無響の部屋
釈迦はその道に至るまで―――沙羅双樹の下で満足に朽ちるまで―――途方も無い時間を悟りの境地へと捧げたと聞く。その間惑い苦しみもあったろうに、今では尊ばれるまでにその名を轟かせた。死後、何百年経ってもだ。
その真似事とは言わないが、私はその場に腰を下ろし、姿勢を正し、ひとつ呼吸の後に目を閉じた。たったひとつ鼓動が聞こえるだけの、眼前の暗闇へと、呼吸へと意識を持っていき、かの釈迦に焦れ深い瞑想へ取り組む事と決めたのだ。
暫くは何の音も気にならず、吸って、吐き出しを繰り返す。呼吸が乱れた心身を清め、動揺を薄めていくのが分かった。しかし数刻も立たずして、私の周りには不快な音共が露出し始めたのだった。
その音はプーンと耳元から離れない。忌々しく、今にも潰してしまいそうな羽音であった。顔の辺りを飛んで、時折止んでは痒みを伴う。手を伸ばそうにも呼吸から意識を逸らしてはならないと、思い直しつつその場を乗り切る。しかし数十分もプーン、プーンと羽音は止まない。痒みも頂点へと達そうとしていた。だがこんな所でつまづいていては、釈迦なんぞには到底及ばないだろう。何度も心で唱え、心音が早まる。すぐに呼吸を繰り返し、高鳴る鼓動を収めると、今度は低く唸る羽音が聞こえる。
ここで私は、決して動いてはならぬと意を決した。ブブブ、ブゥンゥンと、危機感を呼ぶ幾つもの羽音が、私の周りをうろついている。ひとたび動けば、死を覚悟する程の痛みが襲う。バリバリと幾ら引っ搔き血が流れようと、易々と治らぬ傷に悩まされるのだ。肌を引っ搔く音も、その原因の羽音も、心が乱れる程に恐怖心を刺激する。決して動いてはならない、ならない。言い聞かせて続け、羽音はやがて、手を叩く音の後に収まったのだった。
次に静寂を遮ったのは、ヴゥゥとチャックの開く音だった。確か荷物をそこに置いて、それから瞑想に入ったはずだ。ガサガサ、ガサガサと中身をまさぐられているのが分かり、しかし瞑想を続けなければと言い聞かせる。中に入れた小説をパラパラめくられて、ビリビリビッと細かく破かれて、カラカラと水筒を開けられて、グッグと勝手に飲まれても、決して動いてはいけない、いけない。バリン、チャラチャラと硝子が割れて、風の音がしたとて、瞑想を続けなければならなかった。その後に後悔も、空想の叫び声も心を乱しにかかってくる。再び呼吸の音と心音に集中するまでに、随分かかったように思えてならなかった。
だが空想にとどまらず、今度は遠くで叫び声が聞こえた。女のものだろうか。ざわつく民衆、次に怒号が響いて、一時静まり返る。野太い男の声は「黙れ」「ブツを出せ」「十秒以内にだ」「さっさとしろ」「殺すぞ」「五月蠅い」、それからバァンッと耳を貫く破裂音がこだまし、「あーあ、お前のせいだ」と男が口をついた。パニックに陥った人々の声が上がっては、銃声が鳴り続け、それが何分も、何時間と続いた。しかしいかに耳障りであろうと、二度と聞きたくないと思ったとても、決して目を開けてはならない、ならない、でなければ。幾度も唱え、呼吸を落ち着かせようと努力しても、とうとう私は平穏を戻せなくなった。目を閉じるだけで精一杯である。そうこうしているうちに、ふと静寂が訪れた事に気が付いた。こちらにカツカツと歩く音が近づいて、目の前で止まった。
「おい」声はこちらへと向けて、威圧的に発せられた。
「目を開けろ」だが私は逆らって、黙ったふりを貫いた。
そうすると「ならば構うまい」男はそう言って、引き金をカチャリと引いた。
途端に、姿勢を崩すような痛みが私の体に突き刺さる。いよいよもって姿勢が崩れた私は、気が抜けて痛みに悶え転がった。この空間に、私の声は聞こえない。幾らの反論も声にならず、ただ口を開けて舌を動かすようにしかできないでいた。
だが男の声は明瞭に聞こえる。「今から悟りを得てどうするのだ、お前はこんな戯言に付き合う阿呆、それでも悟りを得る為に、己の声を殺したのか?」
「だとしても、うんともすんとも言わないのか」と男の声が聞こえ、怒りのまま、とうとう私は声を発することができた。
「黙れ、お前は私で、私の恥ずべき過去だろう。お前を殺す為に悟りを得ようと言うのに、いつまでも邪魔建てをしてくれる。消えてくれ、消えてくれ」
「そうか」すると男の声は聞こえずに、酷く穏やかな声が応を返した。静寂が再び訪れ、呼吸の音と心音だけが私の耳に届くばかりになる。穏やかな声は「目を開けなさい、貴方は今、目を閉じて釈迦に答えたのですよ」と言葉を続けた。言われた通りに目を開けると、目の前には私そのものではない、釈迦が確かに来ていらしたのだ。私の体には刺された跡も、撃たれた痕もない。どころか傍には荷物すらなく、何もない空間へと戻ってきていたのだった。
「とんだ失礼を」すぐにへつらう私に対し、「では、続けなさい。過去に囚われていては、悟りなど遠く彼方である」と仰って、釈迦は無響の部屋を後になさったのだ。
私は再び目を閉じて、深い瞑想を目指すこととした。だが未だに早まる心音は、依然として後ろめたさを冷まさずに、私が悟りを得るのを邪魔建てし続けた。
※本作品は「小説家になろう」への投稿として公開されており、後に作品の内容が変更される可能性がありますことを、ご留意ください。




