第1話 後悔の重さ
木下純也は、地下鉄の薄暗い通路を歩いていた。終電が出た後の駅は、静まり返っている。純也の足音だけが、コンクリートの壁に反響する。
ここ数日、純也はこの場所を探していた。
友人が酔った勢いで教えてくれた、奇妙な噂。
「駅の奥に過去を変えられる窓口があるらしいぜ」
最初は馬鹿にした。それでも噂を信じ探し続けた。
そして、ついに見つけた。
通路の奥、人目につかない場所に小さな窓口があった。
古びた木製のカウンター。その上に手書きの看板。
「過去改変局 — あなたの後悔、一つだけ修正します」
純也は、窓口に近づいた。
カウンターの奥、70代くらいの老人が顔を出した。白髪、深い皺、目は鋭い。
「いらっしゃい。過去を変えたいのかね?」
純也は頷く。
「本当に……変えられるんですか?」
老人は淡々と答える。
「変えられる。ただし、条件がある」
「条件?」
老人は古びたノートを取り出した。
「まず、変えられるのは、自分の行動、のみ。他人の行動や、事故や災害といった出来事は変えられない」
「つまり…」
「過去のある時点で違う選択をする、それだけだ。その結果、未来がどう変わるかは保証しない」
純也は考えた。
5年前の事故。あの日、純也は車を運転していた。隣には恋人の美咲が座っていた。
交差点で、トラックが信号無視をして突っ込んできた。
純也は美咲を守るため、自分の方に衝撃が来るようハンドルをきった。
結果、純也は軽傷だった。
しかし、美咲は——。助手席の美咲は、即死だった。
もし、あの日、純也が車を運転していなければ。もし、美咲が運転席で、純也が助手席だったら。美咲はハンドルを切って自分自身を守ろうとしただろうか?
いや、きっと純也を守ろうとしただろう。そして、純也が死に、美咲が生き残る。
それなら、せめて——。
純也は、老人に伝えた。
「あの日、俺が運転しないという選択は?」
「可能だ。では、誰が運転する?」
「美咲…、恋人です」
老人は、ノートに何かを書き込んだ。
「わかった。確認だ。君が運転しなければ、彼女が運転する。事故は起きる。彼女が咄嗟にどう判断するかはわからない」
「わかってます」
「本当にいいのか?また彼女が死ぬかもしれない。あるいは君が死ぬかもしれない。あるいは、二人とも死ぬかもしれない」
純也は、拳を握りしめた。
「それでも、俺が運転したくない。俺が彼女を殺したんです」
老人は、じっと純也を見つめた。
「君が殺したのではない。事故だ」
「でも、もし俺が運転していなければ……」
「仮定の話は意味がない」
純也は涙を流した。
「それでも、変えたいんです。あの選択を」
老人は深いため息をつく。
「わかった。では、契約書にサインを」
老人は、古びた羊皮紙を取り出した。そこには、難解な文字で何かが書かれている。
第一条:過去改変後、元の世界には戻れない。
第二条:改変後の世界での記憶はあなたのみが保持する
第三条:改変後の一切の結果について当局は責任を負いません
純也は震える手でペンを取った。
「サインしたら、すぐに過去が変わるんですか?」
「いや。まず、改変後の世界をシミュレーションで見てもらう。それでも変えたいなら、正式に改変する」
「シミュレーション?」
「ああ。改変後の5年間を、夢のような形で体験してもらう。それを見てから、最終決定をしてくれ」
純也は、サインをした。
老人は奥の部屋を指差す。
「こちらへ」
奥の部屋には、古いリクライニングチェアがあった。
「ここに座って」
老人が、純也の頭に古い機械を装着した。
「では、始める。5年前のあの日に戻り、君は運転しないことを選ぶ。そこから、時間は流れていく」
「わかりました」
機械が起動した。純也の意識が遠のいていく。
気がつくと、純也は車の助手席にいた。
5年前の、あの日だ。
運転席には、美咲が座っている。
「純也、本当にいいの?私、運転あんまり上手じゃないんだけど」
純也は——過去の純也は答えた。
「大丈夫だよ。俺、ちょっと体調悪いから」
これは、改変された過去だ。
純也は、助手席から美咲を見た。
笑顔の美咲。生きている美咲。
車は、交差点に差し掛かった。純也の心臓が激しく鼓動する。
来る。トラックが来る。そして、その時が来た。
信号無視のトラック。
美咲が叫ぶ。
「危ない!」
美咲は咄嗟にハンドルを切った。
純也を守るために。
激しい衝撃。ガラスが砕ける音。金属が軋む音。そして、暗闇。
純也は、病院で目を覚ました。
全身が痛い。しかし、生きている。
医者が言った。
「奇跡的に助かりましたね。でも、彼女は……」
純也は叫んだ。
「美咲は!?美咲はどうなった!?」
医者は、悲しそうに首を横に振った。
「助けられませんでした。すみません」
純也は、絶望した。
結局、同じだ。
美咲は死んだ。そして、自分は生き残った。
時間が流れ、純也は退院した。心は壊れていた。
元の世界では、純也は自分を責めた。
「俺が殺した」と。
しかし、この世界ではもっと辛い。
美咲が自分を守って死んだのだ。
純也は、働けなくなった。部屋に引きこもり、ただ美咲の写真を見つめる日々。
友人が心配して訪ねてきた。
「純也、いつまでそうしてるんだ。美咲さんだって、お前がこんな風になることを望んでないぞ」
純也は答えなかった。
1年が過ぎた。
純也は、アルバイトを始めた。コンビニの夜勤。人と関わらなくていい仕事。
ある日、客として美咲の母親が来た。
「純也くん……」
母親は、やつれていた。
「あなたのせいじゃないのよ。事故だったんだから」
しかし、その目には非難の色があった。
なぜ、あなたが生き残ったの。なぜ、娘が死んだの。
純也は、何も言えなかった。
2年が過ぎた。
純也は、カウンセリングを受け始めた。しかし、良くならず、むしろ悪化した。
カウンセラーは言った。
「あなたは、サバイバーズギルト、生存者の罪悪感に苦しんでいます」
「わかってます」
「でも、それはあなたのせいではありません」
「わかってます!頭では!でも、心が……」
純也は、泣き崩れた。
3年が過ぎた。
純也は、死ぬことをを考え始めた。
もう、生きている意味がない。
美咲が自分を守って死んだのに、自分はこんな無様に生きている。
ある夜、純也はビルの屋上に立った。飛び降りようとした。しかし、できなかった。
「美咲、ごめん……俺、死ぬことすらできない……」
4年が過ぎた。
純也は、ボランティア活動を始めた。せめて、誰かの役に立とう。美咲の分まで。と。
交通遺児の支援団体で働いた。そこで、純也は気づいた。自分だけじゃない。多くの人が、愛する人を失って苦しんでいる。しかし、彼らは前を向いて生きている。
純也は、少しずつ変わり始めた。
5年が過ぎた。
純也は、28歳になっていた。元の世界と同じ年齢。
しかし、この世界の純也は、もっと傷ついていた。もっと深い闇を抱えていた。
ある日、純也は美咲の墓を訪れた。
「美咲、俺、やっとわかったよ」
「お前が俺を守って死んだこと、それは俺の責任じゃない」
「でも、お前の死を無駄にしないこと、それは俺の責任だ」
「だから、生きる。お前の分まで」
純也は涙を流した。
しかし、その涙は以前とは違い前を向く涙だった。
シミュレーションが終わった。
純也が目を覚ます。
老人が、尋ねた。
「見たね。改変後の5年間を」
純也は、呆然としていた。
「どうだった?」
「最悪でした……」
「それでも、変えるかね?」
純也は、しばらく黙っていた。
そして、答えた。
「いいえ。変えません」
老人は頷く。
「そうか」
「わかったんです。どちらが運転しても美咲は死ぬ運命だった」
「運命…か」
「そして、俺が運転した元の世界の方が、俺にとってはまだマシだった」
純也は涙を流す。
「少なくとも、元の世界では、美咲は俺を守って死んだわけじゃない。事故で死んだだけだ」
「でも改変後の世界では、美咲が俺を守って死んだ。それは、もっと辛い」
老人は静かに聞いていた。
「過去は、変えない方がいいんですね」
老人は微笑んだ。
「そうとも限らん。しかし、君の場合はそうだったようだ」
純也が立ち上がる。
「ありがとうございました。おかげで、わかりました」
「…」
「過去を変えることじゃなく、受け入れることが大切だって」
老人は深く頷いた。
「良い気づきだ」
純也は、過去改変局を後にした。
地上に出ると、朝日が昇り始めていた。
純也は空を見上げた。
「美咲、俺、もう大丈夫だ」
「お前の死を、受け入れる」
「そして、お前の分まで生きる」
風が吹いた。
まるで、美咲が「頑張って」と言っているかのように。
純也は、歩き出した。
新しい一日へ。
過去を背負いながら、しかし前を向いて。
それから1年後。純也は、交通事故遺族の支援団体で働いていた。
ある日、新しいメンバーが加わった。
25歳の女性、佐々木香織。
彼女も、恋人を交通事故で失っていた。
「初めまして。木下です」
「佐々木です。よろしくお願いします」
香織は、まだ悲しみの中にいた。
純也は、香織に寄り添った。
自分が経験した痛み、苦しみ、そして乗り越え方を共有した。
香織は、少しずつ前を向き始めた。
「木下さん、ありがとうございます。あなたのおかげで、少し楽になりました」
「いえ、俺も同じ経験をしたから」
ある日、二人は一緒にコーヒーを飲んだ。
「木下さんは、もう吹っ切れたんですか?恋人さんのこと」
純也は、首を横に振った。
「吹っ切れてはいません。今でも、美咲のことを思い出します」
「じゃあ……」
「でも、受け入れました。彼女の死を。そして、その痛みと一緒に生きていくことを」
香織は、涙を流した。
「私も、そうなりたいです」
「なれますよ。時間はかかるけど」
二人は、しばらく黙っていた。
そして、香織が言った。
「木下さん、もしよければ、また話を聞いてもらえますか?」
「もちろんです」
純也は、微笑んだ。
美咲は死んだ。
それは変わらない。
しかし、美咲の死が、今、誰かを救っている。
純也の経験が、香織を支えている。
それは、意味のあることではないか。
美咲も、きっと喜んでくれるだろう。
数年後。
純也と香織は、結婚した。
結婚式の日、純也は美咲の写真を持っていった。
「美咲、見てるか。俺、幸せになったよ」
「でも、お前のこと、忘れてないから」
「お前は、俺の最初の恋だった。それは、永遠に変わらない」
香織が、純也の隣に来た。
「美咲さんに、挨拶してたの?」
「ああ」
香織は、美咲の写真に向かって言った。
「美咲さん、純也さんをお借りします。大切にします」
純也は、香織の手を握った。
「ありがとう」
「ううん。私も、前の恋人に同じことを言われてるような気がするから」
二人は、微笑み合った。
過去を背負いながら。
しかし、未来を見つめて。
過去改変局は、今日も営業している。
老人は、新しい客を待っている。
過去を変えたいと願う人々。
しかし、老人は知っている。
本当に必要なのは、過去を変えることではなく、受け入れることだと。
それに気づいた人だけが、本当の意味で前に進める。
老人は、そう信じている。
今夜も、誰かが訪れる。
過去への後悔を抱えて。
老人は、迎え入れるだけだ。
そして、問う。
「本当に、過去を変えたいのかね?」
一人の若い女性が窓口に来た。
「あの、過去を変えたいんです」
老人は、いつものように尋ねた。
「何を変えたい?」
「3年前、私、親友を裏切ったんです。彼女の恋人を奪って」
「それで?」
「彼女は、自殺しました。私のせいで」
女性は、泣き崩れた。
老人は、静かに言った。
「改変後の世界を見せよう。そして、決めなさい」
女性は、頷いた。
物語は、続いていく。
人々の後悔と共に。
しかし、その後悔から学ぶことで、人は成長する。
老人は、そう信じている。
だから、今夜も窓口を開けている。
暗い地下鉄の通路で。




