1.空白
目が覚めると、カーテンの隙間から見える空はまだ暗く、朝へと向かう冷たい空気が部屋に流れている。
枕元に置いたはずのスマートフォンがなく、仕方なく体を起こして暗い部屋を見渡すと、それは机の上に投げ捨てたかのように置かれていた。
電源を入れると液晶には5:12の文字。
いつもの起床時間まではあと1時間近くある。
連日残業続きで疲労に疲労を重ねていると、スマートフォンを充電することも、もはやたっぷり眠ることすらもできなくなるのかと呆れてしまう。
仕方なく再びベッドへ入り、目を閉じる。
ぼんやりと昨夜の続きのような、しかし記憶には含まれていない時間が、すでにどこかで消費されている気がした。眠っていたはずなのに、休んだ感じはなく、むしろ何かを終えたあとのような、仕事の疲れとは違う、静かな疲労だけが残っていた。
そんなことを考えながら少し眠ってしまったようで、再びスマートフォンを見ると6:30を少し過ぎていた。
カーテンを開き朝の光を部屋へ流し込む。
フローリングの冷たさが、足から直に伝い思わず身震いしながら洗面所へ行くと、ふと左手の甲にできた細い傷に気づく。
赤くはなっていたが、血は出ていなかった。しばらく蛇口の水に当てたまま眺めてみたが、痛みはなく、いつできたものなのかも思い出せない。
絆創膏を探そうとして、やめた。
仕事中に気づかなかったものを、今さら手当てする理由が見つからなかったからだ。
鏡に映る自分の手は、少し他人のもののようにも見えたが、それ以上考える時間はなかった。
着慣れたシャツに腕を通しながらテレビをつけると、情報番組のニュースコーナーが始まった。
住宅街で事件、女性が死亡。昨夜のことらしい。
映像には規制線とぼかされた建物。
画面に映る街並みや現地リポーターが口にした地名がなんだか覚えのある場所のように感じられたが、確信が持てない。
そのまま音量を下げ、テーブルの上に置かれたままの五枚切りの食パンを一枚そのまま齧った。
味気のないそれはまるで自分の人生のように思える。
気が狂うほど悲しいことも、涙が出るほど嬉しいこともない。不幸ではないが、特別幸せを感じる瞬間など果たしてあったのだろうか。記憶に刻まれるようなことは、残念ながら経験していない。
毎日同じ時刻の満員電車に乗り、自宅の最寄りから7駅進んだところで降りる。
真夏の日も雪が降る極寒の日も、そこから徒歩20分かけて会社へ向かう。
毎日毎日。何の変哲もない人生。
道中で体調の悪そうな人を見かけて手助けしてあげることも、ハンカチを落とした女性に駆け寄り運命の出会いをはたすこともない。
事件や事故のニュースを見ると、同じ世界で起こっていることなのかも信じられないくらい、自分にはなにもない日々だと痛感させられるのだ。
結局いつものように無心で仕事をして、気づけば21:00を迎えようとしていた。
自分のデスクのライトしかついていない薄暗いオフィスが寂しく見えて、なんとなくこのまま家へ帰る気にもなれず、家の最寄り駅に着くと逆方向へ進んだ。
ほんのりと小さな光が照らす看板。階段を下りたところに佇む小さな隠れ家のような店。
ここへ越してきてからよく通う、所謂“行きつけ”だ。
ドアを開けたカランという音で店主が振り返った。
「お、いらっしゃい」
カウンター数席だけの小ぢんまりとしたそこは、子供の頃からずっと静かに生きてきた自分にとって居心地のよい空間だった。
いつもの奥の席に座ると、温かいおしぼりと店のロゴが描かれたコースターが出される。
「いつものでいい?」
「はい、お願いします」
店主もおしゃべりな人ではなく、最低限の会話と、たまに談笑をする程度。これが良い。
氷が音を立てて、グラスが置かれた。
残業続きでここ1ヶ月ほどは来れていなかった。
久しぶりのアルコールが体に沁みる。
つまみや軽い料理を食べながら小さく流れるラジオに耳を傾け、ゆったりとした時が流れた。
食事を終え、会計を済ませると店主がレシートを渡しながら呟く。
「昨日も来てくれたな」
その言葉に思わずそれを受け取る手が止まった。
「……え?」
「…いや、気のせいか。似た人だったかもな」
曖昧な言い方、不思議な空気だった。
しかしたいして高くもないスーツを着た平凡なサラリーマン。似た背格好の人なんて、ごまんといるだろう。
自分は特別な人間なんかではなくて、多数の人間に埋もれて沈んでいく側の人間だ。
夜風は冷たく、久しぶりのアルコールもなぜかほとんど回らず、頭は妙に冴えていた。
家に帰ると、部屋は相変わらず静かだった。
いつもと変わらないはずなのに、何かが少しだけずれているような気もする。
その感覚がなんなのかはわからないが、ここ数日、説明のできないそういった空気を感じることがある。
なんの迷いもなく、疲れやストレスだと信じて疑わないが。
鞄と上着を適当に置いて風呂を済ませ、持ち帰った資料とノートパソコンを開いた。
腰の痛さと眠気に気づいて時間を見ると、1:48。
明日も変わらず激務が待っている。
パソコンを閉じ、背筋を伸ばすように大きく伸びをしてベッドへ入り、ふと今日は仕事用のスマートフォンしか見ていなかったことを思い出して通知を確認した。
数少ない友人などからの連絡はもちろんないが、メールが二件来ていた。
ひとつは以前一度利用しただけのショッピングサイトから、セールを予告するカラフルなメール。
そしてもうひとつは件名がなく、アドレスも電話帳に登録していないもので、俗に言う捨てアドといわれるような適当なアルファベットの羅列に、見たことのないドメイン。
海外からの迷惑メールだろうか。
[終わった]
開くと本文はそれだけだった。
受信時間は2:58。
既に過ぎ去った未明の時間だった。




