると、僕も返す言葉がない。
「とりあえず、仕事に行ってくるね」
ややあって、思い出したように時計を確認した彼女が慌てて立ち上がり、下に敷いてあった新聞紙で僕を包んでくる。
やっぱり捨てられるんだ。新聞紙の上を結ばれる前に、じと目で彼女を睨むと「だって、私がいない間、部屋の真ん中に生首があるなんて嫌なんだもの」彼女は捨てるわけじゃないと弁解するように早口で言った。
新聞紙がしっかり閉じられて、僕の視界は暗くなる。ふわっと浮き上がる感覚。どこかに運ばれているようだ。
空気が少しひやりとして、さらに視界が暗くなる。暗いと言うより黒。真っ暗だ。
「アイスボックスみたいなのを買ってくるから、それまではここで我慢してて」
彼女の声。その言葉に、僕は少し安堵する。
どこにしまわれたのかは分からないけれど捨てられるわけではなさそうだ。
ありがとう、と伝えてみる。返事はドアの閉まる音だった。
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冷たい地面にドサリと投げ捨てられた。意識はしっかりしていたが体は鉛のように重く、自分の意思に反して動いてくれない。なにしろまばたきさえできないのだ。生きながらにして死んでいるような気分だった。
不意にひやりとした刃の感覚が喉元を滑る。ぎざぎざとした刃だ。けれど、それがなんなのか確かめる術はない。眼球も動かないのだ。
僕は仰向けに転がったまま、ただ光を遮る木々の葉擦れの音を聞いていた。さわさわさわさわ。その音に混じってギコギコとなにかを刻む音がする。刃が皮膚に食い込んでくる。痛みは感じない。
わっと悲鳴を上げて目を開けると視界は真っ暗だった。
目を開けているはずなのに何も見えない。僕は忙しなく視線を彷徨わせ、少しして思い出した――今の自分の状況を。
つまり、僕が生首だということ。彼女が帰ってくるまでどこかに仕舞われていること。だから、視界は暗くて正解なのだ。僕は新聞紙でくるまれているのだから。
あんまり真っ暗だったからうっかり眠ってしまっていたのだ。
生首が眠るなんて変な話だけど……ともかく、さっきのは夢だ。あまりにもリアルな、リアルすぎる夢。
変な汗をかいて髪の毛がおでこに張り付いているような気がする。気持ち悪くて髪を掻き揚げたいけれど、手がないから出来ない。不便な体だ。
溜息をついて気を取り直すと、僕はさっきの夢について考えることにした。
あれは、もしかしたら、生首になる前、実際に僕の身に起きた事なのかもしれない。
誰かが僕の胴体と頭をのこぎりかなにかで切り離そうとしていた。今、思い出しても嫌な夢だ。
でも、僕の胴体がどこにあるのかという手がかりにはなるかもしれない。夢の中でみた風景を思い浮かべる。
あれはどこかしらの森の奥のようだった。光さえ届かないほど空を覆うようにして木々が揺れていた。
風景ははっきりと思い出せるのに、どこなのか分からないのがもどかしい。彼女に話したらなにか分かるだろうか? 山のガイドみたいな本を買ってきてくれるかもしれない。一緒にそれを見て、ここだと思える山が見つかればいのだけれど……そうそう上手くはいかないだろうから期待はしない。ただ無策に走るよりはマシだと思っておこう。
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「ただいま」
また少しうとうとしかけたところで、壁一枚を隔てた向こう側から彼女の疲れたような声が聞こえた。
おかえり。この距離じゃ、通じそうにないけど、一応、心の中で返事をする。
カーテンが閉じられる音、なにかを置くような物音がして、不意に視界に明かりが漏れ入ってきた。そして、ふわりと体が浮き上がる。テーブルの上にまた移動しているみたいだ。
「暑かったよね? 大丈夫だった?」
僕を包む新聞紙を開きながら彼女が心配そうに問いかける。
暑さは大丈夫だったけど、今まで真っ暗な闇の中にいた僕にはただの蛍光灯の明かりが辛いものになっていた。
新聞紙という防御壁が完全になくなると目がチカチカして彼女の姿がぼやける。こういう時はまばたきを何度かしたらいいんだろうけど、僕の目は見開かれたまま動かない。
「アイスボックス買ってきたから、明日からは快適になると思うわ」
言いながら、彼女が床に置いていたものを僕に見えるように持ち上げた。
僕はぼやぼやとする視界のまま彼女の手にある四角い箱を凝視した。そうしていると、段々、視界がクリアになっていく。
彼女が用意してくれたアイスボックスはなかなか大きく、入ってみないことにははっきりとはいえないけど居心地は悪くなさそうだった。
ありがとうと伝える僕の表情の変化に彼女が少し嬉しそうに微笑む。それから少し考えるように手を口元にやった。その目は僕をまじまじと見ている。
「このまま入れるわけにいかないよね」
どうして?
「自分じゃ分からないと思うけど……」
彼女は言い辛そうに口を開く。
どうやら僕はかなり汚れていて、且つ、匂うらしい。やんわりと告げられたけれど、結構ショックだった。
「まあ、洗えば大丈夫だと思うから」
僕を気遣うように彼女が言う。
洗うって彼女が、だろうか? いや、彼女しかいないけど。昨日までじかに触るのも嫌がってたくせに、大丈夫なのか? 心配だ。やっぱりイヤだって放り投げられたらたまったもんじゃないし。
「それより、先にご飯にしていい? 私、お腹空いてるの」
僕の不安など知らない彼女は返事も聞かずにキッチンに向かってしまう。
そうして、炊き立てのご飯とありあわせの材料でつくった野菜炒めとインスタントのお味噌汁をお盆に載せて僕のいるテーブルに戻ってきた。
生首を肴にご飯か。どうやら彼女は今日一日の間で随分と肝が据わったみたいだ。この様子だと洗われていて放り投げられることもなさそうだと僕は胸を撫で下ろした。
「あなたも食べる?」
彼女が薄笑みを浮かべてキャベツを僕の前にチラつかせる。
食べたくても生首の僕には消化管がない。彼女のわざとらしい嫌味に僕はムッとして見せた。
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「さて」
食事を終えて後片付けを済ませた彼女は意を決したように呟いた。その目が僕をじっと見つめる。
「あなたを洗いましょうか」
よいしょ、と掛け声をあげて彼女が僕を持ち上げる。
なんだかドキドキしてきた。僕の顔は赤面していないだろうか、心配だ。生首に恥ずかしいもくそもないけど。
連れてこられたお風呂場。
とりあえず、といった風に彼女が僕を洗面器の中に置く。
うん。中々、いい座り心地だ。なんてことを暢気に思っていると、目の前で彼女が服を脱ぎ始めた。目が点になる。まさか一緒にお風呂に入るのか?
驚愕の視線を感じたのか、彼女が怒ったように「そんなにマジマジ見ないでよ」と眉を寄せる。
見える位置に置いたのは彼女なのに――あまりにも理不尽だ。そう伝えたけれど、彼女は僕の文句など聞きもせず脱衣を済ませ、タオルを巻いて浴室に入ってきた。
まるで混浴。ないはずの心臓がバクバクしてくる。そういえば、前に温泉に行った時もこんな感じだったような――あれは誰と行ったんだっけ? 彼女、かな? もし、そうなら僕と彼女は結構深い関係ってやつだったんじゃないだろうか? それなら彼女が僕の前で服を脱いで、今一緒にこうして浴室にいるのも合点がいく。でも、恋人の生首とお風呂って……考えにくいよなぁ、普通。
「お湯掛けるよ?」
考えを巡らせている間に、彼女はシャワーを手にしていた。
僕が頷くと、頭の天辺からお湯の飛沫が振ってくる。心地よい温かさに満足していると、彼女の指が恐る恐ると言った風に僕の髪を擦り始めた。
どうなっているかよく分からないけど、かなり気持ちが悪い感触なのだろう。彼女の表情がそれを物語っている。なんだか申し訳ない。
「シャンプー使って大丈夫なのかな」
汚れが取れないのか彼女が難しい顔で呟く。
どうなんだろう? 変な化学反応を起こしたりはしないと思うけど。僕が答えると、少しの逡巡の後、彼女はシャンプーのボトルを手に取った。
洗面器がクルッと回されて、僕は彼女に後頭部を向ける形になる。彼女がどうしてそうしたのか気になったけど、しゃかしゃかと頭を揉み解される気持ちよさにそんな疑問は氷解してしまった。
すっかり泡立った僕の髪を彼女が丁寧に洗い流していく。
「よし」
綺麗になったのか、彼女が満足げな声をあげた。そしてまた洗面器が反転して、丁度向き合う形にもどる。思わずにやけそうになる僕に容赦なくシャワーのお湯が浴びせられた。
結局、少し角度をずらして直視できないようにすると彼女はボディソープを手に取った。どうやらお次は顔を洗うらしい。
彼女はボディソープを手の平で泡を立てて、僕の顔にこすり付けてくる。
目が閉じられない僕は泡が近づいてきても目をぱっちり開けたまま。彼女は泡が目に入ろうがお構いなしに手を動かしている。
死んでるから痛くはないけど、あまりいい気分じゃない。早く終わって欲しい。その願いは通じず、顔、耳の後ろ、首筋、と長い間擦られて、ようやく洗顔作業は終わった。
大変だったけど、生まれ変わったような気分だ。すっきりしていると、彼女がものすごく嫌そうな顔で僕を見ていた。
どうしたの? 目で問うと彼女は溜息混じりに「そこも洗ったほうがいいよね」と下の方、つまり僕の切断面に視線を落とした。
そういうことか。僕は納得した。彼女が嫌な顔をするのも理解できる。だって、そこは生首的に一番見苦しい部分のはずだろうから。はっきり言って触りたくないだろうし、さっきみたいにボディソープをつける気にもならないだろう。
横倒しにてお湯ぶつけたらどうかな? どうしようかと迷いあぐねている彼女に僕はそう助言を出す。そうすれば、飛沫で切断面がはっきり見えることはないし、水流の強さで少しは汚れも落ちてくれるだろう。
「そうね」
彼女が名案だというように頷いて、僕をそっと横に倒した。
自分で言ったことだけど、意外と苦しい状況だ。下から上に来るシャワーのお湯は目に入るどころじゃなく鼻にも入ってくる。
早く終わってくれ。僕はまたそう願いながらタイルの上を流れるお湯をぼんやり見つめていた。最初は薄茶色だった液体が次第に薄くなっていく。それが無色に変わる頃、彼女がシャワーのヘッドを僕から外した。
「こんなもんかしら」
僕を立てながら彼女が満足そうに微笑む。濡れた髪や眼球についた水が不快だけど、我ながら綺麗になったような気がした。
「じゃ、あなたはお風呂に浸かってて」
彼女の言葉に僕はギョッとした。
この上、お風呂? 問うより先に湯の張った浴槽に入れられる。
ぷかぷかと浮かべば助かるんだけど、顔の半分ほどが湯に沈んでしまった。片目が水面を行ったり来たり……気持ち悪い。もう片方の目で彼女を見ると、彼女はてきぱきと髪を洗い、体を洗っていた。
タオルは外しているので白い裸体が眩しく映る。僕は片目の気持ち悪さも忘れて彼女の裸身に目を奪われた。
綺麗な彼女。
僕は彼女を知っている。僕は彼女を愛している。僕は彼女を愛していた。僕は彼女を――
「あー、ごめんね」
湯船に浸かろうとした彼女が顔半分をお湯に浸けてぷかぷかしている僕を見て驚いたように抱き上げた。
大丈夫だよ。僕は答える。僕を手に持ったまま彼女が湯船に浸かる。
彼女の手が僕を支えるのでこんどはゆっくりと風呂を楽しめる。
乳白色の湯気が漂う浴室。彼女と二人で入るお風呂。なんていうか、甘い響きだ。幸せを感じる。
彼女が僕の顔を見下ろす。少し照れたような笑みを浮かべて。僕も同じように彼女を見つめた。
最早、間違いはない。僕と彼女は恋人同士だったんだ。