第6話 失われた才能
前回のあらすじ
過去改変局を訪れた相沢麻衣は、12年前に恋人の健一と別れて東京に行ったことを後悔していた。しかし、シミュレーションを見た麻衣は、自分が本当に後悔していたのは選択そのものではなく、健一を誘わなかったことだと気づく。麻衣は過去を改変し、健一と共に東京で夢と愛の両方を手に入れることを選んだ。
深夜2時。地下鉄の通路に重い足音が響く。一人の中年男性が過去改変局の窓口に辿り着いた。50代半ば。スーツは擦り切れている。顔は疲れ切っていて、目には絶望が浮かんでいた。名前は森田誠一。
窓口の奥から老人が顔を出した。
「いらっしゃい」
森田は力ない声で答えた。
「ここで……過去を変えられるんですか」
「変えられる。座りなさい」
森田が座ると、老人は彼をじっと見つめた。その目には深い疲労と諦めの色が見えた。
「何を変えたい?」
老人が尋ねた。森田は震える声で言った。
「30年前……俺が、音楽を諦めた日を」
30年前の秋。森田誠一は25歳だった。ロックバンドのギタリストとして、インディーズで活動していた。バンド名は「蒼い月」。メンバーは4人。ボーカルの沢村、ベースの田口、ドラムの山崎、そしてギターの森田。彼らはライブハウスで演奏していた。客は少なかった。しかし音楽への情熱は誰にも負けなかった。
「誠一、お前のギター、最高だったぜ」
ライブの後、沢村が言った。
「ありがとう」
森田は微笑んだ。ギターが好きだった。音楽が好きだった。しかし現実は厳しかった。バンドの収入はほとんどゼロ。森田は昼間はバイトをしていた。コンビニ、居酒屋、工事現場。生活は苦しかった。
ある日、森田の父親が倒れた。脳梗塞だった。入院し、リハビリが必要になった。母親から電話があった。
「誠一、お父さんが倒れたの」
「え!?」
「今、入院してる。でも、治療費が……」
母親の声は震えていた。森田は実家に帰った。父親はベッドに横たわっていた。左半身が麻痺していた。
「父さん……」
「誠一……」
父親は力なく言った。
「すまんな……迷惑かけて」
「何言ってるんだよ」
森田は涙を堪えた。医者が言った。
「リハビリを続ければ、ある程度は回復します」
「しかし、治療費が……」
母親が心配そうに尋ねた。
「月に20万円ほどかかります」
「そんなに……」
森田は愕然とした。母親のパート収入だけでは到底払えない。森田が稼がなければならない。
東京に戻り、バンドのメンバーに相談した。
「悪い、しばらく実家に帰らないといけない」
「誠一の親父さん、大丈夫か?」
沢村が心配そうに尋ねた。
「リハビリが必要なんだ。治療費を稼がないと」
「そうか……」
メンバーは黙り込んだ。田口が言った。
「誠一、俺たち、来月メジャーデビューのオーディションがあるんだ」
「え?」
「レコード会社から、声がかかった」
森田は驚いた。
「それ、すごいじゃないか!」
「ああ。でも、全員揃ってないと無理だ」
「誠一、どうする?」
沢村が尋ねた。森田は迷った。メジャーデビューのチャンス。これまで何年も追い求めてきた夢。しかし父親の治療費も必要だ。
「いつ、オーディション?」
「来月の15日」
「それまでに、何とかできないか?」
森田は必死に考えた。しかし無理だった。父親のリハビリは長期間必要だ。森田が実家に帰らなければ、母親一人では支えられない。
森田は決断した。
「悪い……俺、抜ける」
「誠一……」
「父さんを、見捨てられない」
「でも、お前の夢は……」
「いいんだ。また、いつかチャンスはあるだろう」
森田は無理に笑った。沢村が言った。
「誠一、待ってくれよ。俺たち、お前なしじゃ無理だ」
「大丈夫。代わりのギタリスト見つけてくれ」
「そんな簡単に……」
「頼む」
森田は頭を下げた。こうして、森田は音楽を諦めた。実家に帰り、地元の工場で働き始めた。給料は良くなかったが安定していた。父親の治療費を払い、家族を支えた。
それから30年。森田は55歳になっていた。ずっと同じ工場で働いていた。昇進もなく、給料も上がらなかった。父親は10年前に亡くなった。母親も5年前に亡くなった。森田は独身だった。結婚する余裕も時間もなかった。
ある日、テレビで「蒼い月」の特集を見た。バンドはメジャーデビューに成功していた。ギタリストは森田の代わりに入った若者だった。名前は矢野。「蒼い月」は大ヒットした。数々のアルバムを出し、武道館でもライブをした。今ではレジェンドバンドとして知られていた。
沢村がインタビューで言った。
「初代ギタリストの森田には、感謝してます」
「彼がいなければ、バンドは始まらなかった」
「でも、家族の事情で抜けたんです」
「彼の分まで、俺たちは頑張ってきました」
森田はテレビを消した。涙が出た。あれが俺の場所だった。俺のギターがあのステージにあったはずだった。森田は後悔した。あの時、バンドを続けていれば。父親を……見捨てていれば。いや、そんなことは考えるべきではない。しかし後悔は消えなかった。30年間、ずっと心の奥にあった。そしてついに耐えられなくなった。
森田は過去改変局の噂を聞いた。最初は信じなかった。しかし藁にもすがる思いで探した。そして見つけた。
「あの日を、変えたいんです」
森田は老人に言った。
「バンドを抜けなかった自分に」
「父親を……見捨てて、音楽を続けた自分に」
老人はじっと森田を見つめた。
「父親を見捨てる……それが、あなたの望みかね?」
「はい……いや、違う」
森田は混乱した。
「俺は、ただ……音楽を続けたかった」
「でも、それには父親を見捨てる必要があった」
老人は深くため息をついた。
「森田さん、確認したい」
「はい」
「あなたが変えたいのは、バンドを抜けた決断だね?」
「そうです」
「しかし、父親の病気は変えられない」
「わかっています」
老人は続けた。
「つまり、改変後の世界では、父親は病気のまま、あなたはバンドを続ける」
「それでいいんです」
「母親一人で、父親を支えることになる」
「……それでも、いいんです」
老人の目が厳しくなった。
「本当に、それでいいのかね?」
「俺は……俺の人生を生きたいんです」
森田は必死に訴えた。
「30年間、俺は何のために生きてきたんですか?」
「父親のため、家族のため」
「でも、俺自身の夢は?俺の人生は?」
「何も残ってないんです!」
老人は黙って聞いていた。そして言った。
「シミュレーションを見せよう」
「お願いします」
森田は頷いた。
リクライニングチェアに座り、森田は機械を装着された。
「では、始める。30年前に戻る」
老人がスイッチを入れた。森田の意識が遠のいていく。
気がつくと、森田はライブハウスにいた。30年前のあの日。メンバーが集まっていた。
「誠一、どうする?」
沢村が尋ねた。森田——過去の森田は答えた。
「俺、バンド続ける」
「え?親父さんは?」
「母さん一人で、何とかしてもらう」
メンバーが驚いた。
「本当にいいのか?」
「ああ。俺、音楽を諦められない」
「でも……」
「頼む。俺をバンドに置いてくれ」
森田は懇願した。沢村は困った顔をした。しかし頷いた。
「わかった。一緒に頑張ろう」
「ありがとう」
これが改変された過去。森田はバンドを続けることを選んだ。
時間が流れた。オーディションの日が来た。「蒼い月」は全員揃って演奏した。森田のギターは冴えていた。レコード会社の人間が言った。
「素晴らしい。契約しましょう」
メンバーは大喜びした。森田も嬉しかった。夢が叶った。しかしその夜。実家から電話があった。母親からだった。
「誠一……お父さんが……」
「どうした?」
「リハビリ、続けられなくなったの。お金がなくて……」
母親の声は泣いていた。
「そんな……」
「誠一、お願い。少しでいいから、お金を……」
「母さん、ごめん。今、俺も余裕ないんだ」
「そう……わかったわ」
電話が切れた。森田は罪悪感に襲われた。しかし振り切った。今は音楽に集中しなければ。
1年が過ぎた。「蒼い月」はデビューアルバムを出した。そこそこ売れた。森田はプロのミュージシャンになった。しかし実家からの連絡は途絶えていた。森田は気になりながらも連絡しなかった。音楽が忙しかったのだ。
2年が過ぎた。「蒼い月」は2枚目のアルバムを出した。さらにヒットした。全国ツアーも行った。森田は充実していた。そしてある日。親戚から電話があった。
「誠一、お父さんが亡くなったよ」
「え……」
森田は愕然とした。
「いつ……」
「昨日。葬式は明後日だ」
「わかりました」
森田は実家に帰った。葬式には親戚だけが集まっていた。母親はやつれていた。
「誠一……」
「母さん、ごめん」
「……」
母親は何も言わなかった。ただ悲しそうな目で森田を見た。葬式の後、親戚の一人が森田に言った。
「誠一、お前、音楽で成功したんだって?」
「ええ……まあ」
「良かったな。でも、親父さんは寂しかっただろうな」
「……」
「お前が帰ってくるのを、ずっと待ってたんだぞ」
親戚の言葉が森田の胸に刺さった。森田は父親の遺影を見た。優しい顔をしていた。森田が子供の頃、ギターを買ってくれたのは父親だった。
「誠一、好きなことをやれ」
そう言ってくれた。森田は泣いた。父さん、ごめん。俺は音楽を選んだ。父さんを見捨てた。
3年が過ぎた。「蒼い月」はさらに人気が出た。武道館でライブをした。森田はステージに立っていた。何千人もの観客が手を振っていた。しかし森田の心は空虚だった。父親の顔が頭から離れなかった。罪悪感が消えなかった。
5年が過ぎた。森田は30歳になっていた。「蒼い月」は絶頂期だった。しかし森田はギターを弾くたびに父親のことを思い出した。ある日、母親が倒れた。過労だった。森田は病院に駆けつけた。
「母さん……」
「誠一……」
母親は弱々しく微笑んだ。
「無理しすぎたんだよ」
「ごめんなさい。でも、お父さんがいなくなって、一人で生きていくのが大変で……」
「俺が、もっと仕送りすれば……」
「いいのよ。誠一は、夢を叶えたんだから」
母親の言葉が森田を苦しめた。母親は回復した。しかし森田の心は回復しなかった。罪悪感が重くのしかかった。
10年が過ぎた。森田は35歳になっていた。「蒼い月」はまだ人気だった。しかし森田はギターを弾く情熱を失っていた。ある日、バンドのメンバーに言った。
「俺、もう限界だ」
「誠一、どうした?」
「音楽が、楽しくない」
「何言ってるんだよ」
「ごめん……俺、降りる」
メンバーは引き止めた。しかし森田の決意は固かった。森田はバンドを脱退した。それから森田は音楽から離れた。普通の仕事に就いた。しかし心の傷は癒えなかった。
20年が過ぎた。森田は55歳になっていた。元の世界と同じ年齢。しかしこの世界の森田は音楽で成功した経験がある。それでも幸せではなかった。父親を見捨てた罪悪感が一生消えなかった。ある夜、森田は母親に電話した。
「母さん、元気?」
「ええ、元気よ」
「あのさ……父さんのこと、許してくれた?」
「何を?」
「俺が、見捨てたこと」
母親はしばらく黙っていた。そして言った。
「お父さんは、あなたを恨んでなかったわよ」
「本当に?」
「ええ。最期まで、あなたの音楽を誇りに思ってた」
「でも……」
「誠一、あなたは悪くない。ただ、選んだだけ」
「母さん……」
「でもね、私は……少し寂しかったわ」
母親の声が震えた。森田は泣いた。音楽で成功しても、家族を失った。何のための成功だったのか。
シミュレーションが終わった。森田が目を覚ました。老人が尋ねた。
「どうだった?」
森田は呆然としていた。
「音楽で……成功しました」
「そうか」
「でも……幸せじゃなかった」
森田は涙を流した。
「父親を見捨てた罪悪感が、一生消えませんでした」
「音楽を楽しめませんでした」
「結局、何のための成功だったのか……」
老人は深く頷いた。
「森田さん、あなたは気づいたんだね」
「何に……?」
「成功と幸せは、別物だということに」
森田は震えた。
「俺は……何を求めていたんでしょう」
「あなたが求めていたのは、成功だったのか、それとも音楽そのものだったのか」
老人の言葉が森田の心に響いた。
「音楽……そのもの」
森田は呟いた。
「俺は、ただ音楽が好きだった」
「成功したかったわけじゃない」
「ただ、ギターを弾きたかった」
老人は微笑んだ。
「なら、今からでも遅くない」
「え?」
「ギターを、また弾けばいい」
「でも、俺はもう55歳です。プロにはなれない」
「プロになる必要があるのかね?」
森田ははっとした。
「音楽を楽しむのに、プロである必要はない」
「ただ、弾けばいい」
「あなたが音楽を好きなら」
森田は長い間考えた。そして言った。
「過去を、変えません」
「そうか」
老人は頷いた。
「俺は、父親を選びました」
「それは、間違っていなかった」
「音楽で成功することより、父親と最期の時間を過ごすことの方が、大切でした」
森田は涙を拭いた。
「でも、音楽を諦める必要はなかったんですね」
「ああ」
「趣味として、続けることができた」
「プロにならなくても、音楽は楽しめる」
森田は立ち上がった。
「ありがとうございました」
「どういたしまして」
「俺、今から……ギター、また弾いてみます」
「それがいい」
老人は微笑んだ。
森田が去った後、老人は一人、窓口に座っていた。また一人、過去を受け入れた。老人は思った。人は失ったものに目を向けがちだ。しかし得たものにも目を向けるべきだ。森田は音楽での成功を失った。しかし父親との時間を得た。それはかけがえのないものだ。
3ヶ月後。森田は地元の音楽教室に通い始めていた。ギターのレッスンを受けた。30年ぶりだったが、指はまだ覚えていた。
「森田さん、上手ですね」
若い講師が言った。
「昔、少しやってたんです」
「そうなんですか。もっと練習すれば、すぐに上達しますよ」
「ありがとうございます」
森田は家でもギターを弾くようになった。仕事から帰って、一人でギターを弾く。誰に聞かせるわけでもない。ただ自分のために。それが楽しかった。プロになれなくても。有名にならなくても。音楽はそこにあった。
半年後、森田は地元のアマチュアバンドに誘われた。
「森田さん、俺たちのバンド、ギタリスト探してるんです。良かったら」
「え、俺なんかでいいんですか?」
「もちろん!一緒にやりましょう」
森田はバンドに加わった。メンバーはみんな50代。仕事を持ちながら趣味で音楽をやっていた。月に一度、小さなライブハウスで演奏した。客は家族や友人だけ。でもそれでいいと思った。
ある日、ステージでギターを弾きながら、森田は思った。これが俺の求めていた音楽だ。成功じゃない。ただ音楽そのものだ。演奏が終わった後、客席から拍手が起こった。森田は深く頭を下げた。心から幸せだった。
その夜、森田は父親の仏壇に手を合わせた。
「父さん、俺、またギター弾いてるよ」
「プロにはなれなかったけど、これでいいんだ」
「父さんがくれたギター、大切にするよ」
風が吹いた。まるで父親が「よく頑張ったな」と言っているかのように。
過去改変局。老人は今夜も窓口に座っている。扉が開いた。一人の若い男性が入ってきた。
「あの……過去を変えたいんです」
「座りなさい」
老人はいつものように迎え入れた。
「何を変えたい?」
「5年前、俺、彼女に振られたんです」
「それで?」
「あの時、もっとちゃんと話していれば……」
男性は後悔に満ちた顔をしていた。老人は深く頷いた。
「シミュレーションを見せよう」
「お願いします」
物語は続いていく。人々の後悔と共に。しかし失ったものだけでなく、得たものにも目を向けることで、人は救われる。老人はそう信じている。だから今夜も窓口を開けている。暗い地下鉄の通路で。過去に囚われた人々に新しい視点を与えるために。




