第7話 消えた記憶
前回のあらすじ
過去改変局を訪れた森田誠一は、30年前にバンドを諦めて父親の介護を選んだことを後悔していた。シミュレーションで改変後の世界を見た森田は、音楽で成功しても父親を見捨てた罪悪感に苦しむ自分を知る。森田は過去を受け入れ、今から趣味として音楽を楽しむことを選んだ。老人は今夜も、新たな依頼者を待っている。
深夜1時。
地下鉄の通路を、一人の女性が歩いていた。
20代後半。黒いワンピースを着ている。
表情は暗く、目は虚ろだった。
名前は、青木奈々。
過去改変局の窓口に辿り着くと、女性は深呼吸をした。
そして、扉を開けた。
窓口の奥から、老人が顔を出した。
「いらっしゃい」
奈々は、小さな声で答えた。
「あの……ここで、過去を変えられるんですか?」
「変えられる。座りなさい」
奈々が座ると、老人は古びたノートを開いた。
「何を変えたい?」
「7年前……私が、事故に遭った日を」
奈々の手が、震えていた。
7年前の夏。
青木奈々は、21歳だった。
大学3年生。心理学を専攻していた。
成績優秀で、将来はカウンセラーになることを夢見ていた。
ある日曜日の午後。
奈々は、友人の美咲と一緒に映画を見に行った。
楽しい一日だった。
「奈々、また今度も遊ぼうね」
「うん、絶対!」
二人は、笑い合った。
駅で別れた後、奈々は一人で帰宅した。
横断歩道を渡ろうとした時——。
突然、視界が真っ白になった。
激しい衝撃。
体が宙を舞った。
そして、暗闇。
気がつくと、奈々は病院にいた。
全身が痛かった。
医者が、心配そうに覗き込んでいた。
「青木さん、目が覚めましたか」
「ここは……」
「病院です。あなた、交通事故に遭ったんですよ」
「事故……?」
奈々は、記憶が曖昧だった。
「頭を強く打ちました。しばらく入院が必要です」
「そうですか……」
奈々は、ぼんやりと答えた。
数日後、奈々の様子がおかしいことに、医者は気づいた。
「青木さん、お名前は?」
「青木奈々です」
「今日は何月何日ですか?」
「え……わかりません」
「ご両親の名前は?」
「……わかりません」
医者は、深刻な顔をした。
そして、両親を呼んだ。
「娘さんは、記憶障害があります」
「記憶障害……?」
母親が、驚いた。
「事故の影響で、一部の記憶を失っています」
「どれくらい……?」
「今のところ、過去数年間の記憶が曖昧です」
「治るんですか?」
「わかりません。時間が経てば回復するかもしれませんし、そのままかもしれません」
奈々は、混乱した。
自分の名前はわかる。
しかし、それ以外のことが、霧の中のようだった。
家族のこと。
友人のこと。
大学での勉強。
すべてが、ぼんやりとしていた。
それから、奈々の人生は一変した。
大学には、戻れなかった。
記憶が曖昧で、授業についていけなかった。
奈々は、休学した。
友人たちが、見舞いに来た。
「奈々、元気?」
美咲が、心配そうに尋ねた。
「うん……ありがとう」
しかし、奈々は美咲のことをよく覚えていなかった。
親友だったはずなのに。
美咲は、悲しそうな顔をした。
「奈々、私のこと、覚えてない?」
「ごめん……ぼんやりとしか……」
「そうなんだ……」
美咲の目に、涙が浮かんだ。
それから、友人たちは徐々に離れていった。
奈々が自分たちを覚えていないことに、傷ついたのかもしれない。
あるいは、どう接していいかわからなかったのかもしれない。
奈々は、孤独になった。
記憶を失った自分。
過去のない自分。
それは、恐ろしいことだった。
1年が過ぎた。
奈々は、リハビリを続けた。
記憶を取り戻そうと、必死に努力した。
しかし、戻ってこなかった。
医者が言った。
「青木さん、もう諦めた方がいいかもしれません」
「諦める……?」
「失った記憶は、戻らないかもしれません」
「でも、新しい記憶を作ることはできます」
「前を向いて、生きてください」
奈々は、泣いた。
諦めろと言われても、諦められなかった。
過去の自分を、取り戻したかった。
2年が過ぎた。
奈々は、大学を中退した。
そして、簡単なアルバイトを始めた。
コンビニのレジ。
単純作業なら、できた。
しかし、心は満たされなかった。
自分が何者なのか、わからなかった。
過去がない人間は、何者なのだろう。
5年が過ぎた。
奈々は、26歳になっていた。
相変わらず、記憶は戻らなかった。
新しい記憶は作れた。
しかし、過去の記憶は空白のままだった。
ある日、奈々は偶然、美咲に再会した。
「奈々!?」
美咲が、驚いた顔で駆け寄ってきた。
「美咲……」
奈々は、美咲の名前を覚えていた。
事故後、何度も写真を見て、覚え直したのだ。
「元気だった?」
「うん……まあ」
「私、結婚したんだよ」
「そうなんだ。おめでとう」
「ありがとう」
美咲は、嬉しそうだった。
「奈々は?元気にしてる?」
「うん……アルバイトしながら」
「そっか……」
美咲の顔が、曇った。
「奈々、記憶は……」
「戻ってない」
「そうなんだ……」
二人は、しばらく黙っていた。
そして、美咲が言った。
「奈々、あのね、私たち、大学時代すごく仲良かったんだよ」
「うん、聞いてる」
「一緒に、いろんなところに行ったり、夜遅くまで語り合ったり」
「……」
「奈々が覚えてないの、本当に寂しい」
美咲の目に、涙が浮かんだ。
「ごめん……」
奈々は、謝ることしかできなかった。
覚えていないことは、罪だと感じた。
7年が過ぎた。
奈々は、28歳になっていた。
記憶は、やはり戻らなかった。
ある夜、奈々はネットで過去改変局の噂を見つけた。
最初は、信じなかった。
しかし、藁にもすがる思いで、探し始めた。
そして、見つけた。
過去改変局。
「7年前の事故を、なかったことにしたいんです」
奈々は、老人に言った。
「そうすれば、記憶を失わずに済む」
「過去の自分を、取り戻せる」
老人は、じっと奈々を見つめた。
「奈々さん、確認したい」
「はい」
「あなたが変えたいのは、事故に遭わなかった自分ですね?」
「そうです」
「しかし、事故そのものは、あなたの行動ではない」
「え……?」
老人は、説明した。
「過去改変局で変えられるのは、あなた自身の行動だけです」
「事故は、車が突っ込んできたことで起きた」
「それは、あなたの行動ではありません」
「変えられるのは、あなたがその場所にいなかったという選択だけです」
奈々は、理解した。
「つまり……あの時、別の道を選んでいたら、事故に遭わなかったということですか?」
「そうです」
「でも、どの道を選べば良かったのか……」
「シミュレーションで、いくつかの可能性を見せましょう」
奈々は、頷いた。
「お願いします」
リクライニングチェアに座り、奈々は機械を装着された。
「では、始める。7年前に戻る」
老人が、スイッチを入れた。
奈々の意識が、遠のいていく。
気がつくと、奈々は美咲と別れた後の駅にいた。
7年前の、あの日。
これから、横断歩道を渡る。
そして、事故に遭う。
しかし、過去の奈々は、違う選択をした。
「あ、ちょっと待って」
奈々は、スマホを取り出した。
美咲からメッセージが来ていた。
「今日、楽しかったね!また遊ぼう!」
奈々は、立ち止まって返信した。
「私も楽しかった!また誘ってね」
送信。
そして、横断歩道を渡ろうとした時——。
信号が赤に変わった。
奈々は、止まった。
その瞬間、トラックが猛スピードで交差点を通過した。
もし、奈々が信号を無視して渡っていたら、轢かれていただろう。
しかし、止まったおかげで、無事だった。
これが、改変された過去。
奈々は、事故に遭わなかった。
時間が流れた。
奈々は、大学に戻った。
勉強を続けた。
記憶も、そのままだった。
1年が過ぎた。
奈々は、順調に単位を取得していた。
カウンセラーになる夢に向かって、頑張っていた。
2年が過ぎた。
奈々は、大学を卒業した。
そして、大学院に進学した。
臨床心理学を専攻した。
美咲とは、今でも仲が良かった。
「奈々、大学院大変?」
「うん、でも楽しいよ」
「すごいね。奈々なら、絶対いいカウンセラーになれるよ」
「ありがとう」
3年が過ぎた。
奈々は、大学院を修了した。
そして、カウンセリングセンターに就職した。
夢が叶った。
5年が過ぎた。
奈々は、26歳になっていた。
カウンセラーとして、働いていた。
多くの人々の悩みを聞き、支えていた。
充実していた。
しかし、ある日、奈々は気づいた。
自分が、何か大切なものを忘れている気がする。
何だろう。
この違和感は。
ある夜、奈々は夢を見た。
病院のベッドに横たわっている自分。
記憶を失った自分。
混乱している自分。
目が覚めた。
汗をかいていた。
「何だったんだろう、あの夢……」
奈々は、不安になった。
それから、同じ夢を何度も見るようになった。
記憶を失った自分。
それは、まるで本当にあったことのように、リアルだった。
7年が過ぎた。
奈々は、28歳になっていた。
元の世界と同じ年齢。
しかし、この世界の奈々は、記憶を失っていない。
順調なキャリア、友人関係、すべてが揃っていた。
しかし、心のどこかで、違和感が消えなかった。
自分は、何か大切な経験を、していないのではないか。
ある日、奈々はクライアントと話していた。
「先生、私、記憶喪失になったらどうしようって、怖いんです」
「記憶喪失……ですか」
「はい。自分が誰だかわからなくなったら、生きていけないですよね」
クライアントは、不安そうだった。
奈々は、答えた。
「確かに、記憶は大切です」
「でも、記憶を失っても、あなたはあなたですよ」
「新しい記憶を作ることで、また生きていけます」
奈々は、優しく言った。
しかし、その言葉を言いながら、奈々は思った。
なぜ、自分はこんなことを知っているのだろう。
記憶喪失の経験なんて、ないのに。
まるで、別の人生を生きた記憶があるような。
シミュレーションが終わった。
奈々が、目を覚ました。
老人が、尋ねた。
「どうだった?」
奈々は、混乱していた。
「事故に遭いませんでした」
「そうか」
「順調な人生でした」
「しかし……?」
奈々は、涙を流した。
「でも、何かが足りませんでした」
「大切な経験を、していない気がしました」
「記憶を失う苦しみ、それを乗り越える強さ」
「それがない人生は、薄っぺらい気がしました」
老人は、深く頷いた。
「奈々さん、あなたは気づいたんだね」
「何に……?」
「辛い経験も、あなたを作る大切な要素だということに」
奈々は、震えた。
「でも、記憶を失ったことは、辛すぎます」
「過去の自分を、取り戻したいです」
「それは、わがままですか?」
老人は、静かに言った。
「わがままではない」
「しかし、記憶を失ったあなたも、今のあなたの一部だ」
「それを消すことは、今のあなたを否定することになる」
奈々は、はっとした。
「今の私……」
「あなたは、7年間、記憶がないまま生きてきた」
「それは、とても辛いことだった」
「しかし、その経験があるからこそ、今のあなたがいる」
老人は、続けた。
「記憶を失った苦しみを知っているあなたは、同じ苦しみを持つ人々を理解できる」
「それは、カウンセラーとして、大きな強みだ」
「過去を変えて、その経験を失えば、あなたは別の人間になる」
奈々は、涙を拭いた。
「じゃあ、私は……このまま、記憶がないまま生きるしかないんですか?」
「そうとは限らない」
老人は、優しく言った。
「記憶は、いつか戻るかもしれない」
「あるいは、戻らないかもしれない」
「しかし、大切なのは、今を生きることだ」
奈々は、長い間考えた。
そして、言った。
「過去を、変えません」
「そうか」
老人は、微笑んだ。
「記憶を失ったことは、辛かった」
「でも、それが今の私を作った」
「その経験を、無駄にしたくない」
奈々は、立ち上がった。
「ありがとうございました」
「どういたしまして」
「私、これから……同じような苦しみを持つ人々を、助けたいです」
「それがいい」
老人は、頷いた。
奈々が、扉に向かおうとした時、老人が呼び止めた。
「一つだけ」
「はい?」
「記憶がなくても、あなたはあなただ」
「過去が誰を作るのではない」
「今、この瞬間の選択が、あなたを作る」
奈々は、深く頷いた。
「わかりました」
奈々が去った後、老人は一人、窓口に座っていた。
また一人、過去を受け入れた。
老人は、思った。
人は、過去に縛られがちだ。
しかし、過去がすべてではない。
今、この瞬間の選択が、未来を作る。
老人自身も、かつてはそうだった。
過去に縛られ、過去を変えようとした。
そして、改変事故に巻き込まれた。
老人は、窓口のカウンターに触れた。
古い、古い木。
何十年も、いや、もっと長く、ここにある。
老人は、呟いた。
「私も、いつかこの役目を終える日が来る」
「そして、次の誰かに、引き継ぐのだろう」
しかし、それはまだ先のことだ。
今は、まだ多くの人々が、この窓口を訪れる。
老人の役目は、続く。
1年後。
奈々は、記憶障害を専門とするカウンセリングセンターを立ち上げていた。
小さなオフィス。
しかし、そこには希望があった。
ある日、一人の若い女性が訪ねてきた。
「あの……私、事故で記憶を失って……」
女性は、泣いていた。
「大丈夫ですよ。座ってください」
奈々は、優しく言った。
「私も、同じ経験をしました」
「え……?」
「7年前、事故で記憶を失いました」
「今でも、戻っていません」
女性は、驚いた。
「でも、先生、こんなに立派に……」
「記憶がなくても、生きていけます」
「辛いですけど、不可能じゃないです」
「一緒に、乗り越えましょう」
女性は、涙を流しながら頷いた。
「ありがとうございます……」
奈々は、微笑んだ。
記憶を失った経験。
それは、今、誰かを救っている。
過去を変えなくて、良かった。
その夜、奈々は自分の部屋で日記を書いていた。
記憶が戻らない代わりに、毎日日記をつけることにしていた。
それが、新しい記憶の形だった。
「今日も、一人の人を助けることができた」
「記憶を失った経験は、辛かった」
「でも、それがあるから、今の私がいる」
「過去は変えられない」
「でも、未来は作れる」
奈々は、ペンを置いた。
そして、窓の外を見た。
夜空には、星が輝いていた。
「ありがとう、過去改変局のおじいさん」
奈々は、呟いた。
「あなたのおかげで、わかったよ」
「私は、このままでいいんだって」
風が吹いた。
まるで、老人が「その通りだ」と言っているかのように。
過去改変局。
老人は、今夜も窓口に座っている。
扉が開いた。
一人の中年女性が入ってきた。
「あの……過去を変えたいんです」
「座りなさい」
老人は、いつものように迎え入れた。
「何を変えたい?」
「15年前、私、娘を産んだ時のことを……」
女性は、涙ぐんでいた。
老人は、深く頷いた。
「話してごらん」
「産後うつで……娘をうまく愛せなかったんです」
「今、娘は15歳で、私たちの関係は冷え切っています」
「あの時、もっとちゃんと愛していれば……」
老人は、静かに言った。
「シミュレーションを見せよう」
「お願いします」
物語は、続いていく。
人々の後悔と共に。
しかし、辛い経験も含めて、すべてが今を作っている。
老人は、そう信じている。
老人の胸には、古い記憶がある。
自分自身が、かつて、この窓口を訪れた時のこと。
そして、改変事故に巻き込まれ、この役目を担うことになったこと。
いつか、誰かにその話をする日が来るだろう。
しかし、それはまだ先のことだ。
今は、目の前の人を助けることに集中する。
だから、今夜も窓口を開けている。
暗い地下鉄の通路で。




