第3話 取り戻せない時間
前回のあらすじ
過去改変局を訪れた高橋真理子は、10年前に親友の山田優子に言った「中途半端だね」という言葉を取り消したいと願った。しかし、シミュレーションで改変後の世界を見た真理子は、どんな選択をしても優子が苦しんでいたことを知る。真理子は過去を変えることを諦め、代わりに優子の遺した小説を出版し、親友の夢を叶えることを選んだ。
深夜3時。
地下鉄の通路は、いつにも増して静かだった。
明滅した蛍光灯の光が、冷たくコンクリートの壁を照らしている。
一人の男性が、過去改変局の窓口に立っていた。
40代半ばだろうか。スーツは皺だらけ。無精髭が伸びている。目は充血し、顔色は悪い。
名前は、北村誠。
窓口の奥から、老人が顔を出した。
「いらっしゃい」
いつもと同じ、穏やかな声。
北村はカウンターに両手をついた。
「頼む…過去を変えてくれ」
その声は、切羽詰まっている。
「座りなさい」
老人は、椅子を勧める。
北村が座ると、老人は古びたノートを開いた。
「何を変えたい?」
「15年前…息子が生まれた日を」
北村の声が震える。
「息子?」
「ああ。15年前、息子が生まれた。名前は、拓海」
北村は、拳を握りしめた。
「それで?」
「その日、俺は…病院にいなかった」
15年前の冬。
北村誠、29歳。
中堅商社に勤め、営業部のエースとして評価されていた。
妻の由美は妊娠9ヶ月。
初めての子供だった。
「誠、もうすぐ会えるね」
由美は、幸せそうに微笑んでいた。
「ああ。楽しみだな」
北村も心から楽しみにしていた。
しかし、ある日、上司から呼び出された。
「来月大阪で大きな商談がある。北村、お前に任せたい」
「大阪ですか?」
「ああ。3日間の出張だ。頼むぞ」
北村は、困った。
出張の日程は、由美の出産予定日と重なっていた。
家に帰り、由美に伝えた。
「出張…そうなんだ」
由美は、少し寂しそうだった。
「すまない。でも、仕事だから」
「わかってるよ。大丈夫」
由美は、微笑んだ。
「予定日より早く生まれるかもしれないし。遅れるかもしれないし」
「そうだな」
北村は、そう信じたかった。
出張の日が来た。
大阪に向かう。
商談は順調だった。大きな契約が取れそうだ。
出張2日目の夜。
北村の携帯が鳴った。
由美の母親からだった。
「誠さん!陣痛始まったの!」
「え!?」
「今、病院に向かってます!」
北村は、慌てた。
「すぐに戻ります!」
「でも、大阪なんでしょ?間に合わないわ」
「それでも…」
しかし、その時、上司から連絡が入った。
「北村、明日の最終プレゼン、頼むぞ。お前がいないと契約が取れない」
北村は迷った。
息子の誕生に立ち会うか。
仕事を優先するか。
そして…。
「すみません、義母さん。俺、明日の昼には戻ります。それまで……」
「わかったわ。由美には、伝えておくわね」
電話が切れた。
北村は一晩中眠れなかった。
翌日、プレゼンは成功し、契約が取れた。
上司は大喜びだった。
「北村!やったな!」
「はい…」
しかし、北村の心は晴れなかった。
急いで東京に戻り、病院に駆け込む。
由美は病室にいた。
ベッドの上で、赤ん坊を抱いている。
「由美…、ごめん」
北村が近づく。
由美は顔を上げた。
その目には涙が浮かんでいた。
「誠……」
「すまない、間に合わなくて」
「……」
由美は何も言わなかった。
ただ、赤ん坊を見つめていた。
「これが、拓海か」
北村は息子を見た。
小さな、小さな命。
「抱いてみる?」
由美が、尋ねた。
「ああ」
北村は拓海を抱いた。
温かかった。
小さな手が、動いた。
北村は気づく。
由美の目が、冷たいことに。
「由美…」
「大事な仕事だったんでしょ?」
「ああ…でも…」
「ならいい。お疲れ様」
由美の声には棘があった。
それから、二人の関係は少しずつ変わっていった。
「由美は俺を許してくれなかった」
北村は老人に語った。
「表面上は普通に接してくれた。でも、心のどこかでずっと恨んでいたんだと思う」
「…」
「そして、拓海が5歳の時、由美は出て行った。拓海を連れて。そして離婚届が送られてきた…」
北村の目から、涙がこぼれた。
「拓海の親権は?」
老人が尋ねた。
「由美が取った。俺は、月に一度会えるだけ」
「そうか」
「でも、拓海は俺に懐かなかった。当然だ。生まれた時にいなかった父親だから」
北村は、顔を覆った。
「それで、息子が生まれた日を変えたいと?」
「ああ。あの日、出張を断って、病院にいたかった」
「仕事は?」
「どうでもいい!息子の誕生より大事な仕事なんて、あるわけない!」
北村は叫んだ。
老人はしばらく黙っていた。
そして、言った。
「シミュレーションを見せよう」
「頼む」
北村は頷いた。
リクライニングチェアに座り、北村は機械を装着する。
「では、始める。」
老人がスイッチを入れた。
北村の意識が、スッと遠のいていく。
北村は大阪のホテルにいた。
15年前のあの夜。
携帯が鳴っている。
由美の母親からだ。
「誠さん!由美が、陣痛始まったの!」
北村——過去の北村は、答えた。
「すぐに戻ります!」
「でも、大阪なんでしょ?」
「大丈夫です。今から新幹線に乗ります!」
北村は、荷物をまとめた。
上司に電話した。
「部長、すみません。妻が出産で……明日のプレゼン、欠席させてください」
「何だと!?明日はどうするつもりなんだ!お前がいなくて誰がプレゼンするんだ!?」
「すみません!でも、息子の誕生には立ち会いたいんです!」
「…わかった。仕方ない」
上司は、渋々了承した。
北村は新幹線に飛び乗った。
深夜には東京に着く。
深夜、病院に着くと由美はまだ分娩室にいた。
「誠さん!」
義母が、駆け寄ってきた。
「間に合いました!」
「ありがとう。まだ生まれてないわ」
北村はほっとした。
そして、数時間。
拓海が生まれた。
北村は、その瞬間に立ち会うことができた。
「誠…」
由美が疲れ切った顔で微笑んだ。
「由美、お疲れ様」
北村は由美の手を握った。
「来てくれたんだね」
「当たり前だろ」
二人は笑い合った。
そして、拓海を抱いた。
「拓海、パパだぞ」
小さな命が、北村の腕の中にあった。幸せだった。
これが、改変された過去。
北村は息子の誕生に立ち会うことができた。
時間が流れる。
拓海はすくすくと育っている。
北村と由美の関係も良好だった。
ある日。
会社で部長から呼び出された。
「北村、ちょっといいか」
部長が深刻な顔をしていた。
「はい」
「お前、あの大阪の商談覚えてるか?」
「…はい」
「あれ、お前が欠席したせいで、契約取れなかったんだ」
北村は息を呑む。
「後任の奴が行ったが、力不足でな。先方は非常に怒られてな、契約にならなかった。」
「すみません…」
「それでな、会社に大きな損失が出たんだよ。」
部長は続けた。
「お前な、来月から地方に転勤」
「え…」
北村は、地方の支店に異動することになった。
単身赴任。
由美と拓海は東京に残る。
「誠、仕方ないよ」
由美は、言った。
「でも…」
「拓海のためにも頑張って」
「ああ」
北村は地方に赴任した。月に一度、東京に帰ってくる。
拓海は北村に懐いていた。
「パパ!」
抱きついてくる拓海。
それだけが北村の救いだった。
2年後。
さらに悪いことが起きた。
会社の業績が悪化し大幅なリストラを始めたのだ。
北村も、対象になった。
「北村くん、悪いね。辞めてもらいたいんだ」
「え…」
「あの大阪の件、まだ尾を引いててな。君の評価、低いんだよ」
北村は解雇された。
40代で無職。再就職は難しかった。
やっとのことで就職できたものの、給料は前の半分以下。生活は、苦しくなった。
「誠、大丈夫?」
由美が、心配そうに尋ねた。
「ああ…何とかする」
しかし、北村は焦っていた。
拓海が5歳になった。
ある日、由美が言った。
「誠、私…働こうと思うの」
「え?」
「拓海も、もうすぐ小学生だし。家計も苦しいし」
「…すまない」
北村は情けなかった。
由美は働き始めた。
パートだったが家計の足しになった。
その頃から、北村と由美はすれ違い始めた。
お互いに疲れていた。
拓海が10歳になった頃。
拓海の教育費を稼ぐため、北村は副業を始め、家にいる時間が減った。
「パパ、今日も遅いの?」
拓海が寂しそうに言う。
「ごめんな、拓海。パパ、お金稼がないと」
「…うん」
拓海は諦めたような顔をした。
そして、拓海は15歳になった。
北村は疲れ切っていた。
拓海との関係もぎこちなかった。
あまり会話がない。
ある日、由美が言った。
「誠、拓海が『父さんとあまり話したことない』って言ってた」
「え…」
「あなた、働きすぎよ。もっと拓海と過ごしたら?」
「でも、金稼がないと…」
「お金より、時間よ」
由美の言葉が北村の胸に刺さった。
息子の誕生には立ち会えた。
しかし、その後の15年間、息子とほとんど過ごせなかった。
結局は同じだった。
シミュレーションが終わった。
北村が目を覚ます。
老人が尋ねた。
「どうだった?」
北村は、呆然としていた。
「最悪だった…」
「そうか」
「誕生には立ち会えた。でも、その後の人生がめちゃくちゃになった」
北村は頭を抱えた。
「北村さん」
老人が、静かに言った。
「あなたは何を求めていた?」
「息子との時間だ」
「なら、誕生に立ち会うことだけが、答えではないのではないか?」
「どういう…」
「あなたが本当に求めているのは、息子と過ごす時間だ。それは、過去を変えることでは得られない」
「じゃあ、どうすれば……」
「今から作るんだ」
老人は、北村を見つめた。
「今から…?」
「ああ。拓海くんは15歳だ。まだ遅くない」
「でも、親権は由美にあるし…」
「月に一度会えるんだろう?その時間を大切にするんだ」
老人の言葉が、北村の心に響いた。
「でも、拓海は俺に懐いてない…」
「なら、懐いてもらう努力をしろ」
「どうやって…」
「拓海くんが好きなことを知るんだ。そして、一緒にやるんだ」
老人は続ける。
「過去は変えられない。でも未来は作れる」
北村は涙を流す。
「そうか…俺、間違ってました」
「間違ってはいない。ただ、過去に囚われすぎていた」
「過去を変えても、未来が変わるわけじゃないんですね」
「そうだ。未来は、今の行動で作られる」
北村は立ち上がる。
「ありがとうございました」
「どういたしまして」
「俺、今から拓海と向き合います」
「それがいい」
老人は、微笑んだ。
北村が、扉に向かおうとした時、老人が呼び止めた。
「一つだけ」
「はい?」
「拓海くんは、あなたを嫌っていない。ただ、どう接していいかわからないだけだ」
北村は、頷いた。
「わかりました」
北村が去った後、老人は一人窓口に座っていた。
また一人、未来に向かって歩き出した。
老人は古びたノートを閉じた。
今夜の客はこれで終わりだろう。
しかし、明日になれば、また誰かが来る。
過去を変えたいと願う人々。
老人は、彼らを迎え入れ真実を告げる。
過去は変えられる。
しかし、それが幸せをもたらすとは限らない。
本当に大切なのは、未来を作ること。
老人はそう信じている。
翌週。
拓海と会う日だった。
いつもはファミレスで食事をするだけ。
会話も少ない。
しかし、今日は違った。
北村は、事前に由美に連絡していた。
「拓海、最近何に興味あるの?」
「え?急にどうしたの?」
「いや、ちゃんと知っておきたくて」
由美は、少し驚いたようだった。
「そうね…最近、ギター始めたわよ」
「ギター?」
「ええ。友達の影響で。でも、まだ下手くそだけど」
「そうか…」
北村は考えた。
そして、拓海と会う日。
北村は、ギターショップに拓海を連れて行った。
「え?父さん、なんで?」
拓海は驚く。
「お前、ギター好きなんだろ?一緒に見ようと思ってさ」
「…」
拓海は戸惑った様子だった。しかし、嬉しそうだった。
店内で、拓海は目を輝かせる。
「このギター、かっこいい…」
「試奏してみたらどうだ?」
「いいのかな?」
「ああ」
拓海はギターを手に取り、下手くそながら、弾いてみる。
北村はその姿を見つめた。息子が楽しそうにしている。それだけで、嬉しかった。
「拓海、もっと上手くなりたいか?」
「うん!」
「なら、ギター教室、通ってみるか?」
「え!?でも、お金…」
「大丈夫。父さんが出すよ」
北村は、微笑んだ。
「本当に!?」
「ああ」
拓海の顔が明るくなった。
それから、二人はカフェに入った。
今までにない、長い会話をした。
ギターのこと。学校のこと。友達のこと。拓海は、少しずつ話してくれた。
「今日…楽しかった」
拓海が、照れくさそうに言った。
「俺もだ」
北村は、涙が出そうになった。
15年間求めていたもの。それが、今、ここにある。
数ヶ月後。
北村は月に一度の面会日を大切にした。
毎回、拓海の好きなことを一緒にした。
ある日、拓海が言った。
「父さん、今度の文化祭、来てくれない?」
「文化祭?」
「うん。俺、バンドでギター弾くんだ」
「本当か!?行く、絶対行くよ!」
北村は大喜びした。
文化祭の日。
北村は、少し早めに会場にきていた。
そこには由美もいた。
「誠…」
「由美、久しぶり」
「拓海、嬉しそうだったわよ。あなたが来るって」
「そうか…」
北村は胸が熱くなった。
ステージに拓海が現れた。
ギターを抱えている。
そして演奏が始まった。
まだ下手くそだった。
音を外すこともあった。
しかし、拓海は楽しそうだった。
一生懸命だった。
北村はそっと涙を流す。
息子の成長をこの目で見られる。
それが、何より幸せだった。
演奏が終わった。
拓海が客席を見た。
北村と目が合った。
拓海が笑顔で手を振った。
北村も手を振り返した。
文化祭の後、三人で食事をした。
北村と由美と拓海。
元は家族だった三人。
「拓海、良かったぞ」
北村が言った。
「ありがとう、父さん」
「これからも頑張れよ」
「うん」
拓海は嬉しそうだった。
由美が北村に小さく言った。
「誠、変わったわね」
「え?」
「前は、拓海との時間、義務みたいにしてたでしょ。でも今は楽しんでるわね」
「…ああ。やっと気づいたんだ」
「何に?」
「大切なのは、過去じゃなくて、今だって」
北村は微笑んだ。
由美も微笑み返した。
「そうね」
その夜、北村は過去改変局のことを思い出した。
老人のあの言葉。
「過去は変えられない。でも、未来は作れる」
北村は感謝した。
老人に会わなければ、今もまだ過去に囚われていただろう。
拓海との時間を、無駄にしていただろう。
北村は空を見上げた。
「ありがとう、じいさん」
風が吹いた。
まるで、老人が「どういたしまして」と言っているかのように。
過去改変局。
老人は、今夜も窓口に座っている。
次の客を待ちながら。
扉が開き。若い男性が入ってくる。
「あの…ここで、過去を変えられるんですか?」
「変えられるよ。座りなさい」
老人は、いつものように迎え入れた。
「何を変えたい?」
「5年前、俺、交通事故を起こしたんです」
「それで?」
「人を、轢いてしまって…」
男性の声が、震えた。
老人は深く頷いた。
「シミュレーションを見せよう」
「お願いします」
物語は続いていく。
人々の後悔と共に。
しかし、過去を受け入れ、未来を作ることで、人は救われる。
老人は、そう信じている。
だから、今夜も窓口を開けている。
暗い地下鉄の通路で。
過去に囚われた人々を、未来へと導くために。




