霜見草
すみません、ありがとうございます。
良いよ、通り道だから。
それ以降の会話は無く、車内にはタイヤがアスファルトの上を擦る音だけが響いている。
「…あの、」
宮本がマフラーから口を取り出す。
「…何?」
「大澤さんは、サッカーをやっていたのですか?」
「え、あぁ、小学生から高校の時までやってた」
「そうなんですね、寛があれから毎日のように大澤さんがやってた技を練習してるんです」
「…技って、ほどでもないけど」
むず痒さが込み上げ、頰が上がる。
「また、会う事があったら教えてあげてくれませんか?」
「おう、いいよ、分かった」
ヘッドレストに隠れて左半身だけがバックミラーに写る宮本は、何処か安心したように顔が和らいで見えた。
西陽に照らされて静かに座るその姿を、俺は無意味に何度も確認していた。
白く浮いたまつ毛が、肌が、髪が、消えてしまいそうな程、儚く見える。
「…あれ、このウエス、どうしたんですか?」
「え?」
宮本は体を倒すと運転席のシート下に手を伸ばす。
首を伸ばして鏡越しに確認すると、彼女が手に持っていたのは俺が久保田製作所から持ち帰った物だった。
「あっしまった」
鑑識に出し忘れていた事が発覚し、心の声が出てしまう。
「すみません、触ってしまって大丈夫でしたか?」
「いいよ、その辺に置いといて」
宮本は袋に視線を固定したまま座席にそれを置く。
「あの、一つ聞いても良いですか?」
「何?」
「大澤さんは何故警察官になったんですか?」
「…特に、理由はない」
よく聞かれる質問だ。
だからいつも同じ返答をしている。
速度を落とし、タイヤが小石を跳ねながらゆっくりと車体が止まる。
「ありがとうございました、助かりました」
何度も頭を下げながら宮本は車を降りる。
車を発進させようとすると、小さな叫び声と共に物が落ちる音が聞こえ、ブレーキを再び踏んだ。
ハンドルを握ったまま少し間を置き、溜息を吐く。
「すみません、お手数かけます」
「いいよ、ついでだ」
買い物袋を抱えて階段を登っていく。
部屋に上がり込み、袋を倒さないようにキッチンの上に乗せる。
宮本姉弟の住居は8畳1Kで物が多く、活気のある生活が伺えた。その多くは学校の物やスポーツ用品など、寛の物ばかりだった。
大人の靴は1つ、2つに対し、子供の靴が何足も並んでいる。
「2人だけなのに、この量は多くないか?」
買い物袋を指差して聞く。
「これは作り置き用なんです、寛が1人の時にチンして食べられるように」
そう言うと、宮本は大福のように柔らかな笑顔を見せた。
俺は口を開くが、適切では無いと思い、それを飲み込んだ。
「あの、大澤さん、もう少しお時間、大丈夫ですか?」
「あぁ、大丈夫だけど」
「これ…」
宮本が手を伸ばすと細い指が脇腹を掠り、思わず体が反応する。
「あ、ごめんなさい、ここ、破れてるから直しても良いですか?」
宮本の触れた箇所を見ると、破れて羽毛が飛び出ていた。
「え、あぁ、おぉ、」
アホみたいにしどろもどろになりながら、ダウンを脱いで渡す。
唸るように熱風を吹き出すストーブ。
灯油を燃料とした暖房器具の匂い。
冬の、暖かく懐かしさを感じる音と匂いだ。
宮本詩音はお菓子の空き容器に入れた裁縫道具を傍らに、黙々とダウンを縫い合わせていく。
爪にはまだ機械油の黒さが残り、手はあかぎれで所々赤くなっている。
「…いつから、このアパートに?」
俺の質問に宮本は顔を上げる。
「父が居なくなってから、なので10年ちょっとです」
「ずっと、1人で頑張って来たのか?」
「1人では無いですよ、寛がいますから」
なんでも無い会話のはずなのに、胸を締め付けるような、寂しさに似た感情が込み上げてきた。
「……もっと…自分を大切にしろよ」
ほぼ無意識にそう口走っていた。
さっきは飲み込んだのに、何言ってんだ、馬鹿。言った事をすぐに後悔するが、言葉が続かなかった。
負い目を感じながら視線を向けると、宮本は驚きと戸惑いの表情を浮かべている。
だが、ふにゃりと柔らかい顔をすると言った。
「私、幸せですよ」
それを聞いた俺は奥歯を噛み、目を逸らした。
組んだ腕の中でぐっと手を握り締める。
伸ばしたい衝動を、抑える為に。
玄関の扉を開けると、外は薄暗くなっていた。
「ダウン、ありがとう」
「いえ、こちらこそ、色々とありがとうございました」
宮本は下げた頭を戻すと、口が微かに動いており、まだ言葉を続けるような仕草を見せた。
でも何処か躊躇いも感じ取れる。
「…あの、」
「…大澤さんも、ご自愛、下さいね」
それを聞いた俺は一瞬固まるも、直ぐにふっ、と吹き出した。“そっちもな”と遠回しに言い返されてしまった事が可笑しくなったのだ。
それを見た宮本も笑顔になる。
「じゃあ、寛によろしく」
「はい、お気を付けて」
宮本家を後にした俺は軽快に階段を降りると車に乗り込んだ。
シートベルトを装着すると、後部座席の“ウエス”が目を入る。
一気に外気の寒さが染み込み、眉が下がっていく。
スターターボタンを押してエンジンを掛ける。
これから向かう場所はもう決めている。
俺の1日はまだ、終われない。




