第4話 消せない罪
前回のあらすじ
過去改変局を訪れた北村誠は、15年前の息子の誕生に立ち会わなかったことを後悔していた。しかし、シミュレーションで改変後の世界を見た北村は、過去を変えても失うものがあることを知る。老人の助言を受け、北村は過去を変えるのではなく、今から息子との時間を大切にすることを選んだ。そして、息子との関係は少しずつ良くなっていった。
過去改変局の窓口に辿り着くと、男性は立ち止まった。看板を見上げ、深く息をついた。そして扉を開けた。窓口の奥から老人が顔を出した。
「いらっしゃい」
田中は静かな声で答えた。
「ここが過去改変局ですか」
「そうだ。座りなさい」
田中が座ると、老人は彼をじっと見つめた。その目には深い疲労と、何か大きなものを失った人特有の空虚さがあった。
「何を変えたい?」
老人が尋ねた。田中はポケットから一枚の新聞記事を取り出した。黄ばんで角が擦り切れている。8年前の記事だ。
「8年前……俺が、この子を殺した日を」
8年前の夏。田中誠一は39歳だった。商社の営業マンとして、まずまずの成功を収めていた。ある日曜日の午後。田中は商談の後、車で帰宅していた。天気が良く、気分も良かった。しかし疲れていた。商談は3時間に及び、神経をすり減らした。早く家に帰って休みたかった。
住宅街を抜ける道。制限速度は40キロ。しかし田中は60キロ以上出していた。そしてカーブを曲がった時——目の前に小さな人影。女の子だった。ボールを追いかけて道路に飛び出してきた。
「危ない!」
田中は急ブレーキを踏んだ。しかし間に合わなかった。ドンという鈍い音。女の子が宙に舞った。車が止まった。田中は震えながら車を降りた。女の子が道路に倒れていた。血を流している。動かない。
「おい!大丈夫か!」
田中は駆け寄った。しかし女の子は反応しない。呼吸もしていない。周りに人が集まってきた。
「誰か救急車!」
誰かが叫んだ。
救急車が来た。女の子は運ばれていった。警察も来た。
「あなたが運転していたんですね?」
「は、はい……」
田中は震えながら答えた。
「スピード出してましたね」
「すみません……」
田中はただ謝ることしかできなかった。その日の夜。警察から連絡があった。
「田中さん、女の子は……亡くなりました」
田中の頭が真っ白になった。
「死んだ……?」
「ええ。頭部を強く打って、即死だったそうです」
「そんな……」
田中は崩れ落ちた。
女の子の名前は小林結衣。7歳だった。小学2年生。田中は逮捕された。罪名は自動車運転過失致死。スピード違反もあった。裁判が始まった。被害者の両親が法廷にいた。母親はずっと泣いていた。父親は田中を睨みつけていた。
「被告は制限速度を大幅に超過し、前方不注意のまま運転していました」
検察官が厳しく糾弾した。
「被告の軽率な運転により7歳の少女の命が奪われました」
「これは許されない罪です」
田中の弁護士は反論した。
「被告は深く反省しています」
「また被害者の飛び出しも事故の一因です」
しかしそれを聞いた被害者の父親が叫んだ。
「ふざけるな!娘のせいだと言うのか!」
「お前がスピード出さなければ!お前がちゃんと前を見ていれば!」
「娘は死ななかった!」
法廷が騒然となった。田中はただ頭を下げることしかできなかった。何を言っても言い訳にしかならない。自分が結衣ちゃんを殺したのだ。
判決が出た。懲役2年、執行猶予3年。実刑ではなかった。しかし田中にとって、それは何の救いにもならなかった。裁判の後、被害者の父親が田中に言った。
「お前はこれだけで済むのか」
「娘はもう戻ってこないのに」
「お前は生きて、笑って、幸せになれるのに」
「娘は7歳で人生が終わったのに」
父親は泣き崩れた。田中は何も言えなかった。その通りだった。自分は生きている。結衣ちゃんは死んでいる。それは変えられない事実だった。
それから田中の人生は壊れた。会社はクビになった。友人も離れていった。家族も失望した。田中は部屋に引きこもった。毎日、結衣ちゃんのことを考えた。なぜスピードを出したのか。なぜもっと注意しなかったのか。もしあの時——
田中は何度も死のうとした。しかし、できなかった。死ぬことすら許されない気がした。自分が死んでも結衣ちゃんは戻ってこない。8年が経った。田中は47歳になっていた。しかし8年前から時間が止まったままだった。
ある日、田中はネットで噂を見つけた。地下鉄の奥に過去を変えられる窓口があるらしい。最初は信じなかった。しかし藁にもすがる思いで探し始めた。そして見つけた。過去改変局。
「あの日を変えたいんです」
田中は老人に言った。
「スピードを出さなかった自分に。もっと注意深い自分に」
「そうすれば結衣ちゃんは……死ななかった」
老人はじっと田中を見つめた。
「田中さん、確認したい」
「はい」
「あなたが変えたいのは自分の運転の仕方だね?」
「そうです」
「しかし女の子が道路に飛び出してくることは変えられない」
「わかっています。でもスピードを出していなければ止まれたはずです」
老人は深く息をついた。そして言った。
「シミュレーションを見せよう」
「しかし一つだけ聞きたい」
老人が田中を見つめた。
「あなたは本当に過去を変えたいのか?」
「え?」
「それとも罰を受けたいだけなのか?」
田中は言葉に詰まった。
「俺は……」
「自分を許せないから、過去を変えて自分を消したいだけではないのか?」
老人の言葉が田中の胸に刺さった。
「……わかりません」
田中は正直に答えた。
「わからないなら見てみよう」
老人は奥の部屋を指差した。
リクライニングチェアに座り、田中は機械を装着された。
「では始める。8年前に戻る」
老人がスイッチを入れた。田中の意識が遠のいていく。
気がつくと田中は車を運転していた。8年前のあの日。商談の後、疲れている。しかし田中——過去の田中は違う選択をした。
「疲れてるな……ゆっくり帰ろう」
田中は安全運転を心がけた。住宅街を制限速度40キロで走った。そしてあのカーブに差し掛かった。その時。目の前に女の子が飛び出してきた。結衣ちゃんだ。ボールを追いかけて。田中は急ブレーキを踏んだ。タイヤがキーッと鳴った。車が止まる。結衣ちゃんの目の前で。間に合った。結衣ちゃんは無事だった。
「危ないぞ!」
田中は車を降りて結衣ちゃんに駆け寄った。
「ごめんなさい……」
結衣ちゃんは泣きながら謝った。
「いいんだ。でももっと気をつけなきゃダメだぞ」
「うん……」
結衣ちゃんは頷いた。その時、近くの家から女性が駆けてきた。結衣ちゃんの母親だった。
「結衣!大丈夫!?」
「ママ……」
母親は結衣ちゃんを抱きしめた。
「すみません、うちの子が……」
母親が田中に頭を下げた。
「いえ、無事で良かったです」
田中は微笑んだ。結衣ちゃんと母親は家に戻っていった。田中は車に乗り込んだ。心臓がまだ激しく鼓動している。
「危なかった……でも間に合って良かった」
これが改変された過去。結衣ちゃんは死ななかった。
時間が流れた。田中は普通に生活していた。会社で働き、家族と過ごした。事故のことは時々思い出した。あの時、間に合って良かった。もしスピードを出していたら……しかしそんなことは起きなかった。結衣ちゃんは生きている。
1年が過ぎた。田中は順調にキャリアを積んでいた。3年が過ぎた。田中は昇進した。5年が過ぎた。田中は部長になった。8年が過ぎた。田中は47歳になっていた。元の世界と同じ年齢。しかしこの世界の田中には罪の重さがわかっていなかった。あの日、たまたま間に合っただけ。運が良かっただけ。
田中は時々、不注意な運転をすることがあった。スピードを出しすぎたり、脇見をしたり。なぜなら「大丈夫だろう」という油断があったから。そして恐ろしいことに気がついた。この世界の自分はいつかまた同じ過ちを犯すかもしれない。いや、必ず犯すだろう。なぜなら罪の重さを知らないから。人を殺すということがどれほど取り返しのつかないことか、わかっていないから。田中は震えた。この幸せは偽物だ。何も学ばずに得た幸せは脆い。
シミュレーションが終わった。田中が目を覚ました。田中は涙を流していた。
「結衣ちゃんは……生きていました」
「そうか」
「でも……俺は何も変わっていませんでした」
田中は震えながら言った。
「罪の重さを知らない俺がそこにいました」
「同じ過ちをいつか繰り返すだろう俺が」
「それは……恐ろしかった」
老人は深く頷いた。
「田中さん、あなたは気づいたんだね」
「何に……?」
「過去を変えることは学びを消すことだと」
田中ははっとした。
「学び……」
「あなたは8年前の事故で取り返しのつかない罪を犯した」
老人は静かに言った。
「それは苦しいことだ。耐え難いことだ」
「しかし、その苦しみがあなたを変えた」
老人は続けた。
「今のあなたは8年前のあなたとは違う」
「人の命の重さを知っている」
「軽率な行動がどれほど恐ろしい結果を招くか知っている」
「それは結衣ちゃんの死があったからこそ得た学びだ」
田中は泣き続けた。
「でも……結衣ちゃんは死んでいます」
「俺のせいで」
「それは変わらないんですか?」
老人は長い沈黙の後、静かに言った。
「田中さん、もう一度聞きます」
「本当に過去を変えたいですか?」
田中は震えた。
「俺は……」
「結衣ちゃんを生き返らせたいのか」
「それとも自分の罪を消したいのか」
「どちらですか?」
田中は長い間考えた。そして気づいた。
「俺は……結衣ちゃんを生き返らせたいんです」
「自分の罪を消したいわけじゃない」
「結衣ちゃんに生きてほしい」
老人の目が優しくなった。
「それならば」
「過去を変えるべきです」
田中は驚いた。
「え……?」
「あなたの動機は正しい」
老人は言った。
「自分のためではなく、結衣ちゃんのため」
「ならば変えなさい」
「しかし……学びが消えると……」
「学びは消えません」
老人は首を振った。
「シミュレーションであなたはすでに学んだ」
「『罪の重さを知らない自分』がどれほど危険か」
「その学びは、改変後の世界でも残ります」
「本当ですか?」
「ええ」
老人は頷いた。
「過去改変局を経験した者は両方の世界の記憶を持ちます」
「あなたは結衣ちゃんが死んだ世界の記憶を持ったまま」
「結衣ちゃんが生きている世界で生きることになる」
田中は震えた。
「それは……」
「辛いでしょう」
老人は静かに言った。
「誰にも理解されない記憶を抱えて生きる」
「しかしあなたはその覚悟がありますか?」
田中は長い間考えた。そして答えた。
「あります」
「結衣ちゃんが生きているなら」
「その記憶を抱えて生きます」
老人は深く頷いた。
「わかりました」
「では契約書にサインを」
田中は契約書にサインをした。老人が機械を操作し始めた。
「では改変を開始する」
部屋が光に包まれた。田中の意識が遠のいていく。そして——
気がつくと田中は自分の部屋にいた。見覚えのある部屋。しかし何かが違う。壁に家族写真が飾られている。妻と子供たちの写真。田中は混乱した。これは……改変後の世界か?
机の上にスマートフォンがある。田中は手に取った。ニュースアプリを開く。日付を確認する。現在。そして検索する。
「小林結衣」
検索結果が表示された。SNSのアカウントがヒットした。開いてみる。そこには15歳になった結衣の写真があった。笑顔の女の子。友達と楽しそうに写っている。田中は涙を流した。
「生きてる……」
「結衣ちゃんが生きてる……」
しかし同時に田中は思い出していた。もう一つの世界の記憶。結衣ちゃんを轢き殺してしまった世界。8年間苦しみ続けた世界。その記憶は消えていない。鮮明に残っている。田中は震えた。これから自分は二つの記憶を持って生きていく。結衣ちゃんを殺した記憶。そして結衣ちゃんが生きている現実。
老人の言葉を思い出した。
「辛いでしょう。誰にも理解されない記憶を抱えて生きる」
確かに辛い。この記憶は誰とも共有できない。妻にも、友人にも、誰にも。しかし田中は思った。これでいい。結衣ちゃんが生きているなら。
田中は窓の外を見た。青い空。どこかで結衣ちゃんが元気に生きている。それだけで十分だ。
それから田中の人生は変わった。会社での仕事は順調だった。しかし田中は決してスピードを出さなくなった。決して不注意な運転をしなくなった。なぜなら知っているから。一瞬の油断がどれほど恐ろしい結果を招くか。同僚が不思議がった。
「田中さん、慎重すぎませんか?」
「いや、これくらいでちょうどいい」
田中は答えた。
そして田中は交通安全のボランティアを始めた。学校で講演をした。
「一瞬の油断が人の命を奪います」
「私は……知っています」
「どれほど恐ろしいことか」
子供たちは真剣に聞いていた。
ある日、講演の後、一人の女子生徒が近づいてきた。15歳くらい。
「あの、ありがとうございました」
女子生徒が言った。
「私、道路に飛び出すことがあって」
「でも今日のお話を聞いて、気をつけようと思いました」
田中はその子を見た。そして気づいた。小林結衣だ。田中は震えた。目の前に結衣ちゃんがいる。生きている。15歳になった結衣ちゃんが。
「あの……大丈夫ですか?」
結衣が心配そうに尋ねた。田中は涙を拭いた。
「ああ、大丈夫」
「気をつけてね」
「道路に飛び出したら危ないから」
「はい」
結衣は微笑んで去っていった。田中は涙を流し続けた。良かった。結衣ちゃんは生きている。元気に、幸せに。この記憶の重さを抱えても。結衣ちゃんが生きているなら。それで十分だ。
過去改変局。老人は一人、窓口に座っていた。田中は過去を変えた。正しい選択だった。老人は思った。過去を変えるべき時もある。変えないべき時もある。大切なのは動機だ。自分のためか。誰かのためか。田中は誰かのために過去を変えた。それは正しい。
老人は窓の外を見た。いや、過去改変局には窓はない。しかし老人の心の目には、外の世界が見えた。結衣ちゃんが元気に生きている世界。田中がその記憶の重さを抱えて生きている世界。それでいい。
扉が開いた。新しい依頼者が入ってきた。
「いらっしゃい」
老人はいつものように迎え入れた。物語は続いていく。人々の選択と共に。そして時には、過去を変えることが正しい選択であることもある。老人はそう信じている。
読みにくい箇所も多いので後日修正するかも知れません。




