一
冷たい風を感じて目を開けると、いやに地面が近くにあった。
それもそのはずだ。僕には首から下が存在していなかった。つまりは生首だ。
だというのに、意識ははっきりしていて、僕自身、いやに冷静に自分が生首であることを受け止めていた。
それにしても、寒い。
記憶が確かならば夏も真っ盛りだったと思うが、僕に対しての意地悪だろうか。冷たい風がびゅんびゅんと吹いている。風を避けようにも移動手段がない。
これじゃあ、あまりにもあんまりだ。僕がなにをしたっていうんだ。ぶつぶつと文句を口にしていると、どこかでチンと音がした。
エレベーターだ。カツ、カツ、とハイヒールの足音が響き、しかも、近づいてくる。
困ったな。生憎と僕は生首だ。逃げも隠れも出来ずに足音の主が近づいてくるのをただ待つだけ。
祈るように目を閉じる。
カツ、カツ、と規則的に響いていた足音が不意に途切れた。
僕は目を開ける。人影が見えた。
綺麗というよりは可愛らしい女性だ。どこかで見たことがあるような気がする。
彼女は僕がなんであるか探るように凝視している。
けれど、彼女のところからはっきりと僕が見えないのか恐る恐るといった風に近づいてきた。そして「――っ!」声にならない息だけの悲鳴とともにその場にペタンと腰を落とした。
多分、腰が抜けたんだろう。
――――――――――――――――
―――――――――――――
―――――――――
彼女の復活は予想以上に早かった。時間にして十分もかかっていないだろう。
彼女は僕を見つめたまま、深呼吸で息を整えると壁を頼りにふらふらと立ち上がった。
そして、果敢にも僕に近づいてくる。
もしかしたら、僕が作り物で、誰かの悪質な悪戯だとでも考えたのかもしれない。
そんな僅かな可能性に縋るなんて――可哀想に。彼女が今度こそ大きな悲鳴を上げて倒れる光景が頭に浮かんでくる。
けれど、予想に反して彼女は僕をはっきりとその視界に捉えると唇を笑みの形に吊り上げた。
それは酷く引き攣ったものだったけれど、彼女は僕を見て笑ったのだ。
彼女が近づいてくる。その足取りはもう恐る恐るではない。
そして、僕のすぐ真横に彼女の足が来た。僕は彼女を見上げる。
青褪めた顔をしているものの、彼女の口元にはやはり笑みが浮かんでいる。
彼女は、僕の顔の横に膝をつくと、そっと僕の頬に触れた。ベタベタと容赦なく触れていく彼女の手はひんやりとしている。
僕は複雑な思いで彼女の行動を見ていた。と、所謂、切断面に触れてしまったのか、彼女の顔がサッと強張った。
手が離れる。チラリと見えた彼女の手の平には血なのか、なんなのかよく分からない体液がついていた。
彼女は吐き気を堪えるような顔をして、手についてしまったものを壁にこすりつける。
なんだか汚物扱いされているようで、あまり気分のいいものではない。
でも、よくよく考えれば、帰宅した先に生首が転がっている事の方が気分のいいものではないだろう。
と、彼女の小さな溜息が聞こえた。
彼女は僕を少しだけ見つめ、それから不意に足蹴にした。まるでサッカーボールのように。
僕はコロコロと転がって隣の部屋の前で停まる。
くそぅ、さっきまでちゃんと立っていたのに今度は横倒しだ。
気分が悪くなりそうな視界の端に何事もなかったかのように彼女が自分の部屋のドアを開ける姿が映った。
面倒な種はよそ様の部屋にプレゼントして、ドアを閉めたら気味の悪い生首ともサヨウナラってわけだ。
せめて、きちんと立たせてくれればいいのに。僕は彼女を恨めしく見つめる。と、彼女が転がった僕の元へ戻ってきた。
「ごめんなさい、力加減が分からなくて」
そう言って、驚くべきことに彼女は僕のこめかみの辺りを両手で挟むと上へと持ち上げた。
思った以上に重かったのか、彼女は一瞬僕を落としそうになりすんでのところで両手に力を入れなおした。
気をつけてもらいたい――僕が、じと目で彼女を見上げると彼女は僕の心が分かったのか「ごめんなさい」とまた謝罪の言葉を口にした。
――――――――――――――――
―――――――――――――
―――――――――
なんにせよ、やっと風を避けられる屋内へ入ることが出来た。
彼女は、まず僕をお風呂場へ置いてリビングの方へ行ってしまう。
かさかさと紙の擦れる音が聞こえて、彼女が戻ってくる。
彼女は僕を持ち上げて再びリビングへ。僕はベッド脇の小さめのテーブルに広げられた新聞紙の上に乗せられる。
「ちょっと待ってて。手を洗ってくるから」
僕にそう言うと、彼女は今度は洗面所へ。帰宅早々、忙しい限りだ。大半は僕のせいだけれど――。
かなり時間をかけて手を洗ってリビングへ戻ってきた彼女は幾分か顔色がよくなっていた。大分落ち着いたのだろう。それでも僕を直視することは避けているようだけど会話をする気はあるようだ。
「……どうしてそんな、えっと、軽装なの?」
軽装か。皮肉だろうけど、言い得て妙だ。確かに首だけで彼女の前にいる僕は軽装もいいところだ。
しかし、僕がその問いかけの答えを知るわけもない。
「いつそうなったの? 少し臭うんだけど」
僕の答えを待たずに新しい問い。
臭うのか、僕は――少なからずショックを受ける。
ただ、今夜はたまたま風が冷たかったとはいえ季節は夏。僕がいつこうなったのかは分からないけれど、臭い始めていてもおかしくないのかもしれない。
そんな僕を持ち帰ってくれた彼女には感謝するべきなのだろうか。
「別に気にしなくていいわ。知らない仲じゃないし」
相変わらず、僕の答えを待たないで彼女はそう言うと小さく笑う。
知らない仲じゃないのか。確かにどこかで見たことのある顔だと思うけれど、やっぱりよく思い出せない。
それにしても、僕が一言も発していないのに、こうも僕の言いたいことを読み取る彼女の感受性はすごいな。感心してしまう。
「これからどうしたらいいのかしら?」
どうもこうも僕に聞かれても困る。そもそも、どうして彼女は僕を連れて帰ったんだろう。
あまりにも異常な事態に正常な判断が出来なかったのか。それとも『家の前に、こんなものが落ちてたんですけど』なんて素直に届け出て面倒に巻き込まれるのが嫌だったのか。その両方か。
なんにせよ、どうしようもないからと言って、また外に放り出されるのだけは勘弁願いたいところだ。
僕はそんな気持ちをのせて、彼女を見つめる。
僕の視線に気づいた彼女は何度目かになる溜息を吐くと「今夜は泊めてあげる」と疲れきった声で言った。
ありがたや、ありがたや。
それから彼女はベッドに豪快にダイブした。どうやらかなり疲れているようだ。早く寝たいという思いが、その姿からありありと見て取れる。
寝転がったまま照明のスイッチを引っ張ってオレンジ色の豆電球の灯りだけを残すと彼女は僕に背を向けてしまった。賢明な判断だ。
僕の方を向いて寝ると、オレンジの照明に照らされたかなり不気味な物体をどうしたって見てしまうはずだから。
僕は彼女の背中を見つめながら、うとうとしはじめる。
首だけなのに、睡魔が襲うなんて不思議な話だ。首だけなのに意識がある方が不思議だけど。
もしかしたら、朝になって目が覚めたら、これが全て夢だったことに僕は気づくんじゃないだろうか。
そして、笑うんだ。なんてくだらない夢を見ていたんだって。そんな希望を抱きながら、僕は眠りの淵に落ちていった。