2.影
朝起きたとき、まだ5:42だった。
目覚ましは鳴っていない。休日だから設定していないはずなのに、身体だけが平日と同じ時間に反応していることに少し苛立って、そのまま天井を見た。
もう一度眠れるはずだと思ったが、目を閉じても眠気は戻らなかった。
眠れないというより、眠った気がしない。
身体の奥に、何かをやり残したような重さが残っている。
仕事が忙しかったからだ、と考える。
ここ一ヶ月ほどは夜遅くまで残るのが当たり前で、帰って風呂に入って寝るだけの生活が続いていた。休日に入った反動で調子が狂っているだけだろう。そう考えるのは自然だった。
結局、6:00を少し回ったところで起き上がった。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、やけに明るく感じられる。顔を洗い、歯を磨き、いつもの動作をひと通り済ませてから、ようやく休日だという実感が追いついてきた。
コーヒーを淹れ、本棚から一冊適当に本を抜き取る。
以前読んだはずの小説だったが、どこまで覚えているのかは曖昧だった。
ソファに腰を下ろしてページをめくる。
文章は目に入るが、意味がすぐに流れていく。数ページ読んだところで、今何が書いてあったのか分からなくなり、自然と指が戻って同じ段落を追い直していた。
ただただ、疲れているのだと思った。
活字を追う集中力が落ちることは、忙しい時期にはよくある。
それでも、不思議なことに、文章の内容よりも紙の感触や、ページをめくる音ばかりが妙に記憶に残った。
この本を、以前にもこうして読んだ気がする。
同じ朝、同じ姿勢で、同じように集中できずに。
そんなはずはない、とすぐに考え直す。
休日に朝から読書をする習慣なんてなかった。
時計を見ると、まだ9:00にもなっていなかった。
一日が長く感じられる。時間が余っているというより、進みが遅い。
家にこもっていても落ち着かない気がして、外に出ることにした。
散歩のつもりだったが、歩き出してしばらくすると、無意識に決まった方向へ進んでいることに気づく。
行きつけの店の前で足が止まった。
店はまだ閉まっている。
シャッターは下り、看板の灯りも消えている。
それでも、そこに来てしまったこと自体には、あまり驚かなかった。
休日の朝に、開店前の店の前に立っているという状況のほうが、むしろ自然に感じられた。
一昨日の夜、ここに来た記憶はない。
それでも、店の前に立っていると、確かに「来たあと」の感覚だけが残っている。
鍵の音や、グラスの触れる感触。
それらが、思い出せないまま、輪郭だけを持ってそこにあった。
疲れているだけだ、と自分に言い聞かせる。
激務のあとに感じる違和感を、いちいち意味づけする必要はない。
そう考えながら、店の前を離れた。
ーーーー
店内の掃除や今夜の営業の準備をしながら、あの晩のことを思い出そうとしていた。
磨いたグラスを手に取り立ち止まる。
カウンターの上に並べたグラスの数も、置く順番も、もう身体が覚えている。考える必要はない。だからこそ、頭の中に別のものが入り込む余地があった。
一昨日の夜、誰が来たのか。
それを、はっきりと思い出せない。
忙しくはなかった。むしろ、あの日は静かな夜だった。
氷を仕込みながら、カウンターの端を見る。
いつも同じ席に座る常連の顔が、ぼんやりと浮かぶ。
彼は、来ていた気がする。
だが、それは「見た記憶」ではなく、「来ていたはずだ」という感触に近かった。
会話をした気もする。
いつものように、短いやりとりを交わした気がする。
ただ、その内容が何一つ思い出せない。
「いつものでいい?」
その言葉を、あの夜もあの人に伝えた気がした。
そう思った瞬間、グラスを持つ手をわずかに止めた。
――本当に、言葉を交わしたのか。
仕事柄、自分の記憶を信用しすぎないようにしている。
毎晩似たような会話が繰り返される仕事だ。混ざることも、抜け落ちることもある。それ自体は珍しくない。
ただあの夜の記憶には、欠け方の方向がおかしかった。
忙しさで飛んだのではなく、最初から存在しなかったような、空白。
それでもなぜか、彼が来た、という確信だけはあった。
閉店間際だったか、もう少し早かったか。おそらくそれぐらいだったような気がするが、それも頭の中にある記憶の映像に靄がかかっているみたいでどうも曖昧で。
辺りをちらりと見回したが、個人の小さな店だ。あいにく、彼があの日ここへ来ていたというデータや証拠になるものは残っていない。
痕跡のない出来事。
それ自体はとても不思議で胸の奥がもやもやとする感覚があるが、追求をしたいという気持ちはなぜか1ミリも感じられない。
少しズレたグラスとボトルを整頓しながら、ぼんやりと残るあの日、あの時間の記憶を鮮明に思い出すか、もしくは綺麗に忘れようか、自分では決めまいと冷たい水をグッと飲んだ。
準備を終え、店主はシャッターの前に立つ。
開店まで、まだ時間がある。
違和感は抜けないが、「あの人は今夜また来るだろう」という予感はやけに強かった。




