第8話 繰り返す悪夢
前回のあらすじ
過去改変局を訪れた青木奈々は、7年前の交通事故で記憶を失ったことを後悔していた。シミュレーションで改変後の世界を見た奈々は、記憶を失う辛い経験も今の自分を作る大切な要素だと気づく。奈々は過去を受け入れ、同じ苦しみを持つ人々を助けるカウンセラーとして生きることを選んだ。老人は自身の過去に思いを馳せながら、今夜も新たな依頼者を待っている。
深夜3時。
地下鉄の通路は、いつにも増して静かだった。
蛍光灯の一つが、不規則に明滅している。
一人の男性が、過去改変局の窓口に辿り着いた。
30代前半。スーツは乱れ、ネクタイは緩んでいる。
目は充血し、顔色は悪い。まるで何日も眠っていないようだった。
名前は、西村拓也。
窓口の奥から、老人が顔を出した。
「いらっしゃい」
西村は、荒い息で答えた。
「頼む……もう限界なんだ」
「座りなさい」
西村が座ると、体全体が震えているのが見えた。
老人は、静かに水を差し出した。
「まず、落ち着きなさい」
「ありがとう……」
西村は、水を一気に飲み干した。
「何を変えたい?」
老人が尋ねた。
西村は、震える声で言った。
「8年前……俺が、あいつを止めなかった日を」
8年前の冬。
西村拓也は、24歳だった。
IT企業で働き始めて2年目。
同期入社の親友がいた。
名前は、加藤雄介。
雄介は、明るくて社交的だった。
西村とは正反対の性格。
それでも、二人は仲が良かった。
「拓也、今日も残業か?」
雄介が、西村のデスクに来た。
「ああ。プロジェクトが佳境でさ」
「真面目だなあ。俺なんて、定時で帰るけど」
「お前は、それでも仕事できるからな」
西村は、苦笑した。
雄介は、確かに優秀だった。
効率よく仕事をこなし、上司からの評価も高かった。
しかし、ある日から様子がおかしくなった。
「拓也、ちょっと相談があるんだけど」
ある日の昼休み、雄介が言った。
「どうした?」
「最近、眠れないんだ」
「え?」
「仕事のこと考えると、不安で……」
雄介の顔は、疲れていた。
「大丈夫か?無理すんなよ」
「うん……でも、頑張らないと」
「休んだ方がいいんじゃないか?」
「いや、大丈夫。ちょっと疲れてるだけだから」
雄介は、無理に笑った。
それから、雄介の様子はさらにおかしくなった。
遅刻が増えた。
ミスも増えた。
上司に怒られることも多くなった。
西村は、心配だった。
「雄介、本当に大丈夫か?」
「大丈夫だって」
「でも、明らかにおかしいぞ」
「心配すんなって。俺、強いから」
雄介は、強がった。
しかし、ある日。
雄介が会社に来なかった。
西村が電話をかけても、出なかった。
次の日も、来なかった。
西村は、雄介のアパートを訪ねた。
インターホンを押しても、反応がない。
管理人に頼んで、鍵を開けてもらった。
部屋の中は、荒れていた。
そして、雄介はベッドで寝ていた。
「雄介!大丈夫か!」
西村は、駆け寄った。
雄介は、生きていた。
しかし、ひどく衰弱していた。
「拓也……」
「おい、どうしたんだよ」
「もう……疲れた」
雄介の目は、虚ろだった。
西村は、雄介を病院に連れて行った。
医者は、言った。
「重度のうつ病ですね」
「うつ病……」
「すぐに治療が必要です。入院を勧めます」
雄介は、入院した。
西村は、毎日見舞いに行った。
「雄介、ちゃんと休めよ」
「うん……」
「仕事のことは、気にすんな」
「でも……俺、もう会社に戻れないかもしれない」
「そんなことないって」
「みんなに、迷惑かけた」
「気にすんな。みんな、お前のこと待ってるから」
西村は、励まし続けた。
1ヶ月が過ぎた。
雄介は、少し回復した。
退院の話も出始めた。
「拓也、ありがとうな」
雄介が言った。
「お前のおかげで、何とか持ち直せた」
「良かったよ」
「でも、まだ不安なんだ」
「大丈夫。ゆっくり治せばいい」
「うん……」
そして、退院の日が決まった。
その3日前。
西村は、仕事が忙しくて見舞いに行けなかった。
翌日も、行けなかった。
大きなプレゼンがあったのだ。
そして、退院予定日の前日。
西村は、病院から電話を受けた。
「西村さん、加藤さんが……」
「え?」
「病室から、いなくなりました」
「どういうことですか!?」
西村は、病院に駆けつけた。
雄介は、本当にいなくなっていた。
警察が捜索を始めた。
そして、3日後。
雄介は、見つかった。
川で、浮いていた。
自殺だった。
西村は、呆然とした。
なぜ。
なぜ、雄介は死んだのか。
葬式で、雄介の母親が言った。
「西村さん、ありがとうございました」
「いえ……」
「あなたは、雄介を最後まで支えてくれた」
「でも、助けられなくて……すみません」
西村は、泣き崩れた。
それから、西村は自分を責め続けた。
あの時、もっと雄介の側にいれば。
もっと話を聞いてやれば。
プレゼンなんて、どうでもよかったのに。
西村は、夢を見るようになった。
雄介が、川に飛び込む夢。
西村が、止めようとする。
しかし、間に合わない。
雄介は、水の中に消えていく。
その夢を、何度も何度も見た。
毎晩。
西村は、眠るのが怖くなった。
仕事も、手につかなくなった。
上司に怒られても、何も感じなかった。
ただ、雄介のことばかり考えていた。
1年が過ぎた。
西村は、会社を辞めた。
別の会社に転職した。
しかし、そこでもうまくいかなかった。
夢は、止まらなかった。
雄介が、毎晩現れる。
「なぜ、助けてくれなかったんだ」
そう言っているように感じた。
3年が過ぎた。
西村は、何度も転職を繰り返していた。
どこに行っても、雄介の影がつきまとった。
5年が過ぎた。
西村は、カウンセリングを受け始めた。
しかし、良くならなかった。
夢は、止まらなかった。
8年が過ぎた。
西村は、32歳になっていた。
もう、限界だった。
眠れない。
夢を見るのが怖い。
雄介を、助けられなかった罪悪感が、消えない。
そして、過去改変局の噂を聞いた。
最後の希望だった。
「あの時、俺が雄介の側にいれば」
西村は、老人に言った。
「プレゼンなんて休んで、病院に行けば」
「雄介は、死ななかったかもしれない」
老人は、じっと西村を見つめた。
「西村さん、確認したい」
「はい」
「あなたが変えたいのは、雄介さんの側にいたという選択ですね?」
「そうです」
「しかし、雄介さんが自殺を選んだこと自体は、変えられない」
「……わかっています」
老人は、静かに言った。
「つまり、あなたが側にいても、雄介さんが自殺を選ぶ可能性はある」
「でも……俺が話を聞いていれば、止められたかもしれない」
「あるいは、止められなかったかもしれない」
老人の言葉が、西村の胸に刺さった。
「それでも、試したいんです」
西村は、必死に訴えた。
「今のままじゃ、俺は生きていけない」
「毎晩、雄介の夢を見る」
「もう、8年間も苦しんでいる」
「どうか……過去を変えさせてください」
老人は、深く息をついた。
「わかった。シミュレーションを見せよう」
「お願いします」
西村は、頭を下げた。
リクライニングチェアに座り、西村は機械を装着された。
「では、始める。8年前に戻る」
老人が、スイッチを入れた。
西村の意識が、遠のいていく。
気がつくと、西村は会社にいた。
8年前の、あの日。
大きなプレゼンの前日。
上司が言った。
「西村、明日のプレゼン、頼むぞ」
「はい……」
しかし、西村——過去の西村は、言った。
「すみません、明日休ませてください」
「え?何言ってるんだ!」
「友人が、入院していて……そばにいてやりたいんです」
「そんなの、後でいいだろう!」
「いえ、今じゃないと意味がないんです」
上司は、怒った。
「お前、それで会社を休むのか!」
「はい。申し訳ございません」
「わかった。好きにしろ。ただし、評価は下がるぞ」
「構いません」
西村は、病院に行った。
雄介の病室。
雄介は、ベッドに座っていた。
「拓也?どうしたんだ、こんな時間に」
「お前に会いに来た」
「仕事は?」
「休んだ」
「え……」
「お前の方が、大事だから」
雄介の目に、涙が浮かんだ。
「拓也……」
「どうした?何か悩んでるのか?」
「……実は」
雄介は、話し始めた。
「退院したら、また仕事に戻らなきゃいけない」
「それが、すごく怖いんだ」
「またダメになるんじゃないかって」
「みんなに、迷惑かけるんじゃないかって」
西村は、雄介の手を握った。
「大丈夫だ。お前は一人じゃない」
「俺がいる。みんながいる」
「ゆっくりでいい。焦る必要はない」
「でも……」
「心配すんな。お前のペースで、戻ってくればいい」
「拓也……」
雄介は、泣いた。
西村は、その夜、雄介と一緒に過ごした。
いろんな話をした。
昔の思い出。
これからの夢。
雄介は、少しずつ笑顔を取り戻した。
これが、改変された過去。
西村は、雄介の側にいた。
次の日、西村は会社に行った。
上司に怒られた。
評価も下がった。
しかし、西村は後悔しなかった。
そして、雄介の退院の日。
西村は、迎えに行った。
「拓也、ありがとうな」
「気にすんな」
「俺、頑張ってみるよ」
「ああ。応援してる」
雄介は、会社に復帰した。
最初は、リハビリ勤務。
短時間から始めた。
西村は、毎日雄介をサポートした。
1ヶ月が過ぎた。
雄介は、順調に回復していた。
仕事も、少しずつこなせるようになった。
しかし、ある日。
雄介が、また休んだ。
西村が電話をかけた。
「雄介、大丈夫か?」
「うん……ちょっと、調子悪くて」
「無理すんなよ」
「わかってる」
次の日、西村は雄介のアパートを訪ねた。
雄介は、部屋にいた。
しかし、様子がおかしかった。
「拓也……」
「どうした?」
「もう、無理なのかもしれない」
「何言ってるんだ」
「俺、やっぱりダメなんだ」
「そんなことない」
「いや、ダメなんだよ!」
雄介は、叫んだ。
「お前がどんなに支えてくれても、俺の中の不安は消えない」
「仕事に行くのが怖い」
「失敗するのが怖い」
「生きているのが、怖いんだ」
西村は、必死に説得した。
「雄介、一緒に病院行こう」
「いや……」
「頼む。俺、お前を失いたくない」
「拓也……ごめん」
雄介は、泣いた。
西村も、泣いた。
その日、西村は雄介を病院に連れて行った。
医者は、再入院を勧めた。
雄介は、頷いた。
西村は、毎日見舞いに行った。
仕事を早退して。
休日も。
雄介のそばにいた。
しかし、3ヶ月後。
雄介は、また病室から消えた。
西村は、必死に探した。
警察も、捜索した。
そして、見つかった。
川で。
雄介は、死んでいた。
西村は、崩れ落ちた。
なぜ。
あんなに、そばにいたのに。
あんなに、支えたのに。
結局、同じ結末だった。
シミュレーションが終わった。
西村が、目を覚ました。
西村は、激しく泣いていた。
「同じだった……」
「そばにいても、雄介は死んだ」
「なぜだ……なぜなんだ……」
老人は、静かに言った。
「西村さん、辛い真実だが」
「雄介さんの死は、あなたのせいではない」
西村は、顔を上げた。
「でも……」
「あなたがどんなに支えても、救えない人もいる」
「それは、あなたの責任ではない」
老人の言葉が、西村の心に響いた。
「雄介さんは、深い闇の中にいた」
「あなたの支えは、確かに彼を照らした」
「しかし、その闇から抜け出すには、彼自身の力が必要だった」
「あなたには、それを代わることはできない」
西村は、震えた。
「じゃあ、俺は何もできなかったんですか」
「いや」
老人は、首を横に振った。
「あなたは、できる限りのことをした」
「それで十分だ」
「でも、雄介は死んだ」
「ああ。しかし、それはあなたのせいではない」
「あなたは、自分を責めすぎている」
老人は、続けた。
「雄介さんの死を背負う必要はない」
「悲しむことはいい。しかし、自分を責めるのは違う」
西村は、長い間泣き続けた。
老人は、黙って待っていた。
やがて、西村が落ち着いた。
「先生……俺、どうすればいいんですか」
「夢を止める方法はありますか」
老人は、静かに答えた。
「夢は、あなたの心の叫びだ」
「雄介さんを救えなかった罪悪感が、夢を生んでいる」
「その罪悪感を手放すことが、夢を止める方法だ」
「どうやって……」
「許すんだ」
「誰を?」
「自分自身を」
老人の目が、西村を見つめた。
「あなたは、十分に頑張った」
「雄介さんのために、できることはすべてした」
「それでも救えなかった」
「それは、あなたの責任ではない」
「自分を、許しなさい」
西村は、長い間考えた。
そして、言った。
「過去を、変えません」
老人は、頷いた。
「雄介は、死んだ」
「俺は、彼を救えなかった」
「それは、事実だ」
西村は、涙を拭いた。
「でも、それは俺のせいじゃない」
「俺は、できることをした」
「それで、十分だったんだ」
西村は、立ち上がった。
「ありがとうございました」
「どういたしまして」
「俺、これから……自分を許してみます」
「それがいい」
老人は、微笑んだ。
西村が、扉に向かおうとした時、老人が呼び止めた。
「一つだけ」
「はい?」
「雄介さんは、あなたに感謝していたはずだ」
「最後まで、支えてくれたことに」
「それを、忘れないでください」
西村は、深く頷いた。
「はい……忘れません」
西村が去った後、老人は一人、窓口に座っていた。
老人は、自分の手を見つめた。
皺だらけの、古い手。
この手で、何人の人を導いてきただろう。
老人も、かつては西村のように苦しんでいた。
大切な人を失い、自分を責め続けていた。
そして、過去改変局を訪れた。
しかし、改変事故が起きた。
老人は、時間の狭間に取り残された。
そして、この窓口の管理人となった。
それから、何年経ったのだろう。
いや、何十年か。
時間の感覚が、曖昧になっている。
老人は、呟いた。
「私も、いつか誰かに許してもらえるのだろうか」
「自分自身を、許せる日が来るのだろうか」
しかし、その答えは、まだ見つかっていない。
半年後。
西村は、カウンセリングを受けながら、少しずつ回復していた。
夢は、まだ見る。
しかし、頻度は減った。
ある日、西村は雄介の母親に会いに行った。
「おばさん、お久しぶりです」
「西村さん……」
母親は、驚いた顔をした。
「今日は、謝りに来ました」
「え?」
「雄介を、救えなくてすみませんでした」
西村は、深く頭を下げた。
母親は、西村の手を取った。
「西村さん、顔を上げて」
「……」
「あなたは、雄介のために本当によくしてくれた」
「私、知ってるのよ。雄介があなたをどれだけ信頼していたか」
母親の目に、涙が浮かんだ。
「でも……」
「あなたのせいじゃないわ」
「雄介は、病気だったの」
「誰のせいでもない」
母親は、優しく言った。
「だから、自分を責めないで」
「雄介も、きっとそう思ってるはずよ」
西村は、泣いた。
長い間、求めていた言葉だった。
許し。
それが、やっと得られた。
その夜、西村は久しぶりに深く眠った。
夢は見なかった。
いや、見たかもしれない。
しかし、それは悪夢ではなかった。
雄介が、笑っている夢。
「拓也、ありがとうな」
そう言って、手を振っている。
西村も、手を振り返した。
目が覚めた時、西村は涙を流していた。
しかし、それは悲しみの涙ではなかった。
「さよなら、雄介」
西村は、呟いた。
「もう、大丈夫だ」
窓の外では、朝日が昇り始めていた。
過去改変局。
老人は、今夜も窓口に座っている。
しかし、今夜は誰も来なかった。
老人は、古い書類を整理していた。
その中に、一枚の写真があった。
若い頃の老人。
そして、もう一人、笑顔の女性。
老人は、写真を見つめた。
「もう、何年になるだろうか」
「私がここに来てから」
老人は、写真を戻した。
そして、窓口に座り直した。
まだ、役目は終わっていない。
いつか、継承者が現れるまで。
老人は、ここにいる。
時間の管理人として。
過去と未来をつなぐ者として。
扉が、ゆっくりと開いた。




