第2話 消せない言葉
前回のあらすじ
地下鉄の奥深くにある「過去改変局」。そこでは、過去を変えたいと願う人々を老人が迎え入れる。恋人を交通事故で失った木下純也は、過去を変えようとするが、シミュレーションで改変後の世界を見て、過去を受け入れることを選んだ。老人は今夜も、新たな依頼者を待っている。
深夜2時。
地下鉄の通路は、相変わらず静まり返っている。
蛍光灯が、時折チカチカと明滅する。
一人の女性が、過去改変局の窓口に立っていた。
30代前半。スーツ姿。疲れ切った表情。目の下には深いクマ。
名前は、高橋真理子。
窓口の奥から、老人が顔を出した。
「いらっしゃい」
真理子は、震える声で答えた。
「あの…ここで、本当に過去を変えられるんですか?」
「変えられる。ただし、条件がある」
老人が言う。
真理子は、カウンターに手をついた。
「変えたいんです。10年前の、あの日を」
「座りなさい」
老人は、椅子を勧めた。
真理子が座ると、老人は古びたノートを開く。
「何を変えたい?」
「10年前…、私が大学生の時、親友に言った言葉を」
10年前の春。
真理子は、都内の有名私立大学に通っていた。
そこで出会ったのが、親友の山田優子だった。
優子は、真理子とは正反対の性格だった。
真理子は真面目で計画的。優子は自由奔放で夢見がち。
正反対のふたりだが、それでも、二人は仲が良かった。
ある日、優子が言った。
「真理子、聞いて!私、小説家になる!」
優子は、創作が好きだった。いつもノートに何かを書いていた。
「素敵ね」
真理子は答えた。
「でしょ?だから、就職活動しないことにした」
「え?」
「卒業したら、小説を書くことに専念するの。バイトしながら」
真理子は、驚いた。
「それって…リスク高くない?」
「でも、夢だもん」
優子は笑った。
それから数ヶ月後。
優子は、文学賞に応募した。
結果は落選だった。
「次があるよ」
真理子は、優子を励ます。
優子は何度応募しても、落選し続けた。
大学4年の冬。
真理子は、大手広告代理店から内定をもらっていた。
優子は、相変わらず就職活動をせず、小説を書き続けていた。
ある日、優子が真理子に相談した。
「ねえ、真理子。私、このまま小説家を目指していいのかな」
「え?」
「もう何度も落選してる。才能ないのかもしれない」
優子の目には、不安が浮かんでいた。
真理子は、言った。
「優子、才能ってすぐには開花しないよ。続けることが大事じゃない?」
「でも…」
「それに、優子の小説、私は好きよ」
「本当?」
「本当」
真理子は微笑み、優子がはにかむ。
数週間後。
優子が、また相談に来た。
「真理子、やっぱり就職しようかな」
「え?小説家の夢は?」
「諦めるわけじゃないけど、働きながらでもできるし」
優子は、迷っていた。
真理子は、その時——。
今でも後悔している、あの言葉を言った。
「優子、中途半端だね」
「え?」
「小説家になりたいって言ったり、就職したいって言ったり。どっちなの?」
真理子の声には、苛立ちが混じっていた。
真理子は就職活動で疲れていた。毎日面接、エントリーシート。
一方、優子は自由に小説を書いている。
真理子は、優子が羨ましかったのかもしれない。
「真理子…」
優子の目に、涙が浮かんだ。
「ごめん、言い過ぎた」
真理子は謝った。
「ううん、真理子の言う通りだよ。私、中途半端だった」
優子は、無理に笑った。
それから、二人の関係はぎこちなくなった。
優子は、真理子を避けるようになった。
真理子も、どう接していいのかわからなくなった。
卒業式の日。
真理子は、優子を探した。
しかし、優子は式に来ていなかった。
優子と連絡が取れなくなった。
真理子は、何度もメールをした。
しかし、返信はなかった。
真理子は、老人に続けた。
「5年前、優子が亡くなったと聞きました」
「…」
「バイトをしながら小説を書き続けていたそうです。でも、一度も入選できなくて」
真理子の声が震えた。
「そして、自殺したんです。睡眠薬を大量に飲んで」
「それで、あの言葉を取り消したいと?」
老人が、静かに尋ねた。
「はい」
真理子は頷いた。
「あの時、私が『中途半端だね』なんて言わなければ…」
老人は、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「過去は変えられる。しかし、結果は保証しない」
「わかっています」
「では、確認だ。あなたが『中途半端だね』と言わなかった場合、優子さんはどうすると思う?」
「それは…」
真理子は、言葉に詰まった。
「小説家を目指し続けるか、就職するか。それは、優子さん自身が決めることだ」
「でも、私の言葉が、彼女を傷つけたんです」
「そうかもしれない。しかし、それだけが原因だったのかね?」
老人の目が、真理子を見つめた。
「…わかりません」
「では、シミュレーションを見せよう。あなたがあの言葉を言わなかった世界を」
老人は、奥の部屋を指差した。
「こちらへ」
リクライニングチェアに座り、真理子は機械を装着する。
「では、始める。10年前に戻る」
老人が、スイッチを入れた。
真理子の意識が、遠のいていく。
気がつくと真理子は大学の学食にいた。
向かいには優子が座っている。
10年前の、あの日。
「真理子、やっぱり就職しようかな」
優子が、言った。
「そうなんだ」
真理子——過去の真理子は、穏やかに答えた。
「小説家の夢は?」
「諦めるわけじゃないけど、働きながらでもできるし」
真理子は、言葉を選んだ。
「優子が決めたことなら、応援するよ」
「本当?」
「うん。どっちを選んでも、優子は優子だから」
優子は、微笑んだ。
「ありがとう、真理子」
これが、改変された過去。
真理子は、あの言葉を言わなかった。
時間が流れた。
卒業式。
優子は、式に出席していた。
「真理子、内定おめでとう」
「ありがとう。優子は?」
「私は、中小の出版社に就職することにした。編集の仕事」
「いいじゃない!小説にも近いし」
「うん。でも、自分でも小説は書き続けるつもり」
二人は、笑い合った。
それから、真理子は広告代理店で働き始めた。
忙しい日々。毎日の残業。
優子とは、時々会って食事をした。
1年が過ぎた。
優子は、出版社で編集の仕事をしていた。
「真理子、聞いて。私、新人作家の担当になったの」
「すごいじゃない」
「でしょ?その作家さん、私と同い年なんだよ」
「へえ」
「それでね、その人の小説読んでると、思うの。私も書きたいなって」
優子の目は、輝いていた。
2年が過ぎた。
優子は、相変わらず編集の仕事をしながら、小説を書いていた。
しかし、まだ入選できていなかった。
「真理子、また落選しちゃった」
優子は、少し落ち込んでいた。
「次があるよ」
「うん…でも、いつまで続けられるかな」
「優子らしくないこと言うね」
「だって、もう27歳だよ。周りはみんな結婚し始めてる」
優子は、ため息をついた。
3年が過ぎた。
優子の様子が、おかしくなり始めた。
会う約束をドタキャンする。メールの返信が遅い。
真理子は、心配になった。
「優子、大丈夫?」
「うん、大丈夫。ちょっと仕事が忙しくて」
しかし、優子の目には、疲れが見えた。
ある日、真理子は優子の同僚から連絡をもらった。
「高橋さん、優子ちゃんのこと、知ってますか?」
「え?どうしたんですか?」
「最近、会社を休みがちで……心配なんです」
真理子は、すぐに優子に連絡した。
しかし、返信がない。
真理子は、優子のアパートを訪ねた。
インターホンを押しても、反応がない。
管理人に事情を話し、鍵を開けてもらった。
部屋の中は、荒れていた。
脱ぎ散らかされた服。空の弁当容器。
そして、ベッドの上に、優子がいた。
「優子!」
真理子は、駆け寄った。
優子は、生きている。しかし、ひどく衰弱していた。
「真理子…」
「優子、どうしたの!?」
「ごめん…もう、疲れちゃった」
優子の目から涙が流れる。
真理子は救急車を呼び、優子は病院に搬送された。
医者は、言った。
「うつ病ですね。過労とストレスが原因でしょう」
「治りますか?」
「治療すれば良くはなります。それには時間が必要です」
優子は、会社を休職した。
真理子は、できるだけ優子を支えた。
しかし、仕事が忙しく、頻繁には会えなかった。
4年が過ぎた。
優子は、少しずつ回復していた。
会社にも復帰した。
しかし、小説は書かなくなっていた。
「もう、諦めたの」
優子は淡々と言った。
「才能ないんだって、わかったから」
「そんなこと…」
「いいの、真理子。もう楽になったから」
優子の笑顔は以前とは違っていた。
何かが、失われていた。
5年が過ぎた。
優子は29歳になっていた。
編集の仕事を続けているが、目に輝きはない。
ただ、日々をこなしているだけだ。
ある日、真理子と優子は食事をした。
「優子、最近どう?」
「普通だよ。仕事して家に帰って寝る。それだけ」
「…」
「真理子は?」
「私も、忙しいけど…やりがいはあるかな」
「そっか。良かったね」
優子の声には、感情がなかった。
真理子は、気づいた。
優子は、生きているけれど、死んでいるようなものだ。
夢を失った優子は、ただの抜け殻だった。
そして、5年後。
優子は命を絶った。
元の世界と同じ結末。
シミュレーションが終わった。
真理子が、目を覚ました。
老人が、尋ねた。
「どうだった?」
真理子は、呆然としていた。
「結局…同じでした」
「そうか」
「私が優しい言葉をかけても、優子は死んだ」
「そうか」
真理子は、泣き崩れた。
「じゃあ、何をしても無駄だったんですか!?」
「無駄ではない」
老人は静かに言った。
「あなたの言葉が、優子さんを殺したわけではない」
「でも…」
「優子さんは、自分の夢と現実の間で苦しんでいた。それは、あなたの言葉とは関係ない」
真理子は震えた。
「では、私は…何もできなかったんですか?」
「いや」
老人は、真理子を見つめた。
「あなたにできたことは、優子さんを支えることだった」
「支える…?」
「あなたは、改変後の世界で優子さんを助けるため救急車を呼んだ。それは正しい選択だった」
「でも、結局…」
「優子さんは、5年間生きた。元の世界より、長く」
老人の言葉に、真理子ははっとした。
「そうか…」
「あなたの優しさは、優子さんの命を5年間延ばした。それは意味のないことではない」
「でも、最後は…」
「人は、誰かに救われることもあれば、救われないこともある。あなたにできるのは、手を差し伸べることだけだ」
真理子は、涙を流し続けた。
少しだけ楽になった気がした。
「それで、どうする?」
老人が尋ねる。
「過去を変えるかね?」
真理子は、しばらく考えた。
そして、答えた。
「変えません」
「そうか」
「どちらの世界でも、優子は苦しんでいた。私の言葉は、関係なかった」
「良い気づきだ」
「でも…」
真理子は、老人を見つめた。
「一つだけ、教えてください」
「何だ?」
「元の世界で、私にできることはありますか?もう優子は死んでしまったけど…」
老人は深く頷いた。
「ある」
「何ですか?」
「優子さんの夢を、形にするんだ」
「夢を…?」
「優子さんが書いた小説は残っているだろう?それを出版するんだ」
真理子は、目を見開く。
「でも、私は編集者じゃないし…」
「出版社に持ち込めばいい。あなたが広告代理店で培った交渉力を使って」
「そんなこと、できるでしょうか…」
「できる。あなたは、優子さんの親友だから」
真理子は、希望を見出した。
「そうだ…優子の小説、私まだ持ってる」
「なら、それを世に出すんだ。優子さんの夢を叶えるんだ」
「はい…やってみます」
真理子は、立ち上がった。
「ありがとうございました」
深く頭を下げた。
「いいんだよ」
老人は、微笑んだ。
「過去は変えられなくても、未来は作れる」
真理子が過去改変局を出る。
地上に出ると、朝日が昇り始めていた。
真理子は空を見上げた。
「優子、待ってて」
「あなたの小説、絶対に出版するから」
それから1年間。
真理子は、仕事の合間を縫って、出版社を回った。
何度も断られた。
しかし、諦めなかった。
そして、ついに一つの出版社が興味を示した。
「面白い小説ですね。これ、本当に素人が書いたんですか?」
「はい。私の親友が」
「素晴らしい才能だ。出版しましょう」
優子の小説は、出版された。
タイトルは『夢の途中で』。
優子が生前、最後に書いた作品だった。
本は、静かに売れ始めた。
書評でも取り上げられた。
「新人作家の遺作とは思えない完成度」
「夢と現実の間で揺れる若者の心情を繊細に描いた傑作」
真理子は、本屋で優子の本を見つけ、手に取り、泣いた。
「優子、やったよ。あなたの夢、叶ったよ…」
数ヶ月後、優子の本は文学賞を受賞した。
授賞式では真理子がスピーチをすることになった。
「この作品を書いた山田優子は、私の親友でした」
「彼女は、夢を追い続けました。そして、力尽きました」
「でも、彼女の夢は、こうして形になりました」
「私は、彼女を救えませんでした」
「でも、彼女の作品を世に出すことはできました」
「それが、私にできる、最後の友情だと思っています」
会場は静まり返っていた。
そして、大きな拍手が起こった。
その夜、真理子は優子の墓を訪れた。
「優子、見てた?あなたの本、賞もらったよ」
「あなたの夢、叶ったんだよ…」
真理子は、涙を流した。
「…ごめんね、あんな言葉を言って」
「でも、あれはあなたを殺した言葉じゃなかった」
「あなたは、ただ夢と現実の間で苦しんでいただけだった」
「私にできたのは、あなたの夢を形にすることだけだった」
「それでも…それでも、やれて良かった」
風が吹いた。
まるで、優子が「ありがとう」と言っているかのように。
真理子は、立ち上がった。
「じゃあね、優子」
「また来るから」
真理子は歩き出す。
過去を背負いながら。
しかし、前を向いて。
過去改変局。
老人は、窓口に座っていた。
また、新しい客が来るだろう。
過去を変えたいと願う人々。
しかし、老人は知っている。
過去を変えることではなく、過去を受け入れ、未来を作ることが大切だと。
老人は、微笑んだ。
「今夜は、誰が来るかな」
扉が開いた。
一人の中年男性が入ってきた。
「あの…ここで、過去を変えられると聞いたんですが」
「変えられるよ。座りなさい」
老人は、いつもと同じように迎え入れた。
物語は続いていく。
人々の後悔と共に。
しかし、その後悔を乗り越えることで、人は成長する。
老人は、そう信じている。
だから、今夜も窓口を開けている。
暗い地下鉄の通路で。
過去に囚われた人々を、未来へと導くために。




